今日は土曜日なので、朝、ベットの中でうつらうつらしていたら、突然電話が掛かって来た。もしかしてあいつかもしれないと思って、電話に出なかった。私のところにはめったに電話など掛かってこないから、きっとあいつだと思った。あいつには木曜日にうっかり電話番号を教えてしまったのである。一時間ぐらいしたらまた電話が掛かってきた。何時までも鳴っているので、仕方がないから、電話を受けてみたら、やっぱりあいつだった。決して豚を食べない回教徒の売人だった。あいつだとか売人だとか言うと、いかにも怪しそうであるが、そんなには怪しくもないのである。甘粛省の臨夏だったか、臨?だったかの回族の回教徒であるのは確かである。

  何故あいつなどと言うかというと、新石器時代の土器を、買え、買えとうるさいからである。うるさいのは、相手は商売人だし、私も後で買うといったから、仕方がないのだけれど、休日の朝早くから電話など掛けてくるのはやっぱりうるさい。

  そうして、とうとう石器時代の"盆"を売りつけられてしまった。"売りつけられてしまった"なんて言うと子供ではないのだから、嫌なら買わなければいいではないかと言われそうだが、やっぱり売りつけられてしまった。実は私もそれを買うつもりであった。買うつもりではあったが、今はゴールデンウイークの前なので、旅行でお金も掛かるから、買うのは後にしたかった。

  本当はあいつなど言うのは失礼なのである。よく考えてみれば、その人物とは友達でもある。友達だから安くするよ、と何時も言われて、勝手に友達にされてしまっていた。

   最近は、休日ともなれば、毎週、潘家園の骨董市に、掘り出し物はないかと出かけている。おまけに、会社の近くでも木曜日には骨董市が開かれて、そこにも昼休みに必ず見に行く。その二つの骨董市に、何時も現れるのがあいつで、実は回教徒の露天商のおじさんなのである。そのおじさんは骨董市で何時も獲物は来ないかと、網を張って待ち構えている。私の方はわざわざ網に掛かりたくはないが、やはり近づかなくては、掘り出し物が見つからないから、近づいて行くことになる。虎穴に入らずんば虎子を得ずの心境である。私は既にそのおじさんから、何個か土器を買っているから、おじさんから見れば、いい獲物と思えるのだろう。だから人込みの中でも、遠くからでも私のことを見つけてしまう。

  先週の木曜日の定期市のことなのだが、昼休みに出かけていったら、例の如く、そのおじさんが来ていて、すぐに見つかってしまった。そこで前から勧められていた"盆"を買わないかという話になり、私もこれならと考えていたので、かなり値切って、買うことにした。但し、その時、相手はその品物は持って来ていなかったし、私も金が無かったから、後で買うという話にした。そのとき、連絡の為に電話番号も教えてしまっていた。

  それで土曜日の朝の電話になるのだが、相手は何とか早く現金にしたので、品物を届けるという。もっと後にしてくれと言っても、そのときは大連に行くからダメだとか言う。電話番号を知られた上に、住んでいるところまで知られてしまってはうるさいから、結局報国寺(骨董市が開かれるところ)の前で落ち合って、その品物を買う事にした。11時ごろになって、品物を持ってきたという電話があり、お寺の前まで品物を取りに行った。

  品物を受け取る際にそのおじさんは、一冊の本をくれた。その本は、新石器時代の彩色土器の解説した本なのだが、その本の始めのところに、協力者として、このおじさんの名前が、甘粛省古陶収蔵家○○先生として載っていた。このおじさんはどうも収蔵家でもあるらしい。だからこのおじさんのことをあいつなんて言っては、やっぱり失礼に当るのである。だけれど、古陶収蔵家の○○先生が露天で土器を売るものなのだろうか。

  その話はともかく、今回買った物は、実は一ヶ月も前から、そのおじさんが私に売りつけたがっていた物なのである。とても珍しい物だと言っていた。そんな貴重なものなら直ぐ売れてしまいそうな物だが、やはりなかなか売れないらしく、それで私に盛んに勧めているらしい。「今すぐ買わないと、次の時にはもう無くなってしまう」などと何時も言うけれど、無くなった試しが無い。やはり土器なんてものがそうは右から左へと捌けるはずがないのが普通だろう。実際、このセールストークは何時も聞くが、信じない方が賢明である。そうは言いながらそれを信じてしまったこともある。

  実は家族には内緒なのだが、買ってからしまったと思う物もある。切羽詰まって買うのでは碌な事がない。買ってしまってから反省する羽目になったこともある。こう言うことを学ぶには費用がかかる。今回は私の方も買うまでに時間があったから、よく考えた上での買い物だった。でも、今は買いたくなかったので、押し付けられて買わされてしまったようでもある。

  家に持って帰って食事をしてから、この新石器時代の土器を眺めているうちに、その収蔵家でもある○○先生が以前に言っていたことを思い出した。これと同じ物が国立歴史博物館に有って、あっちのは割れているが、こっちのは割れていないと言っていたことを思い出した。だから価値がある物だとも言っていた。私も天安門広場の東にある歴史博物館で、それを見たような気もする。

  そこで早速中国語のサイトを一生懸命検索してみた。すると案外簡単に国立歴史博物館の盆が見つかった。私が買った盆とよく似ている。私が買ったのも、博物館の盆も、そこには五人の踊り手が、手を繋いで踊っている絵が画かれている。この図案は新石器時代のある文化の、特徴的な文様なのだそうである。本当は鉢といってもいいのかもしれないが、中国語の陶器の世界では、鉢の縁が厚くなっているのを盆と言うらしい。

  確かにあっちのは割れていて接着してあるが、こっちのは割れていない。文様もそっくりである。更に貰った本の方を調べてみると、そこにも同じ盆が、国立博物館収蔵の物として載っていた。確かに珍しい物だから博物館にあるのだろう。それならば、それと似ているこっちの物も、国立博物館級の物か、割れていないからそれ以上の物かもしれない。しかしこの問題はよく考えてみなければならない。私の給料は高いわけでもないし、親の遺産をはたいて買ったわけでもない。この問題には付いては、私なりに結論を出したのだが。

  古陶収蔵家の○○先生に貰った本を早速見てみると、土器の真贋判別法なんて項目もあった。真贋の判別法を書いた本を呉れたくらいだから、あの人は案外いい人で、正直な回教徒なのかもしれない・・・・・・  そしてあの盆は間違いなく本物であるに違いない・・・・・・・  ○○先生のお陰で、本当にいいものが手に入ったのかもしれない・・・・・   

  でもそんなに何もかも信じてしまっていいものかどうか・・・・・    そこが問題なのである。その本をよく読んでみると、数々の贋作の作り方の例が載っていた。実際のところ私の語学力ではこの中国語の全部は正確には読み取れない。これを正確に誰かに読んで貰って、読み進めた方がいいものかどうか・・・・・、  何かパンドラの箱を開けてしまう結果になるようような気もする。

  この本によれば鑑定力の養うには、「四多」が重要と書いてある。多くの実物を見ること、多くの綺麗な図録を見ること、多く思考すること、多く実践をすることだそうである。最後の実践とは実際に触ってみることであるらしい。私の場合、骨董屋には勿論よく行くし、博物館に行ったこともあるし、高価な土器の図録を買って来て、典型的な文様は何か、綺麗なものは何かも見ているし、偽物とはどんなものかと思考してみたりしている。その点は、鑑定力の養う為の「四多」を実践しているのだが。

  ちなみに○○先生の家がある甘粛省の臨夏の辺りは、5000年程前の馬家窯文化の土器がたくさん出るところなのである。だからあれは偽物ではないといいたいのであるが、あの先生に貰った本を読んだお陰で、迷いが出てきたしまった。

  以上が、土曜日にあった出来事でした。


土曜日の出来事