中国にいれば、異国に居ることになるわけだが、今では、あまり異国にいるという感じもしなくなった。しかし、新疆の音楽が聞こえてくると、また別である。北京のレストランシアター・アーバンテン(阿凡提)に行って、新疆の踊りを見て、太鼓のリズムを聞けば、異国情緒にたっぷりと浸れる。あの激しいリズムと妖艶な踊りは、確かに、はるか向こうのシルクロードのものである。しかし、しょっちゅうレストランシアターで食事と言う訳にはいかない。ところが私の会社の近くで、その雰囲気が味わえるのである。しかも130円の食事代で。

  場所は会社の近くの報国寺の門前である。そこに汚い軽食屋(小吃)が並んでいて、その中に、シシカバブ−(羊肉串)を焼いている店がある。そこに行って、シシカバブ−と新疆の麺を食べていると、遥か彼方の、新疆の旅の思い出が蘇えってきて、異郷にいる気分に浸れるのである。この寺の門前はいつも賑わっている。それは、ここで常設の骨董市が開かれていて、人が集まるからである。木曜日の骨董市は一番にぎやかで、この日はいつもの三倍くらいの店が出る。

  異郷にいる気分になれるのは、シシカバブ−が美味しいとか、新疆風だからかとか、いう理由ではなくて、耳から聞こえてくる音楽と言葉によってそうなるのである。この店ではいつも新疆の音楽がかかっている。大抵は速いリズムの、太鼓の伴奏がある民族音楽である。太鼓といってもこれはタンバリンを大きくしたような楽器である。音楽は擦り切れたテープから聞こえる音なので、相当雑音が入っている。しかし、速いテンポの太鼓の音は、はっきりと人を煽り立てる。タンバリンのような太鼓は、叩き方と叩く場所によって、様々な音色とリズムを叩き出す。

  この音楽を聴いていると、足だけでなく、首まで動かしたくなる。この首の動かし方はよく説明しないと分かって貰えないかも知れないが、インドの踊りのように首を左右に動かす動作である。つまり振り子のように頭を振るのではなくて、あごの先も左右に動かすという感じ、・・・なのだが、新疆の踊りにはそういう踊り方がある。

  音楽もそうだが、言葉も異国の感じを起こさせる。テープから聞こえる音楽は勿論ウイグル語である。店の主人も従業員もウイグル人で、注文を取る以外は、ウイグル語で話している。ウイグル語は中国語のような起伏の激しい言葉ではなくて、話し方が平板で、語尾が茨城弁のように跳ね上がる。なんかプチプチュ、プチプチュといっているようにも聞こえる。巻き舌の音もあるようにも思える。ロシア語にも近いのだろうか。

  異国を感じさせる理由は、耳からばかりではなかった。目からもあった。主人と従業員の顔は異郷の人の顔なのである。鼻が高く、眼が凹んである。主人の目は確かに青っぽい。女主人の顔はかなり白い。やはり中国人と違うコーカソイド系の顔である。

  シシカバブ−はどこでも売っているから、シシカバブ−を食べたくらいでは異郷に居る気分にはならない。しかしシシカバブ−にしても新疆の麺にしても、これは新疆ウイグル地区のものである。中国の麺と言うのは腰がない。日本のラーメンとは全然違い、茹で過ぎて消化しやすくなったような麺である。これに対して新疆の麺はかなり腰がある。スパゲッティ−のアルデンテの様に硬い。讃岐うどんの腰とちょっと違うが、まあ、日本人の口には、中国式ダラダラ麺よりずっとあうかもしれない。それに味付けにはトマトソースをよく使い、スパゲッティ−イタリアンと似ていなくもない。この料理は、余り中国人が食べないものである。

  昼食に、このシシカバブ−と新疆の手作り麺、ラーテャオズ(拉条子)を注文して、店先に並べたテーブル(あまり清潔ではない)で、春風に吹かれて新疆の音楽を聞きながら、これを食べる気分は、なかなかのものである。北京は今まさに、長い冬が開けたところで、いろいろな花が咲きだした。

  巴里のコーヒー店の店先で、コーヒーを飲見ながら、行き交う人々を眺めても、異邦人の心境に浸れると思うが、報国寺の門前で、シシカバブ−を食べながら、路地を通る人々を眺めていても、異国にいる気分になれる。しかしここでは粋におしゃれをした人など、一人も通らない。殆どが着たきりすずめで、春になっても着膨れたままで、センスがよくない、余り清潔とは思えない服を着た人たちばかりである。ここで、私がシシカバブ−を食べていると、何を食べているのかと、無遠慮に覗き込む人もいる。同じ異郷でも巴里とは大違いだと思うが、このシシカバブ−の店がエキゾチックであるのは間違いない。但しちょっと汚いエキゾチックさであるけれども。

  この、「異境に居る気分」になれる店も、どうやら取り壊しになるらしい。日本から戻って、例の如く昼休みの散歩に出かけたら、寺の門前一帯を取り壊すという公示がでていた。安くて美味しくて、新疆に行った気分になれる店なので、残しておいて欲しいとは思うけれど、まともなトイレも無いような住宅では、やはり取り壊した方がいいのかもしれない。しかし再開発されてきれいになってしまうと、元の住民はもうここには戻れないのだろうし、このように安くて汚い店も、戻っては来られないのだと思う。

  ちなみに、昼食代が130円と言うのは、実は元はもっと安かったのである。始めは麺が6元で、それにシシカバブーを三本食べると丁度よくて、合計9元だったのだけれど、女主人が、面倒だから10元になるようにシシカバーブーを4本にしろというので合計10元(約130円)になってしまった。

  ついでに思い出したが、ここ店の6元の麺というのは、大中小のうちの小で、量が選べて便利なので、そんな事もこの店を気に入った理由である。一方、我が牛街の回教徒食堂に行くと、量が一定で、凄く多いのである。大食いの中国人でも食べきれないくらいの量である。あれは一人分と言う量ではなくて、中華料理の一皿分という単位でなのかもしれない。山盛りにして出せば誰でも喜ぶだろうと思ってこんな料理になるのかもしれない。こんなのを一人で注文した客に出したら、食べきれないのは分かるはずだろうといいたくなる。多分彼らの気持ちの中には、余るから勿体ないと言う気持ちはないのだろう。あのシシカバブーの店が気に入ったのは、エキゾチックさばかりではなく、無駄が出ないというところも、「もったいない」という気持ちが残っている日本人(私のこと)と波長が合ったのかもしれない。中国人から見ると小気(けち)と見られるかもしれないけれども。

  本当は、この国の料理の一皿の量が、ばかに多いのも、これも一つのカルチャーギャップのなのだろうから、これを見れば、ここは日本と違うのだと異郷を感じるかもしれないが、私の場合、異郷を感じる前に、料理の量の多さに腹がたってしまうのである。一皿の料理の量の多さには、何年も中国にいても、今でもあきれてしまう。

異国にいる気分