今までの大興区黄村鎮棗園という郊外の団地から、北京の中心にも近い牛街に引っ越しました。黄村鎮は北京の五環路の外ですが、今度は二環路の内側です。だから北京の中心部にも近いのですが、高級マンション街という言うわけではなくて、牛街です。広安門内大街にある会社にも近いし。デパートのSOGOにもタクシーのワンメーターで行けます。

  引越し先のビルのエレベーターおばさんの情報収集力は凄いです。もう私のことを知っていました。エレベーターおばさんがなにやかや話掛けるのですが、全部は聞き取れないから、やっぱりここは外国人であることを言っておいたほうがいいかなと思い、実は私は中国人じゃないのだけれど、と言ったら、「知ってるよ、日本人でしょう、大屋さんから聞いた」とのことでした。団地と言うかマンションというか19建てのビルの9階に引っ越しました。

  その後、そのエレベーターおばさんは、会うたびに 私の毛が少なくなった頭を見て、帽子を被ったほうがいいと忠告してくれます。確かに今の北京は相当寒いです。特に会社から歩いて帰る夜は、マイナス7,8度位になるので、脚がほんとに寒いです。中国人並に毛糸の股引を穿きたいくらいです。ですが頭のほうはあまり気になりません。却っておばさんの方が、私の頭が気になるようで、頭を冷やすのは中国的養生訓からみて、体に悪いことがあるのかもしれません。

  ここが高級マンションではないという根拠の一つは、このマンション(?)にエレベーターおばさんが居るということです。エレベーターは三台ありますが、動いているのは何時も、エレベーターおばさんが居る一台だけです。エレベーターおばさんに行き先を告げると、おばさんは座ったまま、棒で行き先の階のボタンを突っつきます。このおばさんは住民の顔を全ては把握しているようです。本当は行き先の階を言わなくてもいいのかもしれません。そして、このエレベーターは夜の12時で止まってしまい、翌朝6時まで動かないのです。飲み過ぎて、帰宅が12時過ぎになったらどうしようかと今から心配です。もし飛行機が遅れて、家に帰りつくのが12時過ぎになってしまったら、重い荷物を持ったまま呆然としてしまうでしょう。

  高級マンションであれば、エレベーターは自分でを操作できて、24時間使えるはずです。でも何でエレベーターおばさんが居るのでしょう。失業対策か、はたまたここの住民にエレベーターの操作を任せるには、信用が出来ないからなのか。しかしおばさんが居なくて、自分でエレベーター動作するときもあります。

  牛街とは、チョト変わった街です。北京人に牛街と言うと、ああ、回民が居る街かと直ぐ分かるでしょう。牛街は北京の宣武区にある、牛街清真寺という回教寺院の周りの街です。その牛街には回教徒がたくさん住んでいます。大屋さんの話によると80%は回教徒だとのことです。回教徒には、ウイグル族とかほかの回教徒もいますが、牛街にいる人達は回民とも言われる回族です。


   回族は中国の少数民族の一つですが、顔つきからは私には漢族と区別ができません。実は回族とは、他の少数民族に属さないイスラム教徒を、一つの少数民族と見なして「回族」として、漢族とは宗教のみで区別した、とのことです。本当の意味の少数民族ではないようです。ところで何故中国語でイスラム教を回教と言うかというと、昔ウイグル族は“回と糸偏に乞の二字”、その後は“回鶻”と言われていたので、そのウイグル族が信じている宗教ということで、回教と名前が付けられたらしいです。そのウイグル族ですが、今でも回教徒ですが、上の事情から回族とは呼ばれないで、ウイグル族と呼ばれています。ウイグル族は本当の意味の少数民族で顔つきも漢族とは違っていて、西洋的な顔をしています。

  牛街の中心にある牛街清真寺の歴史はかなり古く、既に遼代(996年)に建立されたそうです。北京では最も古いイスラム寺院です。遼・金・元の時代には異民族王朝であったために、西方から多くのイスラム教徒が北京にやってきたらしいです。特に元朝(1279〜1368)の時、北京が元の都、大都となり、多くのイスラム教徒が入京し、イスラム教が盛んになったそうです。そして元のフビライ・ハーンが、いわゆる「色目人」を、このあたりに住まわしたのがこの牛街の起源だといわれています。「色目人」と言えば、その時代の住民は、目の色が違った色をしたいたのかもしれません。今の牛街には「色目人」らしい人は居ないようです。
   (浅野純一さんと言う方のページから参照) 
   http://www.otemon.ac.jp/asian/02kankogaku4/4asano.htm 

  なお牛街の名前の由来も捜し出しました。人民画報の牛街物語というページを見ると、昔、ここにざくろ園があって、榴街と呼ばれていたそうです。その榴が訛って牛になったとのことです。榴は「リュウ」、牛は「ニュウ」と読みます。牛街を中国語では「ニュウジエ」です。
   (人民画報の牛街物語のページ)
   http://www.rmhb.com.cn/chpic/htdocs/rmhb/japan/200305/3-1.htm

  上記の牛街物語の紹介では、「以前の牛街は、住宅の70%が清の末期に建てられた古い民家で、増水期になると家屋管理部門の警戒エリアになっていた。先ほど実施された老朽危険家屋改造プロジェクトの予備調査でも、牛街には7500戸の老朽危険家屋があるとされ、その再開発面積は34万uに達した。これは北京で最も大規模な再開発工事である。新しく建設された牛街住宅団地には回族小学校、イスラム賓館、飲食街もあり、牛街の民族的な雰囲気は保たれている」と紹介されています。

  しかし「牛街の民族的な雰囲気は保たれている」と言う部分は違います。牛街清真寺以外は、ガラリと改造されてしまいました。確かに回族向けの飲食街も回教徒用のスーパーもありますが、これらは大きな建物の中に収容されてしまって、看板だけが見えるという状況に変わってしまいました。浅野純一さんと言う方のページには、「かつていささか雑然とした古い街並みがつづき、確かに他の地域と違う街の臭いがしていたのだが、今回訪ねてみると道路は三倍ほどにも拡張され、この大通りに面して立っていた古い四合院風の平屋は取り壊され、大きなショッピングセンターとマンションが威容を誇っている」と言う風に変わってしまいました。

  かってはあったであろう羊肉串屋とか、軽食の店は全くありません。北京の他の街なら、羊肉串を焼いてる店はよく見かけるのですが、それが全く無くなってしまい、ただビルの中に収容された飲食街だけにあります。だから「牛街の民族的な雰囲気は保たれている」という見方は、「人民画報」という御用メディアのページならではの表現かもしれません。そういえば、私が借りた部屋があるビルには緑色の横線が塗ってあります。この緑色はイスラムのシンボルカラーなのですが、「人民画報」の記者はこれを見て、「民族的な雰囲気」と感じたのかもしません。

  多少なりとも牛街の民族的な雰囲気を保っているところと言えば、牛街清真寺とか、回族用のスーパーの看板とかぐらいです。ほかには、回教徒が被る丸くて白帽子とか、女性ではベールを被っている人もいます。ほかには他では見かけない看板があります。少数民族が踊ってる絵と、民族は団結しよう! なんて標語が書いてありました。こういう宣伝をするというのが何か怪しい感じもするし、少数民族と言えば踊り、と言うのも何か陳腐な発想のような気がしますが、これも「民族的な雰囲気」といえば言えるかもれません。

  私が思うに、この地区が平屋や胡同(北京の路地の事)からなっていたとすると、昔からの住民の他に、当局から見れば得体の知れない人とか出稼ぎの人も、間借りなどして、雑居して住んでいたのかも知れません。そして雑然とした雰囲気のところであったのでしょう。しかし再開発によってそんな人居なくなり、めでたく追い出す事が出来たという一面もあるようです。再開発によって新しく出来た団地に入れるのは、当然正規の権利を持っている、以前からの北京人に限られるはずですから。

  牛街は見た目には他の街とあまり変わらなくなりましたが、回りの住民達から見るとは、今でもここに雰囲気を感じるようです。不動産屋は、ここでは言葉に気をつけるようにと言っていました。"豚"とは言っていけないのだそうです。大屋さん曰く、豚肉は自分の家の中で食べるのならばいいとのことです。会社の掃除のおばさん曰く、この地域では一切豚肉を売っていないとのことです。回教徒にとって豚は汚らわしいものとしてタブーとなっています。ちなみに、回教徒の為にスーパーで売っている牛や羊の肉は、見た目には何の変わりもありませんが、イスラム教の経典?規則?に従って、宗教的な処理済みの肉だそうです。

  最後に私が入居した高層ビルが、高級マンションではないという根拠をもう一つ挙げておきます。それはマンションの入り口が、新築でありながら既に相当汚くなっているということです。エレベータの前まで、オンボロ自転車が並べられています。この様子はかっての牛街の胡同とか四合院の乱雑さを、新築ビルの中でも再現しているのかもしれません。しかしこの乱雑さは、私から見ると、「民族的な雰囲気」と言うより、「漢民族の乱雑さの雰囲気」のように思えます。

牛街に引っ越しました