なぜ5000年の壷に感動しないのだろう。5000年の壷とは、今から5000年前の中国の新石器時代の壷のことである。今回、日本に戻ったときに、5000年前の壷を2個、4300年前の壷も1個、中国から持ち帰った。4300年の壷の方は、同じ会社の中国人が一緒に日本に行ったので、持って行って貰った。日本へ着くと、妻が早速こんなものを置く場所は家に無いわよとのご宣託であった。高さも幅も30センチ以上はあるものなので、場所を取ることは確かなのであるが、これは5000年前の壷であると教えたのだから、まあ、古いも物なのね、なんて言ってもいいはずではないかと思うのであるが。それなのにのっけから置く場所が無いなんて言い方は、チョッと酷すぎるのではなかろうか。

  以前日本に持ち帰った小さい壷の方は、花器に使われていてカビが生えてしまっていた。貴重な骨董品にカビを生やしてしまうなんて何と言うことをするのかと思ったが、これも4000年とか5000年前の古さの凄さが分からないからなのだろう。この古い時代の壷(アンダーソン土器とも言う)のデザインや色彩は結構モダンなので、花器に使ってもいいのだが、800〜1000度で焼かれた土器なので、水が滲み出すのである。それでカビだらけになっていた。

  この壷がめったに手には入らない貴重な物だということを強調するために、5000年前の物だと何回も言ったのだが、どうもその言葉に反応しない。妻だけではなく、子供達もどうもビックリしない。養老孟司さんの「バカの壁」という本の中に、分かったつもりの言葉に対しては、それ以上知ろうとしないから、知っていると思っていても理解が不能だ、というようなことが書かれていた。この理屈は多分当たっていると思う。5000年前と聞けば、なるほど5000年前かと分かったつもりになり、それがどんな古い時代なのか知ろうとしないのかもしれない。そうではなくて元々5000年前なんかに全然興味が無いから、知りたくもないのかもしれない。つまり馬の耳に念仏と言う状態なのだろう。

  5000年前と何回言っても無反応なのは、ラーメンの宣伝に「中国4000年のラーメン」とあったのが原因かもしれない。ラーメンが4000年ならば壷が5000年と言ったってたいしたことはないということになる。元々「中国4000年のラーメン」と言うことも出鱈目なのである。この壷は中国の物なので会社の中国人に、これは5000年前の壷だと言ってみても、なんとも情け無い答えしか返ってこない。打てば響くように、偽物じゃないの? なんて言われてしまった。次に言う言葉は幾らで買ったの? との質問で、やはり5000年前という言葉に反応が無い。中国には偽物が多いし、物の値段を直ぐ聞きたがる人達だから、この言い方や質問は、分からないこともない。中国では「中国5000年の歴史」なんて繰り返し言っているから、その5000年と同じだと時代だと思った人もいるかもしれない。しかし「中国5000年の歴史」という言い方もいい加減で、中国人でも何故中国の歴史が5000年なのか、知っている人は殆どいないのである。

  しかしこの壷が貴重だという一番のポイントは、やっぱり5000年前の物であると言うところだと思う。5000年前と言えば、新石器時代の頃で、国というものがようやく表れ、エジプト王国とかシュメール人の都市国家が出来たばかりの時代である。中国と言えば、まだ都市国家も、文字なども無く、金属の使用も始まっていなかった。中国文明の象徴とも言える甲骨文字や、複雑な模様の青銅器も無かったのである。道具と言えば新石器時代の石器や土器程度であったのだが、土器がどこにでもあったわけでは無く、むしろ殆どの地方には土器など無かったのではないだろうか。

  しかし中国の6000年前頃から、黄河の中流域に彩色土器を伴う文化が表れ、それは黄河文明の源流とも言える仰韶文化なのだが、その文化が西の甘粛省とか青海省の東にも伝播して、特徴のある彩色土器を持つ馬家窯文化となった。その馬家窯文化とは・・・、と縷々と説明したいところであるが・・・、妻の、「インターネットのオークションに掛けたら幾らで売れるの?」という、極めて現実的な質問に出会ってしまって、馬家窯文化の説明は妻にしないことにした。

  この壷が作られた馬家窯文化について大雑把に言えば、日本の縄文文化と同じような文化だったようで、粟などの栽培が行われていて、狩猟もしていた。道具としては磨かれた石器の石斧とか矢じり、それにこの文化の特徴である彩色土器が使われていた。そこには中国の伝統的文化とは違った母系社会の集落があった。そこで、たまには踊りなど楽しむ社会があったらしい。その証拠はこれ。そして馬家窯文化の最大の特徴は、大量の彩色土器を生産したことである。

  5000年前5000年前と、そればかりを言うと、古ければなんでもありがたいのかと言われそうなので、この壷のすばらしいところを言うと、5000年前の物でありながら、鑑賞用としても遜色が無いのがこの壷なのである。この壷の模様とか形は、5000年前でありながら、その時代の専門家、職人が描いたように思える。新石器時代に職人が居たか居ないか分からないが、新石器時代の未開の土人が作ったとは思えないような精巧な形と焼き方、熟練の職人が描いたと思われる模様、と言うところが凄いと思うのだけれど。確かにこれらの壷は実用品ではなく、鑑賞用ではなかったかと思われる。

  そんな時代に観賞用の壷があるはずが無いと言われそうだが、日本にも新潟地方から出土した火炎土器というのがある。これは中国5000年の壷と殆ど同じ時代の4500年前の物である。このことは北京で日本の歴史の展覧会があったので、それを見に行って始めて知った。火焔土器もまた素晴らしい縄文時代の造形物で、祭式用であったようで、実用品でない。岡本太郎さんがこの土器を好きだったらしいが、あの人の芸術のように、炎が燃え盛るような形である。

  中国のほうの5000年の壷がいかに素晴らしいと言っても、私一人で言っていたのでは、誰も信じないかもしれない。妻からも、「何でも鑑定団」に出してみたら? なんていわれている。何でも金に換算しなければ信じられないなんて、情け無いことであるが、やっぱり馬の耳に念仏、猫に小判。

  この壷が素晴らしいという人は、私だけではないという証拠を挙げておこう。小島鐐次郎という方であるが、この方は中国の辺境の青海省の柳湾彩陶博物館の建設に、少なからぬ寄付をした方である。馬家窯文化の土器が出土する青海省の端っこの、柳湾彩陶博物へ行く日本人なんて、一年に数人も居ないと思うが、そんな辺鄙なところにある博物館に寄付をした方である。この方が奇特な日本人と片付けられてしまっては困るが、その方は第1回渋沢栄一賞受賞者(平成14年11月)でもある、小島プレス株式会社の社長さんである。この柳湾彩陶博物館には2万件もの彩陶があるんだとか。但しここのは4600〜3600年前の物で、私のは5000年前の物だから、もっと価値が有ると信じたい。

  5000年前の物の凄さについて、いろいろと書いてみたが、興味の無い人には馬の耳に念仏かもしれない。その代表が家の妻で、「そんなに凄いのなら、売ったら幾らになるの?」といつもプレッシャーがかかる。でも古い物に凝るということは、周りのプレッシャーを跳ね返して、これが素晴らしいものだと信じて、自分の趣味に邁進するのが、これぞ本当の趣味と言う気もする。自分の趣味への迫害があってこそ、ますます自分の信念が深まると言うこともある。でもこの趣味にはもう一つの障害があって、この趣味を持ち続けるには限界が見えている。我が家は5000年の壷を集め続けるには小さ過ぎるのである。

  注;馬家窯文化の壷、通称アンダーソン土器は、以前、なんでも鑑定団に数回出品されたことがある。

5000年の壷はとても古いのだ