酒の文化が無いなんて言ったら、中国の人に怒られてしまうが、中国には酒に関するある種の文化が無いように思える。無いものを無いと証明するのは難しい事なので、中国には少ないと言っておいたほうがいいのかもしれない。しかし中国人によく聞いて見ても、ある種の酒の文化は確かに無い。

  まず中国には酒に関する歌が無い。いや少ない。昔聞いた漢詩の中に、「紅葉を焚いて酒を暖める」とか、別れる時に「更に尽くせ一杯の酒」、という一節があった。テレサ・テンの歌にも、お酒の歌が有ったような気がする。だから当然中国にも酒の歌が多いと思ったのだが、今の中国には無い。こんな事をある中国に関するメーリングリストに書いたら、ある人から昔の漢詩の中にならば沢山あると教えてくれた。

  例えば王維の
    西の方、陽関をいづれば・・・
    君に勧む、更に尽くせ、一杯の酒・・・

  テレサ・テンの歌のほうは「何日君再来」の歌詞の間にセリフが
  入っていて、(下記の部分は、MLへのある人の投稿から引用)

    さあ、さあ、もう一杯いかが、その酒をあけて下さい・・・・
    と言うセリフです。
    その「干了ロ巴!」と言うテレサの口調には、
    もう、ボクはとろけてしまいます"
      
  実は私もこの歌のセリフの部分を聞いて、日本人の感情にピッタリの歌ではないかと思った。このように古い漢詩にも、台湾の歌手テレサ・テンの歌にも酒を歌った歌は有るのだが、現代の中国には無い。

  日本になら沢山酒の歌がある。美空ひばりの「悲しい酒」とか、吉幾三の「酒よ」とか、古くは、黒田節とか、小皿叩いてチャンチキおけさとか、揚げていったらキリが無い。日本にはいかに沢山酒の歌があるか、例を揚げるのは簡単だが、そう言う話ではなく、中国には酒の歌が無いとい言うことである。しかし中国の漢詩の世界であるならば、唐の時代に、詩仙と言われる李白が沢山の酒に関する詩を書いたらしい。しかしその伝統は今ではもうすっかり無くなっているらしい。

  中国人に、酒の歌は無いのかと聞いてみたら、乾杯の歌なら有ると言う。しかしこれはヴェルディの歌劇から来た歌である。中国人が作った乾杯の歌というのはあるのだろうか。こういう歌なら中国に相応しい。国威発揚の為に祝杯を揚げる場面に、この歌が流れたとすると、ぴったりである。中国には悲しいから酒を飲む歌とか、酒で憂さを晴らす歌なんてのも無いらしい。酔って管を巻くなんて歌詞も当然無いのだろう。

  基本的に中国人は酒の歌など嫌いなんじゃあないだろうか。中国に酒の歌が無い理由とか、酒の歌が好きではない深層心理が分かれば面白いのだけれど。そう言えばテレサ・テンの「何日君再来」の歌詞の間のセリフ「さあ、さあ、もう一杯いかが、その酒をあけて下さい」と言う部分(中国語であるが)は、もともとの歌詞には無かった様な気がする。もしかしたら日本的な感情の持ち主か、または日本人を意識して、この部分を付け加えたのではなかろうか。どうもそんな気がする。

  第二に、居酒屋が無い。酒は食事をするついでに飲むのが、中国の基本である。つまみだけでお酒を飲むなんて文化は中国にはない。だから飲酒を営業目的にしている居酒屋が無い。酒を飲むためだけに入ってもいい所は、高級ホテルのBARくらいしかない。日本料理屋に行っても、慣れない中国人のウエイトレスであると、何故料理をもっと注文しないかなんて催促される。中国式はドーンと豪華に料理を注文して、酒はついで飲むものであるから、ちまちまと食べられるだけ注文する居酒屋式注文とは違うのである。中国では食べ切れないほど料理を注文するのがいいようである。

  最近は中国にもBARと言うのがたくさん出来てきた。北京には三里屯という有名なバー街もあるが、一人でぶらりと入れる日本の居酒屋とはちょっと違う気がする。中国では高倉健みたいに酒場の片隅で一人静かに酒を飲む姿は、中国では見られない。そう言えば美空ひばりの「悲しい酒は」は、女だてらに一人で居酒屋で飲んでいる場面である。中国人にとって、こんな場面はあまり共感できないのかもしれない。

  まあ、元々居酒屋が無いのだから、男でも女でも中国にそんな人がいるはずが無いとも言えるが、居酒屋が有ったとしても、中国人ではそんな人はいないだろう。ホテルのBARに行けば一人で静かに飲んでいる西洋人はいる。そう言えば、最近の中国のドラマの中で、西洋式BARで、女性が一人で洋酒を飲んでいる場面があったように思うが、あれはドラマの世界だからこその話だろう。私の認識では、中国における洋酒と言うのは、ワイロ用プレゼントに使われるものであって、日常的に飲まれる物ではない。

  三番目であるが、中国には酒について薀蓄を傾ける文化が有るのだろうか。多分無い。別の言葉で言えば酒について熱く語る文化が有るか、と言う事である。熱く語るといっても酒の造り方の技的についてではない。酒の味に付いて語ることである。その為には酒の味を細かく表現する言葉が必要である。中国の酒と言えば白酒であるが、白酒についてその味の良し悪しを巧く表現する言葉があるのだろうか。またそれを使って中国の酒の味にについて語る文化が有るのだろうか。

  日本酒の味に付いて、その味をどう表現するかは、私も殆んど知らないのだが、辛口とか甘口とか端麗ぐらいは知っている。この甘口辛口と言う言葉は、単に甘い辛いという形容詞ではなくて、酒の味を表現する専門の言葉とも言ってもいいのではなかろうか。酒の味に拘る人ならば、もっと適切な酒の味に付いての言葉を使って、酒の味を表現するだろう。

  西洋には、ワインについて熱く語るソムリエがいて、この料理には、このワインが合うなんてことを言う。バーテンダーも酒の飲み方についての拘りを教えてくれるかもしれない。日本でならば酒に関するこだわりは、酒の味についてだけでなく、料理との組み合わせとか、酒の飲み頃の温度など、酒に関する薀蓄を語った本を探せばキリが無い。昔、山口瞳という作家が書いた、男の酒の飲み方に付いての本もあった。日本酒についてエッセイを書く佐々木久子と言う女性もいる。この人は日本酒の雑誌を出していたようである。インターネットで検索したら、酒に関する短歌集もあった。とにかく酒類について語った本はとても多い。

  しかし、中国にはこう言った本も、エッセイストや作家も、お酒の味を微妙に表現する言葉も無いんじゃあなかろうか。だから酒についてのこだわりを語る薀蓄本は中国には無いように思える。

  第四番目になるが、もうひとつ中国に無いのは、酔っ払いの文化である。しかしこれも中国にあってもよさそうな気もする。有名な詩人の李白は詩仙だけではなく酒仙とも言われていた。酒仙ともなれば酒が好きで酒に強いのは分かるが、酔っ払いなのかどうか、確信が持てないので、インターネットで調べてみた。そうしたら、やっぱり酔っ払いであったらしい。皇帝の前で酔っ払ってしくじったらしい。しかし酔っ払っても素晴らしい詩を作り尊敬されていたのだろう。しかし、今の中国では、酔っ払いに日本ほどは理解を示さない。日本では酔っ払いに寛容であるが。

  日本では酔っ払って文学を語ることもある。中にはそれを自分の文学のスタイルにしてしまう人もいる。別に酔っ払っていなくてもいいのだが、酒を、ワインを、またはウイスキーを片手に文学を語ることは、別に不思議ではない。李白は酔っ払って詩を作ったと言うが、今の中国にこう言う風景は無いらしい。

  始めて日本に出張に行った中国人が、電車の乗客を見て、日本には飲み過ぎの人が多いと言っていた。「飲み」ますという言葉に「過ぎ」をくっつけると「飲み過ぎ」という状態を表す言葉だと教えたのは私だと思うが、その言葉の意味はチョッと違うと訂正した。あの状態は、酔っ払っているかもしれないが、我々日本人から見ると決して飲み過ぎではないのである。中国人から見れば酔っ払いは、飲み過ぎと見えてしまうのかもしれないが、我々から見れば、いい気持ちになっているだけなのである。勿論日本には、飲み過ぎの人もまた中国よりはずっと多いけれども。

  酒の文化に付いて、あれも無いこれも無いなんて書くと、おもしろくないと思う中国人もいるかもしれない。また、酒飲みの文化なんてそんなのは文化じゃないと言われそうである。まあ、確かに自称中国5000年の文化(4000年ではない。これについては既に書いたが)から見れば、大した事はない文化である。酒にしても、中国の白酒のように強烈な酒を、一気に胃の中に放り込むようなのが本当の酒であって、酒のチョッとした違いを、こっちが甘口だ辛口だなんていう文化は、確かに重箱の隅を突っつくようなこととも言える。だから中国にある種の酒の文化が無いとしても、どうと言う事もないはずである。

中国には酒の文化があるか