骨董に凝りだしたら、ついに偽物を掴まされてしまった。しかし単純に騙されたというほど事は簡単ではない。だからと言って巧妙な詐欺に掛かったというわけでもない。本当は偽物を掴まされてしまったというのが正しいのかどうかもハッキリしない。骨董と言っても骨董らしい骨董ではなくて、アンダーソン土器である。壺と言うのも正しくなくて、中国の考古学の本によれば、買ったものは"瓶"であるらしい

  その前にアンダーソン博士とアンダーソン土器について書いておきたいのだが、考古学に興味に無い人は、次の"アンダーソンの壺・偽物騒動記の二"まで読み飛ばしていただきたい。

  前にも"日記"にアンダーソン博士のことを書いたが、アンダーソン博士は中国に初めて考古学を導入した人である。アンダーソン博士が中国に招かれた(1914年)のは、日本の明治初期に日本が外国人を招請して、新しい技術を学んだ状況と似ているかもしれない。それはともかくアンダーソン博士の以前には、中国に考古学と言う学問の分野は存在しなかった。土を掘りくり返して昔のことを知るという方法が、中国にあったとしてもそれは、出土物に書かれ文字や図案から昔のことを研究する金石学という学問であった。アンダーソン博士は中国に初めて考古学を導入した人であるが、実は考古学者ではなかった。地質学者だったのである。だから彼が中国に来て直ぐ考古学が始まったわけではない。

  地質学者だから、化石などに興味があり化石がたくさん出る周口店を発見した。これは後の北京原人の発見に繋がる。この方面でも彼は大変な功労者である。一方中国の河南省でも化石が沢山発見されていた。この地方では、既に甲骨が発掘されていたが、考古学上の発見はいろいろの偶然が重なったりして、ここにも甲骨文字発掘という物語が書ける位のストーリーがあるのだが、いまはその話ではない。甲骨文字が発見されたといっても、これは考古学としての発見でなく金石学としての発見である。その文字は既に解読もされていた。その河南省では石器も沢山発見された。そこでアンダーソンはそのあたりに新石器時代の遺跡があるのではないかと考え、石器が発見された仰韶村に赴き、そこで奇麗な彩色土器を見つけ出したのである(1921年)。これが中国の考古学の発端であり、この彩色土器を持つ新石器時代の文化は仰韶(ヤンシャオ)文化と名前を与えられた。今から6800年前位に遡れる文化である。

  アンダーソン博士は北京に帰ってきてから、たまたま北京の図書館に行き、そこでアメリカのパンペリー探検隊の報告書を見て驚いた。そこにはカスピ海周辺など西アジアで発見された彩色土器の写真が掲載されていたからである。それは彼自身が仰韶村の遺跡で手にしたものとそっくりであった。これがきっかけとなって、彼は地質学者から考古学者に研究対象を転向してしまった。そこで、彼は考えた。「この美しい土器は、シルクロードの道を通って東方へ伝播した東西交流の遺産にちがいない。もしそうであるならば、オリエント文化の波が黄河を渡った地点は中国甘粛省の省都である蘭州あたりではなかったか」と。

  アンダーソン博士は1923年(蘭州まではまだ鉄道が引かれていない時代)に苦労して蘭州まで行き、1923年と1924年の間に、このあたりで本当に大量の彩色土器を発見してしまったのである。考古学の発見には、インスピレーションが必要なのかもしれないが、蘭州あたりに何かあるのではないかと感じた閃きで、本当に奇麗な彩色土器を見つけ出した。ここでは以前に彼自身が発見した仰韶(ヤンシャオ)文化の彩色土器よりはずっと奇麗なものが、大量に出たのである。実は甘粛省、青海省は古代の彩色土器の文化が花開いた中心地だったのである。この辺り一帯で栄えた彩色土器の文化は、発見された場所から馬家窯文化と名前が付けられた。

  もしこの馬家窯文化の彩色土器が、遥か西の方から伝播したものと証明ができたら、アンダーソン博士の発見は、トロイを発見したシュリ−マンくらいに有名になったかもしれない。壮大な古代の彩色土器伝来の路が、シルクロードの交易が開始された遥か以前に有ったことになるのだから。このルートが有ったとすれば5000年以上も前のことなのである。しかし彩色土器西方伝来説は否定されてしまった。

  ところで、西アジアの古代の土器と、中国の古代の土器とが似ているなとはボンヤリとながら私も感じたことである。西アジアとは何時の時代で、何処の土器であるかは、ハッキリ覚えていないが、見たのは倉敷の博物館であったかもしれない。しかし似ているといえば、古代インカの土器とも似ているものがあるらしい。いずれの土器もその模様がモダンであって、現代でも通用するデザインである。

  それにしてもアンダーソン博士のインスピレーションは素晴らしかった。最初は蘭州から青海省の西寧がある谷に分け入った。ここでは少しの発見だけで、大発見は無かったらしいのだが、後になってこの谷からも大量の彩色土器が発見されているのである。蘭州に戻ってから、彩色土器に関する貴重な情報を得た。それは地元の農民が素晴らしい彩色土器をもっていると言うニュースで、それは西アジアで発見されるものと比べても、全くヒケをとることのない素晴らしい彩色土器だった。そしてその土器の出所を探り、それが黄河の支流、トウ河流域から出ることを突き止めた。その後トウ河を遡って行き、この流域で辛店、斉家坪、半山、馬家窯、寺窪山等々の遺跡を次々と発見した。ここで発見された、異なった時代の様式は、後の標準遺跡として、その後の研究の基本となり、甘粛彩陶文化の時代別編年ができたのである。発見の数においても、アンダーソン博士はこの2年間で50個所あまりの遺跡や墓を発見した。

  それで、アンダーソン博士が発見した美しい彩色土器をアンダーソン土器と言うのであるが、何処までをアンダーソン土器というのか私にははっきり分らない。アンダーソン博士が発見した文化の範囲はかなり広いのだが、彼が関わらなかった文化の物も発見されている。もっともアンダーソン土器と言う言い方は学問上の分類でなくて俗称である。ちなみにアンダーソン博士は仰韶早期文化(6800〜5800年前)から寺窪文化(3400〜2600年前)の文化遺跡までかなり長い期間の様々な文化を発見している。年代の特定はその後の研究で明らかになったものである。

  実はアンダーソン博士について書くに当たって資料が無いので、松崎哲さんと言うかたのホームページを参考にさせて頂いた。そっくり引用させていただいたところもある。このホームページの持ち主の松崎哲さんの父さんは、松崎寿和さんと言う方で、アンダーソン考古学の研究者、紹介者で、博士の著書の翻訳もしておられる。しかしこれらの本は全て絶版になっていて購入できない。今、私は中国にいて、日本の図書館にも行けないので、松崎哲さんのホームページと、創元社の"古代中国文明"という本を下敷きにさせて頂いて、この文章を書いた。

アンダーソンの壺・偽物騒動記の一