青島、煙台、大連の旅
−2(6月6日)

四日目
  翌日は又タクシーをチャーターして蓬莱閣と言うところに行った。煙台から70キロ、タクシー代一日300元。蓬莱閣は、道教のお寺の聖地とかで、海岸に添って道教系の建物があった。またここは渤海と黄海の境目だといっていた。ここに行く前に八仙閣という所があった。八人の仙人がここに集まって遊んだとか言う所で、伝説を元にして、海に突き出た大きい大きい観光施設があった。架空の伝説を元にして作った施設にしては成功しているほうだろう。

  昼は又運転手お奨めの店で、海鮮料理を食べた。何故かここのは安かった。海鮮料理の注文は易しいようで難しい。材料は指差して指定するだけであるから簡単であるが、調理方法を聞かれるからである。生で食べるかと言うことは刺身の事だな、と解るが、中国語が分らないとちょっと困る。白魚のような魚があったので、かきあげにして食べたら美味いだろうと思ってそう言ったのだが、そんなのは美味しくないと言われて、白魚の卵とじになってしまった。もっとも、私がもっと上手く中国語で説明出来たとしても、かきあげ、天婦羅のような料理法は、ここには無いのかもしれない。魚の料理法にしても、骨を外さず丸ごと煮るし、味付けもかなり違う。帆立貝の料理方は、ニンニクをたっぷり入れて、それからムニャムニャしてとか言ってみたら、ちゃんと希望の物が出てきて美味しかった。ムニャムニャのところは、煮るのだか、炒めるのだか分らなかったからである。料理方法を指定するのは結構難しい。

  市内に戻って、煙台名産のぶどう酒博物館を見る。煙台は果物の産地である。そう言えば前の晩にサクランボを買って食べた。

  夜はまた羊肉串に挑戦した。羊肉串は中国の安い名物料理であるから、娘に美味しい羊串子を食べさせたかったからである。本当は私が好きだからでもあるが。今度の羊肉串は孜然という香料を、ちゃんと使ってあって美味しかった。これを食べたところは変わった所だった。煙台の古い西洋建築が残る、路地の突き当たりのようなところだったが、まさに古びた西洋建築の一階がうらぶれた食堂になっていた。その前の道端に、ままごとで使うような小さいイスとテーブルを出してもらい、そこで羊肉串を食べた。ほかの人もそういうスタイルで食べていたからである。ついでに別の串も注文した。これは牛の脊髄と言ったように聞こえたが、これも柔らかくて美味しかった。何だかポルトガルかスペインのうらぶれた港町で焼き鳥を食べているようであった。ポルトガルにもスペインにもの行ったことはないのだが、煙台は確かに港町であった。

  海鮮料理ばかりよりは、たまにはこう言う所で食べるのもいい。当然ビールも飲んだ。青島ビールだったか、煙台ビールだったか。自分の娘とビールを飲むのもいいのだが、中国人から見たらどうなんだろう。中国ではあまり女性は酒を飲まないことになっている。娘も私も中国人の目を気にして、ビールを飲まないなんてことは無かったけれど。付け加えておかねばならないが、中国の屋台のようなところで食事できるのも、親に感謝して貰わなければならない。お金は私が払ったということではない。胃腸が丈夫な事にである。中国では、胃腸が丈夫でなければ海鮮の食べ歩きや屋台の食事は出来ない。腸が丈夫なのは多分に親からの遺伝のお陰である。私も同じく胃腸が丈夫なので、親に感謝している。親子共々屋台の羊肉串が食べられたのは良かった。

五日目
  五日目はこの港町・煙台から船で大連に渡った。5時間ぐらい掛かったかもしれない。翌日は旅順に行く予定だったので,旅順に行くには旅行社に申し込まなければならないと思っていたら、旅行社のおばさんが船室に現れて、旅順のツアーの参加者の募集を始めた。一人140元くらいで、これは都合がいいと思って参加を申し込んだ。日本人は許可がいるけど、黙っていれば分からないとか、あそこで日本人が沢山死んだので日本人がよく行くところだとか言って、周りの人に説明していた。だいぶ長い間おしゃべりをしていたが、誰も参加する人は現れず、ツアーに参加することになったのは我々だけだった。

  大連に着いてからロシア街を見に行く。そこにある西洋風の店で何か西洋風のものを食べたような気がする。それから暗くなりかけた頃、中央広場に行って、広場を囲むように建っている古い西洋風建築を見た。

六日目
  この日は、旅順に行くことになっていて、車が迎えにきてくれことになっていた。安いツアーに参加するにしては、我々二人の為だけに、車で迎えに来てくれるのもサービスが良過ぎるなと思った。実は前日も、船から下りた後に、車でホテルまで送り届けてくれたのである。その時もサービスがいいなあと思ったが。で、出発のとき運転手に確かめたところ、ツアー参加するのではなくて、自動車のチャーターで、旅順に行くということになっていることが分かった。値段を確認してみるとツアー参加に参加するより高いわけで、500元ということであった。しかし今更ごたごたして中国人のツアーに参加するのも面倒なので、その車を一日チャーターした形で旅順を観光することにした。

  前の日、船の中でおばさんにツアーに勧誘された時、そのおばさんは、日本人でも口を聞かなければ問題ないとか言っていたが、船室でいろいろ喋っている間に、これはやばいと思ったのかもしれない。旅順に外国人が行くには、本当は許可書がいるらしいのである。だから急遽中国人のツアーではなく、タクシーをチャーターしていく事に切り替えて、それでいいかと私に聞いたかもしれない。そのおばさんのがらがら声を、中国語が解かったような振りをして聞いている間に、話がそうなってしまった可能性もある。しかし車は大きいアウディの車であったし、許可書の費用も要らなかったし、旅順以外の見所にも行ってもらえて一日観光豪華な観光が出来たので、結果的には良かった。正規に旅行社に頼むと一人当たり、5〜700元(外国人向け)はするらしい。

  旅順は、東鶏冠山を見て、203高地に行き、日露戦争陳列館を見て、旅順港を遠望し、水師営会見所を見た。旅順の街は自動車で通過し、旅順監獄旧跡、軍港などを車から見たが、ここを見るのは外国人は禁止だとかで通過だけだった。運転手にもう一度回って貰って、車の中から写真を撮っておけばよかったのにと思った。203高地はなだらかな小山であったが、確かに旅順港が見渡せた。が残っていて、弾丸のあともはっきりと残っていて、激しい戦いの様子が想像できた。水師営会見所は再現された小屋を見るだけなのに、40元もして高かった。

  このときは中国でもゴールデンウイークであったから、東鶏冠山や203高地は勿論、旅順軍港のあたりも、中国人観光客で一杯だった。この辺りは大連の重要な観光地となっているのであるが、直接の中国の戦争ではない戦跡が、これだけ中国人に人気があるのもチョッと奇異な感じもした。八路軍とか人民解放軍が大勝利した戦跡があるならそこをもっとアッピールすればいいのにと思りした。もっともここは中国国内であるから、戦争のとばっちりを受けて、住民が迷惑を受けたと、植民地主義を非難する愛国教育の教材になっていた。後で旅順に付いて調べてみたら、日清戦争の時も、ここで、清国は日本に負けているのである。歴史上の出来事で何を教え何を教えないかは、日本の教科書問題と同じで、はややこしい問題である。

  ところで、私の娘には旅順がどんなところであったか、私が何故旅順を見に行きたかったかが、分かったのだろうか。後から考えてみると、旅順について、私から何も説明をしなかった。あそこへ行けば、日本が戦争したところとは分かったかもしれないが、日本の歴史の中の旅順とか、乃木元帥がどうのこうのとか、については何も分かっていないのではと思った。日本人にとっては結構重要な歴史上の観光地であるが、娘にとってみれば、一般の中国人と同じ様に、単に弾の後が残る観光地だったかもしれない。

  お昼は、運転手の案内で、普通の中国理屋に入り、今回は普通の中国料理を食べた。その後、開発区に回ってもらい我が社の大連支社を覗いて(ゴールデンウイークなので誰もいなかった)から、大連市街のほうに戻り、中国ではないみたいな海岸をドライブした。中国らしいと思ったのは、奇麗な海岸の岩場でなどで、結婚のアルバム用の撮影があちこちで行われていたことである。これは青島でも見たが、結婚式とは別の日に一日掛りで、専門のカメラマンと美容師を伴って、ウエデングドレスやタキシードを着て、景色のいいところへ行って写真を撮るのである。ドラマチックと言うのかロンチックと言うのか、色々なポーズも付けてくれる人も控えていた。例えばウエデングドレスのベールが海風になびく様子とか、男女が見詰め合って目から火花が散っている場面とか。

  そんな写真を撮ってアルバムにするのだから、費用は相当掛かることになるのだが、結婚アルバムに金を惜しまないのが最近の流行のようである。この日も海岸を上から見たら、ウエデングドレスを着た女性が沢山見えた。こんなに結婚する女性が固まっていると、あっちの女性の方が良かったなんて思う男も居るのではないかなんて考えてしまった

  その後日本人が多く住んでいたと言う日本街に行って、写真を撮った。しかしどの建物に日本人が住んでいたかは定かではない。夜は出直して、中央広場の近くで、イタリヤ料理屋らしい所でピザを食べたが、何か美味くなかった。大連のようなモダンな街には、美味しいいイタリヤ料理があるに違いないと勝手に想像してしまったのが間違いだった。

七日目
  この日は午前中はマッサージ屋に行って、それから大きな公園に行ったり、市内電車に乗って、別の海辺の公園に行ったり、市内の古い家を見にいたりした。マッサージ屋に行ったのは娘が行きたいと言ったからである。娘に先導されてマッサージ屋に行くのも変なものであるが、行ったのは今回を含めて中国で二回しかない。日本では一度も行った事がない。で、マッサージ屋に娘さんに聞いてみたのだが、この種のマッサージ屋は殆どが日本人向けのようである。たった一回しか行ったことが無い北京のマッサージと比較するのもなんだけれど、何か北京と違うようである。

  北京のは日本人向け専用と言うわけもなさそうだし、あまりしゃべらず、もっぱらマッサージだけだった。大連のは日本語が話せる人も結構いて、マッサージ中も話し掛けたりで愛想が良かった。それにミニコミ誌の広告を見たら、可愛い女の子の写真を載せている店が多かった。これも北京のマッサージとは違うようである。大連のマッサージは、もっぱら日本人の駐在員を対象にしているようである。そして日本人は肩が凝りやすく、金も有るということであるに違いない。

  昼は久しぶりに日本料理屋に行って定食を食べた。ウエイトレスの和服は結構着キッチリと着付けが出来ていた。これは珍しい事で、普通、日本料理屋の和服はダラッとなっている。

  大連市内をタクシーで走っていたら、西洋風の建物が沢山目に付いたので、大連の旅行の最後に、そこを見て回る事にした。そこは日本人街とは違う所であったが、どうも日本人が住んでいたような雰囲気があった。ある家の古い塀は人の背より低かった。また門のところに表札を剥がしたような跡があった。この事からやっぱりこの辺に住んでいたのは日本人ではないかなと思った。日本人以外の外国人も塀を低くするかもしれないが、縦に表札を張る習慣は西洋人にはないだろうし、中国人の場合は表札を出す事はない。ここの建物は普通の中国人が住んでいるせいか、きれいというわけにはいかなかったが、西洋建築の一戸建てというのは何となく雰囲気がある。

  良く見ると塀が低いだけではなく、
塀が全く無い家があった。これは北京あたりでは考えられない家の作り方で、北京では、家は高い塀で囲む、窓には鉄格子を付ける、家の入り口は一つだけにする、と言うのが基本のように思える。家が塀も無く剥き出しになっているのは、大連では普通の作り方なのか、西洋式だからそうなか分らないが、北京にこんな建物を作ったとすると、不安でしょうがないのではなかろうか。しかし北京の建物の様に、窓に鉄格子まで付けなければならないとすると、家の美しさが半減してしまう。もっともと北京あたりの家では、家の外を奇麗にしようという発想が、元々少ない様に思える。北京のお土産用に、胡同を描いた油絵を売っているが、剥げかかった塀の漆喰とか、剥げかけた貼紙を描き込んである絵が多い。こんな風景が北京らしいようである。やっぱり大連は違っていた。

  夜、10時ごろ北京の自宅に付いた。自宅のすぐ側のビア-ガーデンは未だやっていたので、生ビールと羊肉串と麻辣湯(マーラータン)という辛いスープで野菜を煮込んだ料理を屋台で買って、二人で食べた。総額300円とチョト位の安い食事で7日間の旅を締めくくった。

  かくして娘と私の、海と建物を巡る旅は終わったが、翌日も娘を北京の什刹海(シーシャーハイ)という、大きな海がある公園に連れて行った。とてもきれいだと言って喜んでいたが、ここは海と言っても池のことで、海ではないので、青島・煙台・大連の旅行のお話はここで終わりにすることとする。