北京のカスバに潜入する
(4月17日)

  北京にはカスバがあるはずはないから、これはたとえである。北京にはカスバのような秘密めいた所があるのだが、そこにやっと入ることができた。北京の胡同の奥へである。伝統がある胡同などではなく、違法建築が建て込んでいて、狭くて暗くて、ごみごみしている所である。言い様の無い凄い感じがするところもであるが、私はかねがねその中がどうなっているのか、覗いてみたいと思っていた。

  昔のフランス映画に"望郷"という映画があって、アルジェか、モロッコだかに、カスバというと一角があった。そこに部外者が一旦入ると、二度と出られないような、犯罪者が逃げ込むようなところだった。北京の片隅にも、犯罪者が居るとは断定できないが、法を犯すものが居ないとは否定できないような感じがするところがある。何故カスバみたいかと言われても、スラムと言っては言い過ぎという程度の意味である。

  私は昼休みに、骨董市をよく冷やかしに行く。会社の近くに報国寺という大きなお寺があって、そこでいつも骨董市場が開かれている。かなり大きなお寺で、その境内の地面に骨董品だかガラクタだかわからないものを並べて売っている。客より売り手の方が多くて、あまり売れているとも思えないが、日によっては冷やかしの客がたくさん来る日もある。何故かこの骨董市場は管理されていて、管理事務所のようなものがある。と言っても偽物が無いことを保証しているわけではない。お決まりの古い皿や壺のほかにも、切手や文化革命グッズなんてのも売っている。日本軍の錆びた軍刀などもあった。ガラクタばかりでなくて、たまにはまともな物もある。お寺の境内の中だが、ちゃんとした店を構えている所もある。

  実はある店に7000年前の土器が並んでいた。骨董屋の親父はこれが何時の物で、どのあたりから出たのかをまるで知らなかった。しかし私にはこれが、今読んでいる本や図から見ると、甘粛請の天水あたりから出土する7000年前の壺に似ていて、本物の様に見える。まだ確信が持てないが、多分この土器を買うことになるかもしれない。アンダーソン土器のように奇麗なはないが、何と言っても、7000年も前の壺だとすると、日本などでは、ちょっとやそっとで手に入る物ではない。

  その骨董市を丹念に見て歩いていると、後から中年のおばさんが忍び寄ってきて、ひそひそ声で、近くの家に良いものがあるから、見に行かないかとしつっこく誘う。買わなくても、見るだけでもいいから行かないかと、いつも同じセリフで誘うのである。

  私は結構骨董を買いそうな、金持ちに見えるのかもしれない。この骨董市には珍しいワイシャツにネクタイであるから。この骨董市場にたむろしている人や、冷やかしに来ている人は、清潔とは感じられない、黒っぽくて、ダラットした服装を着ている。一方私は太っ腹である。太っ腹と言っても太りすぎと言うことに過ぎないのだが。

  ひそひそ話のおばさんが言うには、珍しい陶器があるからということで、何回もお誘いを受けるが、私は中国の陶器に興味がないので、付いて行った事はない。そのおばさんが誘う先は、報国寺の周りにある胡同の奥の住宅である。胡同といわれる路地の奥に庶民が住む密集した家がある。家に納まりきれないガラクタが家の外まではみ出ていて、少しの隙間でも利用して、レンガを積み上げて、部屋や物入れにしてしまってある。そのレンガの積み方も汚らしい。

  その中はどんなところだろうと興味があったので、おばさんの誘いに乗って付いて行ったら、あの北京のカスバのような所が覗けるのではないかと思っていた。それにしてもひそひそ声で話し掛ける様子は、何か犯罪の臭いがする。うっかりおばさんについていくと何かトラブルに巻き込まれるかもしれなと心配もした。そして先日の事であるが、会社の若者を骨董市に誘うと、一緒に行くというので、その骨董市を見に行った。すると思惑通り、あやしげなおばさんが例のひそひそ声で、良いものが有るのだが、と話し掛けてきた。今日は会社の若者が一緒であるので、思い切って付いていく事にした。そして北京のカスバへの進入に成功したのである。

  潜入には成功したのであるが、余裕がなくて、部屋の中の観察などはままならなかった。おばさんに誘われたときに、見るだけでもいいからと言ったにもかかわらず、大きな陶器を三つばかり見せてくれて、どれが良いかとたたみ掛けてくるのである。人の好みは様々なのだろうから、三つだけ見せて貰って、これが良いと言って買う人は少ないと思うのだけれど、私が滅多に来ない獲物だから何とかして買わせたいのだろう。こちらは買わないで退散するつもりであったし、いろいろ聞くとややこしくなると思って、早々に退散した。そんなわけで、胡同の奥が覗けたと言っても、細かく観察する余裕はなかったのである。おばさんは後で連絡するから電話番号を教えろと、かなりしつっこかった。

  しかし、あのひそひそ声でのお誘いはなんだったのだろう。あの言い方からすれば、盗掘品だと言って、盗掘したばかりのような、土が付いたままの皿でも持ち出してくるのではないと想像していた。実際に唐三彩の人形などは、土がついたままそれらしく骨董屋に並んでいる。しかし今回見たものは、何ともまともな花瓶や壺であった。何処から持ってきたものかと聞くと、地方の農家などから仕入れたのだと言う。それならば何もひそひそと言う必要はないわけである。偽物という訳でもなさそうで、大きい陶器で豪華に見えるし、細工も細かそうだから、その点から見たら、それなりの価値は有りそうだった。しかしひそひそ声に相応しい有名な唐三彩とか、明や宋代の陶器の盗掘品ではなかった。もしそんな物を出してきたら犯罪の匂いがしたのだが。

  大きな花瓶を見る前に、何故骨董市に出さないのかと聞いてみると、大きいからだと言う。それを聞いても、盗掘品だから並べなれないのだろうと勝手に想像した。しかし部屋に行って陶器を見てみると本当に大きな花瓶で、当たり前の答えだったのである。それなら何でひそひそと話し掛けたのだろう。お客を引き込むテクニックの一つでもあるのだろうか。潘家園の骨董市場でも手口で、ここでは男が、旦那!いいものがありますから見に行きませんかと、ひそひそと話し掛けてくる。

  潜入してはみたものの余裕が無かったので細かい観察はできなかったのだが、見た部屋はとても狭かった。門を入るとすぐ中庭があり、中庭と行っても一坪くらいの空間で、その奥に狭い一部屋があり、老婆が餃子を包んでいた。部屋は大部分をベットが占めているような狭さで、ベットと言っても板を張って高くしただけのものである。その老婆の脇をすり抜けて脇の小部屋に入ったのだが、その部屋は窓が全く無く、天井もとても低かった。この部屋もベットが部屋の3分の2を占めていた。押し入れを大きくしたような部屋である。その穴倉のような部屋のベットの下から陶器を引き出して見せてくれた。

  老婆の側をすり抜けて入ったのであるが、老婆は我々には全く無関心のようで、老婆の娘がお客を連れてきたにしては無愛想だと思った。後で売人のおばさんに何処からきたかと聞いてみると、安徽省から来たとかで、このおばさんはここの押し入れのような部屋を間借りしているらしい。老婆と家の前にいた老人は、この部屋の主人で北京人なのだろう。元々狭い部屋の一部を仕切って一部屋にして、下宿人に貸しているに違いないと考えた。

  このおばさんを流れ者と決めつけては申しわけないが、やっぱりこのあたりは流れ者が入り込んできて、こんな所に住み着いているに違いない。近くに幅の広い陸橋があるが、ここの上で、盗盤と言われる違法コピーのDVDなどを並べて、いつも売っている。取り締まりが行われると蜘蛛の子を散らすように逃げていく。この人たちは犯罪者とは言えないのかもしれないが、正規の営業許可書とか暫住証を持たない人が、やむを得ず住みつく先が胡同の奥の押し入れ部屋なのかもしれない。

  あのおばさんが1200元(16,000円位)と言った花瓶を買えば、仲良くなれて、いろいろな話が聞けてるのだろうが、日本に持っていっても飾れないような大きな花瓶を買いたくないので、北京のカスバの潜入は、尻切れトンボに終ってしまったが、水道と排水は有るが、トイレがないこと、狭くてガラクタが多いこと、部屋の大分をベットが占めていて、部屋はほんとに狭い事、などがわかった程度に終わってしまった。

  尚、ここの住人は、胡同に入って来るものに対して、無関心で、危険なんてことはなかった。だからそこに入っていっても危険はない。しかしここに入るには、かなり勇気がいることは確かである。