安徽省の古民居の旅ー1
(2月13日) 

○なぜ安徽省の古民居か
  10年くらい前のことであるが、中国の切手で古民居がシリーズになっているのを見たことがあった。その中に白壁の建物が重なるように、描かれた切手があって、そこはどうも鄙びたところらしく、そんな所に白い壁の古い民居が残っているのが印象的だった。そこはどうも安徽省の黄山の近くであるらしく、後になって、世界文化遺産になっているところもあることも分った。

  そんな所に是非一度行ってみたいと思っていたのだが、どうもかなりの田舎らしく、交通が不便にも思え、その辺りへどうやって行くかという不安もあり、何時か行けたらと思っていた程度だった。しかし最近になりよく調べてみると、黄山の南側にそれこそ無数に古民居というのが残っている事が分かり、行き方も、北京から飛行機で黄山市まで直接行かける(しかしあまり便数が無い)ので、是非行ってみねばと思うようになった。

○旅の方法
  私が旅行に行ける時期は、中国のゴールデンウイークと言われている時に限られている。中国のゴールデンウイークは年に三回あって、春節と5月の労働節と10月の国慶節である。だからどうしても人出が多いときに限らる。このような時に人で混雑した中に行きたくないし、汽車のキップは中国ではなかなか買うのが難しい。それでキップが容易に買える飛行機で目的地の近くまで行って、飛行機で帰ってくる方法にしている。現地へついてからの観光は、タクシーをチャーターして回ることが多い。近い距離をバスで移動するのは効率が悪いし、タクシーの運転手の持っている知識とかアドバイスは結構約に立つからでもある。

  ホテルに付いてはちゃんと風呂に入れる位のところを選び(シャワーでは駄目。何時もは、バスに入れないから、たまには肩までお湯に漬かりたい)、事前に手配しておく。ホテルの手配はインターネットで自分で予約するか、旅行社に頼む。ホテルを根拠にして、タクシーで観光に出かける訳であるが、その観光が二日とか三日と続く場合、運転手が信用できそうならば、連続してその運転手に頼むようにしている。今回も結局は同じ運転士に4日間頼む事になった。

  お蔭で公安局への申請、黄山のガイドの手配、後半のホテルの手配など、運転士にやってもらえました。頼んだ運転手は、たまたま空港から黄山市内まで乗ったタクシーの運転士で、特別に旅行社を通して捜したわけではない。始めは二日間だけ契約したが、結局は四日連続して頼むことになった。値段の交渉のとき少し弱気になってしまい、全部で1500元と決めた。もう少し強気で頑張れば、1200元くらいでよかったかもしれない。しかし、いろいろやって貰えてまあ良かったほうだと思う。

○旅行の行程
  一日目飛行機で北京〜上海、上海〜黄山市へ移動
  二日目タクシーで黄山市の北東側を観光
    (潜口、呈坎、唐模、棠越(木へんがある越)、漁梁)
  三日目タクシーで黄山市の西側を観光
    (盧村、宏村、南屏、西遞
  四日目 前日に黄山の麓の湯口のホテルに泊って、黄山に行く。
  五日目 タクシーで黄山市の北東側を観光
    (許村、漁梁(二回目)、花山謎窟(古い時代の採石場))
  六日目 黄山市内の屯渓の老街を観光、
    その後飛行機で、黄山市から北京に戻る

  注;黄山と花山謎窟以外は全部古民居がある古鎮。
    漁梁に二回行った理由は、一回目は電池切れで写真が撮れなか     った為。行った古鎮は全部で11箇所。

○行ったところはどこ?
  会社の中国人に何処に行ったのか聞かれるので、黄山の南の麓の古い村と答えるのだが、どうも良く分からないらしい。黄山は有名なところなのだが、世界文化遺産にも指定されている古鎮が在っても、古民居のほうは中国人にはあまり知られていないようである。それで小さい村の名前でなくて、もっと大きい単位の地名で言いたいのだが、これが又難しい。

  三日目に行った宏村と西遞(簡体字は、しんにゅうがついている弟)は世界遺産であるが、この辺りはイ県と言って、イは黒と多とからなる字(黒多)である。三日目に行ったところは徽州区とシェ県(中国語で)なのだが、シェ県のシェの字はなかなか難しい字で、歙という字である。日本語ではキュウと読む。普通の中国人も知らない字である。そう言えば世界文化遺産の西遞も難しい字であった。

  だからこれらの地名がどこにあるのか、普通の中国人には分からないと思う。それで、社員から何処へ何をしに行ったのかとか、ほんとに一人で行ったのかなどと聞かれた。私もあまり沢山の古鎮(11箇所)を回ったので、何処がどうだったのか・・・・・。

  気を取り直して、ガイドブックを参照して、纏めてみると、安徽省の南の山間部を中心に古くから皖南古民居村落と呼ばれる、古民居がある古鎮がたくさんあって、私が行ったところは大きい行政単位の黄山市の中に行ったことになる。その黄山市の中に、小さい単位の黄山市区があり、そこは屯渓と呼ばれている。その他に徽州区とイ県とシェ県に行ったと言えばいいのかもしれない。(黒多)県と歙県である。大きい行政単位の黄山市の中には市の名前の元になった黄山も含まれている。

  また、皖南古民居村落があるところは、徽商と言われる商人の資本をバックにして、徽文化と言われる地方文化が花開いた所でもある。その範囲は大きい行政単位の黄山市の中だけではなく、西は江西省の景徳鎮の近くの古民居群とも一体の文化圏でる。黄山市のもっと東にも同じ徽文化の古民居が散在している。だから私が見た古民居は皖南古民居村落のほんの一部であるらしい。

○ 見所
  この辺りの見所は、古鎮の中に、古い民居の他に、講堂(一族が集まるとか、一族を祭るとか)のような大きな建物、深窓の令嬢が住む家(ご令嬢は外に出られないので、外を通る貴公子を覗くだけとか)など、とにかく古い建物が沢山ある。民居と言っても、庶民のではなくて、大金持ちの民居である。またそれらの建物に挟まれた細い石畳の道の様子、これも見所である。他に川に掛かる古い橋もあって、古い橋は殆んど丸くアーチ型になっている。川と共にある古鎮のたたずまいもまた良かった。

  この辺りで有名なものに三つの彫り物があると言われている。それは木、石、レンガ(?)もしくは瓦の彫り物であるが、特に木の彫り物は窓や欄間とかに沢山あった。木彫だらけの家なんてのもあった。木彫と言っても人形などではなく、家の装飾としてのもので、ドアや欄間とか、壁、梁の下の装飾などである。又これを剥がしたものが、お土産として売られている。

  大きな物で有名なものは、牌坊と言われる石で出来た巨大な鳥居のようなものである。これは忠とか孝とかを顕頌したものとか、高級試験に合格して、なんとかこうとか・・・・、金持ちの婦人が夫が若死にした後も、なんとかこうとか・・・・ ガイドのお嬢さんがいろいろ説明してくれたが、詳しくは聞き取れなかった。私にはこの牌坊と言われる鳥居のようなものが、チョッとグロテスクに思えて、あまり興味が湧かなかった。でもこれは中国を象徴する造形物であって、大金持ちではなくては、建てられないモニュメントである事は確かである。やはり昔の大金持ちは凄かったと言うことである。

  私がいいと思ったのは、やはり白壁の古民居群が風景の中に溶け込んでいるところと、古い建物の中で未だに普通に生活しているところ。もう一つは窓や欄間、ドアに使われている精緻な木彫である。

  お土産としては、硯や墨などが有名らしい。しかし硯などは重くて、お土産には向かないし、それに大きすぎる。中国で売っている絵や掛け軸などにしても、日本人向けのお土産とするには大きすぎる。私は以前から興味がある木彫り(欄間を外したようなもの)を一つ買ってきまた。煤けていたりして結構汚いのであるが、この古い木彫は御土産としてなかなかいいものである。これに注目する観光客はあまり多くないが、これを奇麗にして枠でも付けるとなかなかの装飾品になる。

○中国のガイドブック
  中国の旅行のガイドブックなどろくなものがないと思っていた。実際に中国の旅でありながら、日本のガイドブック、「地球の歩き方」などのほうがよほど詳しかった。しかし去年「中国古鎮游」という中国のガイドブックを手に入れて、これを見てみると、古鎮(古くから残っている村)に限っては、日本のガイドブックよりよほど詳しく書いてある。やっと中国にも役に立つもガイドブックが出来てきたようである。これを参考にして、安徽省の古民居の何処に行くか、どのルートで行くかを決めた。

  ガイドブックは便利なのであるが、重いので必要な部分を千切って、一応、糊で綴じて、持って行く。このガイドブックは田舎の町であっても、簡単な地図があるので、行き先の位置を大体頭に入れてから、観光することが出来る。もし旅行で行き先の位置関係が分からないと、私は不安になるほうである。また、このガイドブックには、親切にも、世界文化遺産でもある宏村、西遞が未開放地区であることや、御土産として売っている古い物には、偽物が多いことも、載っていた。

○古民居は凄い
  白壁の古民居は、窓が殆ど無くて、外からはその生活が窺い知れない構造になっている。チョッと薄汚れたような、時間の経過を感じさせる村が、それこそあちこちに、たくさん在った。何が凄いかというと、そんな村がたくさん残っていることや、昔の金持ちとか高級官僚の家が凄いということもあるが、私が感じたことは、300年前の400年前の家で、未だに生活しているということである。

  その生活の方法もまたチョッと凄かった。窓のドアも、壁も無い開けっぴろげの空間で生活しているのである。説明が難しいのであるが、まず先に、窓が殆ど無い四角い箱型の家が有る。その家は二階建てまたは三階建てで、がっしりしていて立派なものが多かった。その中央に採光、通風の為の中庭のような空間があってその上には屋根が無い。その中庭の奥には、前には壁も無い部屋があるのである。この居間に居るということは、100%外気と触れ合った状態で生活していることになる。ただし寝室などはドアがある別の部屋になっている。勿論金が無くて壁も作れないということではない。昔は大金持ちだったのだから。

  ここは亜熱帯に属するそうであるが、冬は寒くて私が行ったときは多分0度くらいの気温ではなかったと思う。それでも壁をつけて、保温しようという考え方が無いようである。寒がりの私には到底考えられない環境だった。そんなところで何百年も同じような生活が続いているのは、結局このような環境が好きだからとしか言い様がないのではなかろうか。習慣とはそんなものかもしれない