なんで団地の入り口がこうなるの?(8月23日)

  私が住んでいる所は"棗(なつめ)園"と言う団地であるが、正門が道の工事の為、閉められてしまった。それで、団地への出入りは大きい門の横にある、小さい門を潜って出入りすることになった。この小さい門の構造は、人の出入りをわざわざ通りにくくしたもので、コの字型になっている。そこを右に折れ左に折れて、人一人がやっと通り抜けられるようになっている。さらにここを自転車で通り抜ける人にとっては、自転車を通すのが至難の業で、知恵の輪を潜らせるようにして自転車を通している。私も毎日の出入りにここを通らなければならない。

  こんな狭い不便な門を、毎日潜って出入りしなければならないのは、私にとってはとても腹立たしい。何でこんな不便な状態にしておくのだろうと、不思議に思っているのである。しかもとても大きな団地の正門なのにである。自転車の出入りも不自由な正門なんて、普通の日本人には理解できないことだろうと思う。大きな門が通れないから、小さい門で我慢すると言う理屈は分るが、何でこんな不便な小さい門を作ったかと言うことが問題である。この門は臨時的な門ではないのである。

  大きい方の門が使える時でも、夜は大きい門を閉めてしまい、小さい不便な門だけが使用できる。夜遅く帰ってきた人に対して罰でも与えるかのように、特に自転車の人には、大変な苦労を与える。この門の目的は防犯であるらしいのだが、入り難くしたといっても、夜も人は通れるのである。中国の泥棒はこの不便な門を見て、入って来なくなるとでも言うのだろうか。どう見ても人の通行を、ただ不便にしただけの門である。ここを管理する団地の管理会社(一般に物業公司と言われる)は、何か考え違いをしているのではないだろうか

  もう一つ分からないことは、こんな不便を強いられている団地の住民が、この状態に抗議をしないことである。中国人の血の中には、以前城壁で囲まれた街で暮らしていた記憶が残っていて、閉じ込められた状態があたり前という感覚なのだろうか。しかしこれはかなり以前のことである。最近までは単位と言う職場があって、工場も住宅も一緒に塀で囲われていた。この時の習慣から、塀で囲われていると、出入りが不便であっても、有り難いと思ってしまうからなのであろうか。それとも管理会社が決めた事だから、唯々諾々と従うという事なのだろうか。もしくは共産党一党独裁の思想宣伝によって、不平を言わないということなのだろうか。いろいろと考えてみても、どうも私には理解しがたい住民の従順さである。

  実は理解できなことはもっとあって、大きい方の門を閉めてしまう理由も私には理解し難い。道路の工事は半分だけ修理するのだから、残りの半分の道を、人の通行の為に残しておいてもいいはずである。しかし道の全部を工事で道を塞いで、門も閉めてしまっている。しかしこれは少し理解できる。今までの中国ならば、住民に対するサービスが何であるかなんてことは、考えもしなかったことなのであるから。多分通行する人のためを考えて、道を明けておくなって、そんな面倒な事はしないということなのだろう。

  更に不思議な事は、守衛が居なくなってしまったことである。何故なのか分からないが、大きい方の門を閉じたときから、守衛所にいた守衛がいなくなってしまった。大きい門が閉まっているから守衛は必要無いと言っても、小さい門は開いているのである。守衛の配置は大きい方の門のためだけなのだろうか。ここで守衛の役割が何であるかも分らなくなってしまった。

  そして門のところの道の修理が終わって暫く経っても、依然として門は開放されない。その横を団地の住民はおとなしい羊のように、狭い門をくぐって出入りをし、また無理やり自転車を通している。先にこの門が問題であると書いたが、問題にしているのは私だけであって、団地の住民にとって大した問題ではないみたいである。

  中国語がもっと喋れるならば、ここの住民対して、何故このような不便を強いる門を作ったのか(作ったのは管理会社であるが)、何故住民は文句を言わないのかと聞いてみたい。しかしそれが出来ないので、心の中のわだかまりが晴れない。私は時々宴会で夜遅くなることがあるので、"とうおせんぼ"されて、中に入る事を拒否されているみたいで、その度に不愉快な気分になる。こう言ったことについて、詳しく説明してくれる中国人がいれば、中国人の考え方若しくは社会の仕組みが理解できて面白いのだけれど。

  実は今まではこう言うことについて、聞けば教えてくれる中国人がいたのである。それは私が住んでいる家の大家さんで、会社の会長でもあった人である。しかし私よりも6歳も若いのについ最近、ガンで亡くなってしまった。この人がいれば、日本語で話が出来て、しかも本音の話が聞けたのに、機会を失ってしまった。この人は文化大革命の時に、農村に下放されて苦労した人でもあった。亡くなる前に中国の不思議に付いて、聞いてみたいことがたくさんあった。本当に残念な事である。