湘西の旅ですれちがった人々
(11月4日)


旅行した場所の地図

  北京からの汽車は26時間も掛かるので、相席の人となるべく知り合いになった方が暇つぶしになるかと思い、寝台車で一緒になった人と下手な中国語で話をした。北京に住んでいて、故郷に帰ると言う老夫婦だった。周りの人と親しくなる一つの方法は、写真を撮って、送ってあげるという方法で、これで結構喜ばれて親しくなれる。子供連れの若夫婦とも知り合いになったので、この人達の写真も撮ってあげた。写真を撮って周りの人と親しくなるという方法は、以前知り合った日本語の先生がこれをやっていて、踏み切り番のおじさんや、市場の米屋の夫婦や肉屋のお姉さんや、とにかく大勢の人と知り合いになった。そんな事で私も二組の夫婦と親しくなったが、若夫婦の方は、食堂車の料理が無くなってしまったので、鶏の足を恵んでくれた。老夫婦の方は、私がこれから行くところは、昔、蛮族が反乱を起した所だと教えてくれた。

  吉首の駅に着いて降りると、鳳凰に行く為のミニバンが駅前に待機していて、10元で行くと言うので乗ったのだが、6人が乗らないと出発しない。ミニバンが何台もあるので、お客は分散してミニバンに乗るものだから、どの車も定員にならない。それで客の方は、別の車に移ったりするのだが、そうすると今度は仲間が一緒に乗れないとかで、一グループが別の車に移ってしまう。そんなことを30分位ごたごたやっていて、一人の若い女の子を半ば強引に乗せて定員にして、ようやく出発した。この女の子は一人旅で、高校生か大学生くらいの女の子だった。女の子の一人旅、いや男でも一人旅は中国では珍しいのではないだろうか。 西洋人や日本人の一人旅は見かけるが、中国ではあまり見かけない。中国人は一人旅が嫌いらしい。そして年齢が高い旅行者も少ない。何だか若者のグループ旅行がいやに目立った。中国の老人はお金が無いようである。中国の都会の老人では、働いている老人(と言っても55歳位以上の人)は極めて少ない。

  一人旅の老人なんてのは、中国では極めて珍しいと思う。ましてこの辺りでの日本人の旅行者と言うとも、もっと珍しいのかもしれない。もっともこちらの人は方言で話すので、私がいい加減な中国語を話しても、私のことを外国人とは思わないようである。

  鳳凰に行く途中で乗合のミニバンに、二人の若い女の子が乗り込んできた。最初、高校生が下校してきたのかと思ったが、聞いてみると希望小学校の先生だとのことであった。“希望”とはHopeのことではなくて、ボランテアが貧しい人を助けることを言うらしい。希望小学校とは、どこからかの援助によって作られたのか、又は運営されている小学校を言うのらしい。いずれにしろ貧しいところにある小学校である。ちょっと前にテレビのドキュメント番組を見たのだが、どこかの山奥の貧しい小学校の先生の話で、その女先生はまだ中学生のような感じで、給料がなんと164元(2500円位)だとか。それも貧しい村の会計から出すので、なかなか貰えないのだとか。ほんとに涙だ出るような話だった。乗り込んで来た先生も高校生かと思ったくらい幼いような感じだったが、なにかの技術の先生だとかで、話すことはさすがにしっかりしていた。この辺り、はテレビのドキュメント番組ほどは貧しくはないようであった。

  鳳凰の街を見物していると、ミニバンで一緒になった一人旅の女の子と、また出会った。翌日タクシーをチャーターして観光する予定であったから、誘おうかと思ったが、変なおじさん(いや、おじいさん)と思われるといやだと思って止めてしまった。誘った方がよかったかもしれない。

  鳳凰の町のそばを流れる沱河という綺麗な河があって、そこで船で河下りをした時のことだが、船頭の爺さんが川岸の人に、分らない方言で何か言うと、川岸の人が私のほうを見るのである。何でだろうと思ったが、どうやら爺さんは、“ここに乗っているの日本人の老爺だよ!!”とでも言っているらしかった。言葉の中に“ズーベンジエ”とか言っている部分があったので、それがどうも日本人という言葉らしい。標準語の“日本”は巻き舌でリーベンと言うのだが、この辺りではズーベンと言うらしい。これ以来、どこから来たかと聞かれたら、ズーベンからと答えるとよく伝わることが分った。 この船頭さんとはほとんど言葉が通じないのだから、私が日本人だと名乗った訳ではない。私が船頭に、私が日本人と言っても多分通じなかっただろう。川下りをして目的地の中洲に着いたところ、そこに北京からの汽車の中で知り合った若い方の北京の人と偶然出会って、その人が、私が日本人だということを船頭に教えたのである。この地方の方言がすごいといっても、普通の中国人なら言葉が通じるようである。それで船頭は、川岸の知り合いに、ここに日本人が乗っているよ、と告げながら船を漕いでいたらしい。川岸の住民はほとんど船頭さんと知り合いらしかった。   

  鳳凰からさらに奥の黄絲橋古城まで来るとあまり豊かそうではなかった。ここにはタクシーをチャーターして行った。子供の顔には、はたけ(皮膚病)が広がっていて、それだけこのあたりは貧しそうだった。素朴そうな女の子が、楼門の上に上がると眺めがいいと言うので、上がってみたら、別の女の子が案内してあげたのだからあの子のお金をあげなければならないと言う。私は案内は要らないと言って断ったら、諦めたようだった。暫くすると別の女の子が現われて、あの子達は悪い、お金をあげない方がいい、あげると習慣になってよくないと言う。全くその通だと思ったので、言っていることがよく分った。後で考えてみるとこの言葉は標準語で言っていたのかもしれない。この地方の方言は私には全く聞き取れないのだから。その女の子も私の後をしばらく付いて来た。その子も実は案内料がほしかったのではなかったのだろうか。そんな気がした。このあたりが観光地として脚光を浴びてきたのは、最近のことである。この女の子達に案内料をあげた方がよかったのだろうか。10元(150円)をあげたとしても、喜んだに違いない。しかし女の子が言った通り、悪い習慣になったかもしれない。

  今回の旅行では、三人のタクシー運転士の車をチャーターして乗った。鳳凰から南方長城と黄絲橋古城へ行って、半日で100元。翌日も同じ運転手を頼んで、大きいアーチ型の橋と山江苗寨と言う苗族の部落を見に行って、160元。後の方の日は、10月1日の祝日の稼ぎ時だからと言うので、160元とした。この運転手は背の小さい若者だった。口数は少なかったが、何とか言っていることは分かった。 吉首から矮寨坡公路と徳フン風景区という苗族の村へ行くときに頼んだ、おばさん運転手とは、ほとんど言葉が通じなかった。苗族の村に行く途中、おばさん運転手の言うことには、あなたの言っていることは分かるが、私の方は標準語が駄目だと言っているらしかった。そうは言われても私のほうの中国語もいい加減だから、こちらのほうも大いに問題があるのである。しかし金額、地名、時間位は通じるので問題はあまりなかった。タクシー代150元。このおばさん運転手には夜も苗族の村に行って貰って、踊りを見てきた。このときは80元。前回が70元高かったのは、800メートル(多分?メモが無くなった)の崖をジグザグに駆け上がって、矮寨坡公路の峠道を見に行ったからである。

  最後の日は飛行機が夜の出発なので、朝から張家界の観光をすることにした。前日ホテルに案内してくれた運転手が、観光に行かないかと言うので、翌日一日の観光を300元で予約した。聞いてみるとこの辺に多い苗族や土家族ではなく、白族とのことであった。この辺りは70%が少数民族だと言っていた。翌日は奥さんが付いて来たので、何故だろうと思っていたら、運転士はガイドをしている間の自動車の番をする役目らしかった。駐車所に車を入れると高いからである。運転手の方はガイドの資格があるとか言って、山の上まで付いて来て、案内してくれた。標準語がもっと上手く話せれば、チャンと説明できるのだがと言い訳をしていたが、聞くほうが聞くほうだから、私にとってはあまり変わりが無かったかもしれない。奥さんも実はタクシーの運転手で、一台の車を交代で運転しているのだと言っていた。そんな話を聞いたこともあるし、運転手は一生懸命サービスしてくれたし、北京よりタクシー代が安いなーと思っていたので、チップ50元をあげてしまった。合計350元、日本円にして一日5,200円位のチャーター代だった。