日本の落書き・中国の落書き
(8月1日)


  日本と中国の違いは、目立つものはよく分かる。久しぶりに日本に帰って、東京の街を電車で眺めたのだが、落書きがとても多くなっているので驚いた。いわゆるアートを気取っているような落書きで、ほんとに腹立たしい。こお言うのは北京には無いが、中国には似て非なる落書きがある。本当は落書きでなく広告らしい。実際にテレビ新聞でこれを問題にするときは、"小広告"と言っているが、醜い落書きのようである。電話番号を所かまわず大きく書きなぐり、手延べラーメンの作り方を教えるとか、何かの修理をすると書き添えてある。アパートの壁、歩道橋の橋脚、電話ボックスなどの所かまわず書きなぐる。書くところは自分の家などではなくて、他人の家、公共の場所などに書く。このあたりは日本の落書きと同じであるが、その書き方は相当汚い。電話番号を書くのは一応広告の為なんだろうから、もっと丁寧に書けばと思うのであるが書きなぐった感じでかかれている。電話番号がでかでかと書いてあるが、何の広告か分からないようなものもある。しかしこの中国の落書きは広告なのであって、実利を求めている。一方日本の落書きは芸術(?)で、実利を求めていないところが違う。

  この他に、紙に書かれた広告をあちこちに貼り付ける"小広告"もある。塀、電柱、電話ボックスは勿論、歩道橋の手摺、バスの案内板、歩道の足元の道、果ては共同住宅の階段まで入り込んできて貼っていく。まさにこれも所かまわずと言った感じで貼り付ける。広告の内容は、薬回収(病院からもらった薬を買い取る商売)や性病治療の広告など怪しげなのが多い。バスの行き先案内板などは、"小広告"で覆われてしまい、行き先が見えなくなっている。小さい広告を貼り付けることは、日本でも電話ボックスなどに有るが、中国のものは、だれでもがどこもやりかねない。例えば家を貸したい、借りたいなどの連絡もこの方法でやるのである。都会に蔓延した皮膚病のようでほんとに見苦しい。

  どうしてこんなことになってしまったのだろう。私の、かなりいい加減な仮説であるが、政府が手本を示したのではないだろうか。この場合の政府とは、町や村の政府のことで、中国には地方にも政府がある。今でも田舎の方に行くと塀にスローガンみたいなものが壁にでかでかと書かれている。一人っ子政策についてとか、子供を就学させようとか、三個代表(共産党員に対するキャンペーンのようなものらしい)に付いてだとかが多い。それも茶色いレンガの壁に、白い石灰を使って汚らしく書かれている。それもどうも政府が管理している場所だけに書くのでなくて、個人の家とか政府と関係の無い工場の壁にも書いてしまってあるようである。この地方の政府がやたらに書きなぐったキャンペーンを見て、庶民も真似したのかも。

  この説には少し無理があるかもしれない。今の北京では殆ど政治的キャンペーンなど書きなぐっていない。そして汚らしいと書いたが、こちらの人には、汚らしいとは感じないのかもしれない。関係の無い工場とも書いたが、地方政府の範囲にある工場は、自分のテリトリーと言えるのかもしれない。しかし中国では、自分の物と、他人の物公共の物という、区別の意識が少ないように感じる。共同住宅の階段まで入り込んで広告を貼っていくのは、悪いことだという自覚が無いのだろう。それに反して日本の落書きは、他人の家の壁に落書きをするのは、悪いことだと知っていながらやるのだろうから、確信犯的な行為だといえる。北京政府は2008年のオリンピックまでには、体面上からもこんな現象を無くさなければならないだろう。今すでにそのキャンペーンみたいなものが始まっているが、果たして巧くいくのだろうか。その場合、北京の目に付くところだけでなく、私の居る北京の田舎の方までき、きれいにしてもらいたいものである。

  ついでに書けば、北京政府の気がかりの一つそして挙げられるのは、夏になると(ちょうど今頃)現れる裸男の存在かもしれない。今日もレストランで食事をしていたら、見事な腹を突き出しながら、上半身裸で食事をしている男が二人も居た。丸々とした腹を突き出して羊のしゃぶしゃぶを食べている姿は、デッカイ腹を自慢しているようにも見えた。やはり北京政府はこのような現象を、2008年のオリンピックまでに無くしたいのではないだろうか。もっともオリンピックが真夏にあるのでなければ、この問題は顕在化しないかも。一方日本にも落書きのような恥ずかしい現象があって、なかなか無くせないので、人の国のことばかり言っていられないのだけれど。