誘われないと寂しい
(7月19日)


  北京の王府井を歩いていたら、若い女性にご馳走してくれないかと頼まれた。丁度中国がブラジルとのワールドカップの試合をやっている頃で、王府井の街の、大型テレビの前に大勢の人が集まって賑わっていた。そこを歩いていると、後ろから、「あなたは地元の人ですか。私たちは困ったことがあって、食事ができない。ご馳走してほしい」と声をかけられた。その女性は二人連れで、ちょっとした美人(この様に書いたほうが話の展開が面白くなるが確かにきれい)だった。私たちはハルピンから来たと言っていたから、美人の産地であることを強調して言ったのもしれない。言葉は普通語(標準語)で、ほんとにハルピンから来たように思えた。断ったのだが、それなら10元でもいいからお金をくれと言われた。あれはやはり物乞いだったのだろうか。服装もきちんとしていて、一人は愛想が良さそうだったのだが。

  実は食事くらいなら、一緒にしてもいいかなとちょっと心が動いた。というのは最近、中国人に見られるせいか、外国人相手の客引きや、三里屯あたりのバー街の客引きにも、とんと声をかけられたことがない。声をかけられたからと言って、誘われてその店に入ることはないが、何かちょっと寂しい。普段は特別の服装をしていないから、中国人と見られるのかもしれない。そして金も無いようにも見れられているに違いない。金持ちに見られたいとも、外国人に見られたいとも思わないが、別の外国人が声を掛けられて、私が声を掛けられないのは、チョッと寂しい。もうひとつの原因は年をとったせいもあるのだろう。こう考えるともっと寂しい。

  北京の友諠商店の裏あたりにいる子供の物乞いも、私のそばに寄ってこない。ここで外国人に見られない事は都合がいい。北京の物乞いは取締りが厳しくて、ほかの都市よりは多くはないが、たまに纏い付かれたりすると面倒くさい。普通は親が遠くにいて、その指示で子供が物乞いに来る。しかし私の場合、物乞いの親も私が外国人であることが見抜けないのか、または金が無いことが分かってしまうのか、近づいてこない。

  王府井で誘われた話であるが、最初に「あなたは地元の北京人か」と声を掛けられた。これは現地人の様に見えたからだからなのだろうか。中国語で話し掛けられたのだから、中国人には見えたのだろう。この時は少しは金を持っているように見えたのかもしれない。そして鼻の下が長いように見えたのかも。

  実は以前にも「あなたは地元の北京人か」と、若い女性から掛けられたことを思い出した。そのときは突然のことなので、口篭もってしまったため、本地人(地元の人)でないことが分かったためか、その女性は間違ったというような顔をして、そのまま行き過ぎてしまった。

  それで考えたのだが、「あなたは地元の人か」という問いかけは別に北京人であるかどうかを確かめるための言葉ではなく、単に近づく為の口実かもしれない。よく考えてみると今回の場合は、たまたまお土産の買出し用にリックを持っていたのだから、リックを持った地元の北京人と言うのもおかしいような気がする。

  もしかしたら、「あなたは地元の人ですか」という問いかけは、王府井あたりで使われる、物乞い、または勧誘の常套句であるかもしれない。そして次に続く言葉は、地方から出てきて、困っていると言う話に続くようである。少しは金が有りそうな中国人向けの言葉なのだろう。久しぶりで声を掛けられて誘われたので、チョッとうれしいような気もしたが、よく考えてみると、この誘いの言葉は、北京人向けと言うより、地方から出てきた、鼻の下が長いお上りさん向けの言葉なのではないだろうか。若い美人に、「あなたは北京の地元の人か」と問いかけられると、何か自尊心をくすぐられるような響きがあって、思わず「困っているなら、食事くらいご馳走してもいい」と思ってしまうのかもしれない。

  いずれにしても、最近、私は中国人と見られるらしい。このことは喜んでいいのか悲しんでいいのか。身なりの点から中国人と見られているのであるとすれば、あまり喜ぶべきことではないのだけれど。