三江の風雨橋
(5月25日)


  翌日、龍脊から降りて龍勝へ行くのに、宿の女性が相乗りのタクシーを捜してくれた。しかしタクシーに乗り込んだのだが、別の客がいるとかで降ろされてしまった。別のタクシーを捜して、龍勝へ。龍勝では目的の銀水?塞という所へ行ったが、大したところではないのでガッカリ。それで翌日は時間が有りそうなので、もっと奥の立派な風雨橋を見に行くことにした。今日のうちにタクシーを予約し、龍勝から桂林までの帰りの直通バスのキップを買っておいた。それから龍勝の町の散歩をした。龍勝の町に沿って大きな河が流れていて豊かな水があった。河には小さい船があって河を遊覧できたが、この船の主な用途は渡し舟らしかった。山奥の町にしてはなかなかいい町であった。山奥と言っても中国のことであるから人は多かった。町の人の様子はやはり田舎の人のようだった。

  翌日の朝、ホテルからタクシーに乗って、三江の風雨橋を見に行った。三江は龍勝から西の方に5,60キロ位行ったところにある町で、貴州省に近い町である。龍勝から三江まではずっと大きな川沿いの道を走る。この地方はどこに行っても豊かな水に恵まれていた。為政者でなくてもこの水を、乾いた北京の方まで持ってきたくなる。山並みはあまり高くなく、緑にも恵まれていた。道は舗装されている国道であった。回りの風景を見ていると、日本の田舎の風景にも似ていて、水と緑がある風景は心地良い。川沿いに建っている木造の家は、少数民族の家らしかった。しかし少数民族の衣装を着ている人は見かけなかった。

  三江の風雨橋は三江の町を通り抜け、更に20キロくらい北上したところにあって、"程陽風雨橋"と呼ばれるものである。トン族が作る特有の橋で、三江地方では最大のものだそうだ。屋根のある木造の橋で、五つの楼を持つ美しい橋だった。橋に屋根を付けたことにより、又ベンチもあるので、以前は憩いの場になっていたようであるが、今はお土産屋が占領していた。妻はここでもお土産のお買物。村の中央にはやはり木造の鼓楼があって、ここでは村のお爺さんたちがトランプなどをしていた。建物の形は違うが、やはりこのあたりも日本の昔の田舎のような風景に思えた。

  帰りには台湾の一人旅の女性が、タクシーに乗せてくれと言うので、龍勝まで乗せてあげた。大きいリックを背負った、太った若い女性だった。貴州省から少数民族の村を見ながら来たのだとか。その女性は偶然にも日本語が話せた。台湾の日本企業、富士?に勤めているとのことであった。龍脊の梯田の宿であった女性も広州ホンダに勤めていると言っていた。やはり日本企業に勤めていると、旅行が出来る位に給料が高いのかもしれない。二人とも日本に行ったことがあると言っていた。

  その日のうちにタクシーで龍勝まで行き、バスに乗り継いで桂林まで戻った。その晩はタクシーに西洋料理の店に連れて行って貰ったが、名前だけが西洋料理の店で失敗。何を食べたか忘れたが、とにかく安いものを食べた。このあたりの名物は漓江の川魚の料理とか、山鶏(?)の料理とかが名物らしかったが、川魚では美味しくなさそうだし、山鶏ともなると、骨付きのぶつ切りだったりするかもしれないので、このようなものはパス。桂林名物の桂林米粉は美味しかったけれども。

  翌日は桂林のニコニコ堂(微笑堂)を見てから、偶然見つけた本格的西洋料理店で昼食を食べる。どうも妻との旅ではこうなってしまう。数日前の桂林ではマクドナルドで食事した。その前にはヤム茶などがあるかと思って、タクシーに広東料理に連れていって貰ったが、私のイメージの広東料理=ヤム茶は間違いで、桂林では広東料理=海鮮料理らしかった。実は私も中国の高級料理(海鮮料理など)は値段ほど美味しいとは思えないし、あっさりした料理を食べたいのである。

  その後空港に行ったが、ここで最後のトラブル。予定していたフライトが中止なってしまっていて、別の飛行機になったので、3時間ほど待たされた。それでここで又妻はお土産のお買物となる。北京の自宅に辿り着いたのは、夜の12時過ぎになっていた。

  行ってみる前は道が悪いのではないかとか、お土産売りやガイドの客引きがうるさいのではと心配したが、そうでもなかった。方言だから言葉が通じないなんてこともあまり心配はなかった。スケジュールに付いても、全てが予定通り行ったわけではなかったが、予定外の所も行けたし、日本人があまり行かないような所まで、二人で行けたのはよかった。待合室でボーと中国人を見ながら待っているのも、あれも良かったかもしれない。それに雨の多い地方にしては天気に恵まれた。失せ物は麦わら帽子一つだけだった。