格地 勝胤寺について

由来

 勝胤寺は享禄元年(1528年)に創建されました。
開山は華翁祖芳大和尚と申します。
かって能登の祖院で典座職を務めたことがある、と伝えられる方です。
1500年当時、開山を招ねかれた開基千葉勝胤公は下総を統括する立場にありました。
しかし、応仁の乱以降の内訌状態は千葉一族にも及び、「千葉介」という役職にあっても、
その権威は既に地に堕ちていたものと思われます。
鎌倉の幕府の力も失墜し、全国各地で千葉県と同じような混乱した社会状態に陥り、
後に“戦国時代”とよばれる状況下にありました。勝胤公は
下総の頭領として、地域の安定を如何にはかるべきか、苦心惨憺の日々を
過ごされていたと思われます。たまたま、当時を伺う古文書が一通残されていました。
それによりますと、開山は勝胤公に対し、「黙とは何か」という参究課題を与えて
坐禅指導されていたようです。
 当山の参禅会では、この「默の参究」を参考に弁道致しております。

江戸時代中期、当山十四世徳洲智斷大和尚にいたって、“常恒会地”という寺格を
得ています。この地位は、一年の間に夏と冬の二度、「結制」という修行期間を
設けることができるもので、宗門では格式ある寺院ということになっております。
創建時代のようにはいかなかったようですが、一応、修行道場としての体裁を
整えることができたものと思われます。その後、十四世和尚様は、
当山の中興の祖として讃えられております。

修行者数も開山期には六十名近くいたようですが、
江戸末期には一桁台に落ちていたようです。
明治初期には、勝胤寺は廃仏毀釈の影響もあって、建造物に留まらず
財政的にもほぼ壊滅状態に陥ったようです。

明治に入り、新潟県東蒲原郡鹿瀬の多宝寺様の弟子であった祖父が入山し、
大正の初めに祖母を迎えました。生活と布教の両面から、
文部省認可の学校「大正義塾」を勝胤寺に開設しました。
地元佐倉を中心に、成田、酒々井周辺の農家の子弟が学んでいたようです。
七年前、当村出身で最後の生徒さんであった田中久治さんが
百三才でお亡くなりになりました。大変お元気な方で、
「先生は偉かった」と最後まで口癖のように呟かれていたのが印象深い。
書道、ソロバンは当然ですが、孔子をはじめ孟子、
莊子まで学び、坐禅もしたたか仕込まれたとのことでした。

師父の代になり、昭和三十九年(オリンピックの年)に
本堂と庫裡が再建されました。寺領の杉の木を伐採しての建設でした。
間口十一間の本堂は六間に縮小されました。
師父は、十一ヶ寺あった末寺を三ヶ寺に整理し、
将来の宗教的活動の地盤整理に一生を捧げました。
祖父が四十七才の若さで遷化したため、
駒澤大学の総長であった江藤即應先生に嗣法しております。その薫陶を受けたためか、
正法眼蔵に関しては一家言あったように思います。

現在は・・・

 平成14年に檀信徒会館が落成致しました。
檀信徒の皆さんと共に長い間、懐いてきた夢、空華の実現です。
道元禅師においては空華とは空に浮かぶ華なき華のことではありません。
見ること、思うことの一つ一つが空華である、という思し召しです。
お陰様で、住職としていろいろなことをさせて頂いております(年間予定表参照)。
この会館のお陰で、檀信徒の皆様と共に、様々な行事を企画立案し取り組んでいます。
このホームページをご覧の皆様も、是非ご参加下さい。

参道のこと・・・

 昭和の初めに“京成電車”が境内を突き抜けることになりました。
そのため境内の面積は縮小され、山門と伽藍が分断されて今日に至っております。
その時交渉に当たっていた祖父、勝胤寺三十一世泰山眞龍和尚は、志半ばで
四十七歳の若さで、遷化致しております。
住職が不在、交渉半ばということもあって、今日勝胤寺は参道の無いお寺に
なってしまいました。今は手を打つすべもありませんが、かっての山門後から
現在の勝胤寺入り口まで約三十㍍ほど、京成電鉄さんの土地を
地元の人たちと共に、“参道”として(生活道路・通学路としても)使わせて頂いております!

  現 況・・・

☆正報(住持職としての実務)
 *ここに掲げる各種行事を10年前から続けております。が、容易ではありません。
 *和尚として未だ未熟なため、月二回弟子と共に、愛宕の青松寺さんに通っています。
  青松寺さんは無料の仏教塾を世界に向けて開放されております。
  ご住職にはご挨拶もせず、臆面もなく末席に連なりご指導頂いております。
  (失礼な奴だと自己反省しております。お許し下さい。)
 *また県下の道友有志と月二回、千葉市の福寿院さんを会場に正法眼蔵と
  伝光録の輪読会に参加しております。

 ・・・・そんなこんなで、頭の中はパニック状態。若い時、50才過ぎたら
 ユックリ坐ろうなどと夢を見ていたこともまた夢の夢でした・・・・・

☆依報(伽藍や境内環境等)
 *境内が全く整備できておりません。
  正報に従うのが精一杯というところです。檀家さんにご迷惑をお掛けしながら、
  なお甘えてお力添えを頂いております。

 *本堂の後ろが、一町歩余りの小高い山になっております。将来、遊歩道などを整備して
  都会の人々の憩いの道になればいいな、とまた懲りもせず夢を見ております。

 *師父のお墓は未だ墓標一本です。歴住様のお墓も開基様のお墓もお弟子様たちのお墓も
  未だ未整備です。
  従って、万が一拙僧に事が起きた時は師父の脇に、師父同様墓標一本で供養するように
  弟子に申しております。
  (弟子とは尼様になってくれた家内のことです。提案ですが、全国のお寺の奥様は全員
  尼様になれる道があります。如何でしょうか。
  ついでに、お寺の子弟は全員仏弟子になるべきだと思います。
  お仏飯を頂く限りは。)
  歴住様のお墓は、今後合祀墓になります。
  当山にふさわしい形式は何か、目下考慮中です。

 *開基様と千葉一族の供養塔
  現在、佐倉市が調査研究中です。
  市の指定を受けていますので、その結果をまって整備する予定です。

 *抜魂済み墓石群の整備も不十分です。
  合同墓地の建造と合わせて逐次整理して参ります。
  万霊等ないし毘盧遮那仏を安置したいところです。

 *金比羅様
  本堂の左手、南方の高台になっているの境内の飛び地にあります。
  印旛沼を航行していた高瀬舟などの交通祈願所だったようです。
  かっては、月の10日にご祈祷会が開かれていました。
  可睡の権現様、豊川のお稲荷様も合祀されていました。そのため、
  江戸期から伝えられる大般若経600巻は、ここに納められていました。
  現在、休眠中ですが、いづれ金比羅様、権現様、お稲荷様には挙って
  ご活躍頂くつもりです。

 *山林整備
  30年前、3町歩余りの山に植林しております。
  主に杉の木を主体に4000本植樹いたしました。半数は、すでに間引きしてあります。
  200年後の鬱蒼とした大木群を夢想しております。

 *駐車場の整備と壊れた建物の撤去
  現住職の勤めとして近々に実行して参ります。
  駐車場は、目の前の田圃を予定いたしております。

 

 *千葉一族の菩提寺
  500年の歴史を持つ、千葉県にとっては由緒あるお寺です。
  全国におられます千葉一族の子孫の皆様!是非、勝胤寺復活のためご協力下さい。
  千葉氏を歴史の闇の中にこのまま埋もれさせておくのは残念です。
  勝胤寺と共に皆様のご先祖を顕彰したいものです。

  現在地より、東南に向かって1キロほど離れたところに、本佐倉城址があります。
  勝胤寺を建立した千葉勝胤公のお城跡です。
  中世の館城の遺跡としては極めて保存状態が良く、全国7箇所の一つとして、国から
  指定を受けております。目下、発掘調査と保存整備に取りかかっている最中です。
  
  今も、多い時には一日50人以上の見学者があります。
  将来、この城址公園とのタイアップも考えられます。
  
  この方面での勝胤寺のあり方に対し、心ある方々のお力添えをご期待致します。
  特に、千葉氏に縁(ゆかり)のある方々のご発案をお待ち申し上げます。