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「映画弁士塚」浅草浅草寺
「明治の中葉わが国に初めて映画が渡来するやこれを説明する弁士誕生 幾多の名人天才
相次いで現れその人気は映画スターを凌ぎわが国文化の発展に光彩を添えたが
昭和初頭トーキー出現のため姿を消すに至った ここに往年の名弁士の名を連ねこれを記念する」
建設者 大蔵 貢 建立 昭和33年11月18日
浅草六区は映画とは切っても切れない間柄。この塚はトーキー時代到来で、はかなく消えた
「弁士」の黄金時代の歴史をとどめようと建てられた。
題字は鳩山一郎元首相の筆です。 |
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成田山「高浜虚子」の句碑
「凄かりし 月の団蔵 七代目
成田山公園にある高浜虚子の句、高浜虚子は正岡子規に師事した。成田山公園には
七代目市川団十郎とその父の六代目団十郎があったが
先の大戦に供出されため
その代りに八代目団蔵が七代目団蔵に加え団蔵と交流があった
高浜虚子の句碑を立てた、高浜虚子は俳人23人と共に成田山に訪れている。
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「新田次郎の歌碑」(石巻・日和山)
歌碑は「北上川の盡きるところのかすみには なおとまどいの青き波かな」
新田次郎は(本名:藤原寛人)は1912年6月6日、長野県諏訪市に生まれる。 小説家、気象学者、妻は藤原てい。 昭和30年「強力伝」で直木賞、NHK大河ドラマ「武田信玄」の原作者で吉川英治賞を受賞。「アラスカ物語」の取材の為、昭和48年7月石巻を訪れ、当時の石巻社会教育課長の市史編纂委員の橋本晶が案内を務めた。 この歌碑は帰京後、橋本氏への礼状にしたためた作である。
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「石川啄木の歌碑」(石巻・日和山)
歌碑は「砕けては またかへしくる大波の ゆくらゆくらに胸おどる洋」石川啄木は岩手県南岩手郡(現在の盛岡市玉山)の曹洞宗日照る山常光寺の住職・石川一禎と妻・カツの長男として生まれる。歌人・詩人・評論家として活躍、本名は石川一、中学時代親友の岡山不衣、金田一京助らと知り合う「明星」を読んで与謝野晶子らの短歌に傾倒し、また、野村胡堂や及川古志郎らの影響を受け、文学の志を抱く。この歌は、明治35年5月28日、石川啄木が盛岡中学5年生の修学旅行で石巻を訪れ、長瀬海岸を詠んだ2首中の1首。
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「竹久夢二の碑」
歌碑は「待てど暮らせ来ぬ人を 宵待草のやるせなさ 今宵も月も出ぬそうな」
明治末期から大正にかけて活躍した詩人銚子の海鹿島海岸にひっそり咲き乱れる宵待ち草によせて、わが身の悲恋をうたった碑です。 昭和年に房総夢二会によって建立された、夢二は明治43年27歳の夏に海鹿島に滞在しこの「宵待草」のモデルとなった女性と出会った。左側が海鹿島の碑、右側は「地球が丸く見える丘」にある碑です。
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「尾崎咢堂の碑」
「朝またき彼方の岸は アメリカと 聞きて瓜立つ おはしまのはし」 政界の重鎮であった尾崎咢堂は何回か銚子を訪れた、尾崎は本名を尾崎行雄、安政5年(1858年)神奈川県生まれ。 昭和14年に旧伏見宮家別荘の瑞鶴荘を訪れた時に詠んだ歌碑です、碑文の歌は、銚子は東にあり、、向こう岸はアメリカで、アメリカに一番近い事を歌った歌の様です。 海鹿島海岸近くに歌碑が有りますが、右側は「地球が丸く見える丘」にある歌碑です
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「国木田独歩」の碑
「なつかしき わが故郷は何処ぞや 彼処にわれは 山林の児なりき」 慶応4年9月播州竜野藩の竜野丸が銚子沖で難破した、この船に乗船していた国木田専八は銚子に滞在し、新生村の淡路善太郎の妹まんと知り合い、明治4年7月二人の間に生まれた。国木田は詩人で作家、武蔵野、酒中日記などの著書がある、この碑文は「独歩吟」の一節で、詩人日夏耿之助の揮毫によるものと言われる海鹿島の碑は大きな自然石で造られている。写真は「地球が丸く見える丘」の碑です。
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