夜須町(やすまち


 朝倉郡夜須町は、朝倉郡の西北端に位置する農業の町である。東北部の三郡山系に連なる丘陵地帯と宝満山の支流「山家川」、曽根田川など数本の川によって形成された台地と安野原の平坦地より成っている。北部の砥上岳(497m)の中腹に観音塚古墳(装飾古墳)があり、南部の花立山丘陵地には九州最大の焼ノ峠古墳(前方後円墳。国指定史跡)があり、この地の支配者の墓と考えられている。この他、町内には古墳群や住居跡などが数多く点在しており、夜須地方は大昔から人々が住み着き、大きな集落を成し、農耕生活を営んでいたと考えられている。

 夜須町は、「和名抄」に記載された筑前国夜須郡六郷の内の中屋郷に当り、夜須郡の郡衛は夜須町八並付近(叉は、三輪町久光付近)に有ったと考えられている。

 中世は少弐氏の支配地の一つであった。

 江戸時代に入り福岡藩の領地となったが、元和9年(1623年)、支藩として秋月藩が成立し、現在の夜須町の内、三箇山、畑島、下高場、四三島の各村が秋月藩領となった。

 明治22年4月1日、町村制施行により、三並・畑島・長者町・曽根田・三牟田・櫛木・三箇山・黒岩・桑曲の9カ村が合併して三根村に、二・朝日・中牟田・石棺・松延・砥上・吹田・赤坂の8カ村が合併して中津屋村に、四三島・下高場・東小田・篠隈の4カ村が合併して安野村となり、3カ村が成立した。

 明治29年、夜須・下座・上座の3郡が合併して朝倉郡となったので、これより3カ村は朝倉郡に属することになった。

 明治41年4月、三根村、中津屋村、安野村の3カ村が合併して夜須村が成立した。(昭和22年、桑曲地区を分離して嘉穂郡内野村(現在の嘉穂郡筑穂町)に編入)。

 昭和37年4月1日、町制施行して夜須町になった。

 夜須という地名の起源について、「日本書紀」に次のように記載されている。
 荷持田(のとりた)に住んでいる羽白熊鷲(はじろくまわし:筑紫の豪族)は皇命に従わず常に人民を略盗(かす)めていた。そこで、神功皇后がこれを討伐するため、仲哀天皇9年3月17日、日宮(現、福岡市東区香椎)から松峡宮(まつおのみや:三輪町栗田や大宰府市内山などの説があるが未確定)に向かった。同年同月20日に層増岐野に至り熊鷲を撃ち滅ぼした。皇后が「熊鷲を取り得て我が心則ち安し」と語られたので、この地を「安(やす)」といった。その後、奈良時代に郡名が漢字二字に改められたとき、「安」が「夜須」になったと言われている。荷持田は現在の甘木市秋月町野鳥、層増岐野は夜須町安野に比定されている。

 「筑前国続風土記」によれば、安野は東小田、四三島、下高場の間に広がる野原の総称で、「七板原」とも呼ばれていたといい、夜須、三輪、甘木に渡る夜須地方の野原(平地)を指している(夜須町史)。
 万葉歌人・大伴旅人が大宰師として大宰府に住んでいた天平3年(731年)、太宰大弐丹比県守が民部卿に栄転して都に帰ることが決まったときに贈った歌がある。
  「君がためかもみし待酒安の野に 独りや飲まむ友なしにして」(「万葉集」巻四)
 当時、都から遥かに遠い大宰府に赴任した貴族の都への思いは強く、安野は心を癒す宴遊の地であったのであろう。

 夜須町には、次のような民話が伝わっている。
 朝日長者は栄華な生活をしていた。ある時、妻が差し出した蕎麦が気に入らず、足で蹴飛ばしたところ、それから家運が次第に傾いた。妻は離縁されて博多へ行き、みすぼらしい男の女房になった。ところが、福の神がついてきていたので忽ち長者になった。この男が博多の豪商・神屋宗湛であるという(筑前伝説集、夜須町史)。
 「夫たるものは、妻を粗末に扱うべからず」、「贅沢に流れて食べ物を粗末にする事なかれ」ということを教えた話であろう。