邪馬台国「朝倉説」


1.安本美典氏の紹介

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●安本 美典(やすもと よしのり)
 1934年中国(旧満州)生れ。
 京都大学・心理学科卒。

現在、産能大学教授、文学博士。
季刊「邪馬台国」編集責任者。
「邪馬台国の会」主宰。

日本古代史を数理文献学という独自の手法に基づき、コンピュータを駆使して科学的に解き明かす、「邪馬台国 朝倉説」の第一人者。「日本誕生記」、「邪馬台国の真実」 など、著書多数(後記参照)。


2.安本説(朝倉説)の紹介

「高天原=邪馬台国説」、
「邪馬台国九州−>大和東遷説」、
「歴代天皇在位10年説」、
「天照大神=卑弥呼説」、
「三角縁神獣鏡 国産説」、
「古事記・日本書紀の記述は検証に値する」、
「九州・大和の地名の一致」

などを軸に日本古代史の謎は、偏った情報だけで解明することは困難であり、日本の文献、外国の文献(中国文献・朝鮮文献など)や考古学的に裏付けされた事実を考え合わせ、数理文献学の手法を駆逐し、「科学的に日本古代史の解明を目指す必要がある」ことを説いている。



「邪馬台国東遷説」の概要(安本氏の講演より)

1)邪馬台国は何天皇の時代?

 邪馬台国の基本文献は「魏志倭人伝(ぎしわじんでん)」ですが、「魏志倭人伝」は、中国から遥かに遠い日本のことを書いたので、いささか情報不足だと思うのです。

 例えば、[x+y=2、2x+y=3]この連立方程式を解きますと、いうまでもなくx=1 y=1になります。これは情報が十分に与えられているので、答えが一義的に確定する。ところが仮に式が一つだけしか与えられていない場合には、答えは不定になります。つまり、条件を満たす解は幾らでもあるで、xが0でyは2でも、x=1、y=1でも、x=2、y=0でも条件を満たす。条件を満たす解は幾らでもあるわけです。「魏志倭人伝」というものは、正にそういう状況にあると思うのです。
 条件を満たすというだけのことならば、無数に解がある。 その結果、「邪馬台国」に関して現在400冊以上の本が書かれているけれども、いまだに確定的な答えがでないということになります。
 つまり、与えられた条件が不足しているので、情報を沢山にしなければ、答えは確定しないということになります。
 例えば、考古学なら考古学だけ、或いは「魏志倭人伝」なら「魏志倭人伝」だけ、或いは日本側の文献なら日本側の文献だけというふうに、条件を少なくした場合には、当然情報が不足して、答えは定まらないということになるわけです。
 「魏志倭人伝」は日本のことを書いている訳ですから、日本側の文献「古事記」「日本書紀」なども使って情報を増やさないかぎり、答えは定まらないと私は考えます。

 戦争中の反動で、「古事記」「日本書紀」に書かれていることは信用できないという津田左右吉さんの説が戦後は大変盛んになり、日本古代史学会の趨勢になったわけですが、私は津田左右吉氏の説は、マルクス主義と同じであって、あの頃の時勢を反映したまったくのホラ話だと思います。
 私は「古事記」「日本書紀」にも信頼をおけると思いますけれども、そのこと自体を論議しますと、大変長くなりますので、それは省略します。
 「魏志倭人伝」や考古学的な成果、それから日本側の文献などすべての情報を用いないかぎり答えは定まらないとわたくしは考えます。
 そうした前提の基で話を進めます。

 西暦239年、中国の魏に日本からの使いがやってきた。そして邪馬台国という国があり、卑弥呼という人がいたと中国の文献に書いてある訳です。これは日本の状況を述べているのです。では、西暦239年は「古事記」「日本書紀」の伝えるところによれば、いったい何天皇の時代であったのか。どの天皇の時代なのかがわかるならば、「古事記」「日本書紀」のその天皇についての記事を読めば、どこに邪馬台国があるのかがわかるのではないかと、私は考えたわけです。
 「日本書紀」にはひとりひとりの天皇について、たとえば神武天皇は西暦紀元前660年に即位したとかいろいろなことが書いてあります。ところが、これには非常に大きな年代の延長があるようです。元々の伝承は「古事記」の本文に書かれていますように、年代が入っていなかったと考えられます。神武天皇の次は綏靖天皇という天皇がいたというような順番だけが書いてある。これが元々の伝承だったと思います。
 さて、「古事記」「日本書紀」には歴代の天皇名が書かれています。それでは239年という邪馬台国が存在した、あるいは卑弥呼が魏に使いを出した年というのは、何天皇の時代であったのか、まず[図1]をご覧ください。

図1 世紀別天皇平均在位年数

歴代天皇の平均在位数が400年きざみでまとめてグラフにされています。江戸時代から現代、17世紀から20世紀においては、天皇の一代の平均在位数は22年くらいになっています。昭和天皇は64年まで在位されましたが、これは確実な歴史時代に入ってからの在位年数の最長記録です。このグラフを見ればわかるように、過去にさかのぼればさかのぼるほど平均在位年数は短くなります。奈良七代70年、といわれるように、奈良時代はおよそ70年続き、その間に7代の天皇が立ちました。すなわち一代の天皇の平均在位年数は約10年です。奈良時代と現代を比べますと、天皇の平均在位年数が約2倍に伸びているわけです。
これは日本だけでなく、[図2]の中国の王の在位年数の場合も同じです。

図2 中国の王の平均在位年数

西洋の王の場合も同じです。[図3]

図3 西洋の王の平均在位年数

 ローマの皇帝の平均在位年数は約10年です。世界の王の場合も同じ傾向が認められます。[図4]

図4 世界の王の平均在位年数

 第31代の用明天皇あたりになりますと、586年頃活躍した人という年代がわかりますから、用明天皇からさかのぼる。一代10年、一代10年とさかのぼりましたならば、何天皇の時代が邪馬台国の時代と重なるのかということが分かるはずだと考えたわけです。
 つまり古代に向かって年代の梯子をかけていったわけです。「ジャックと豆の木」のジャックのようにそれを登っていきますと、結論はどうなるか。結論だけをいいますと、神武天皇以後、全ての天皇が実在すると考えましても、神武天皇の活躍した時代は280年から290年くらいにしかなりません。つまり大和朝廷の一番初めは、邪馬台国の時代に届かないことになります。つまり大和朝廷の始まりは、邪馬台国以後であるということになるわけです。

2)卑弥呼は天照大御神?

そうしますと「古事記」「日本書紀」によったのでは、邪馬台国は探れないということになります。
ところがここに不思議なことがあります。
それは、「古事記」「日本書紀」ともに神武天皇の前には、神話の時代があったと伝えています。たとえば「古事記」であれば、全体の1/3のページを使い、神話の時代を語っている。その神話の時代を見ますと、神武天皇の5代前に天照大御神という女性の神様がいたと伝えている。神武天皇の5代前として、神武天皇の活躍した280年〜290年から5代、50年さかのぼりますと、天照大御神の時代は230〜240年頃になって、まさに卑弥呼の時代に重なるのです。つまり天照大御神というのは、卑弥呼のことが神話化し、伝承化したのではないかと考えられるわけです。

図5 天皇の代と没年

[図5]のグラフをご覧ください。横軸には歴代の天皇の代が書いてあります。縦軸にはその天皇がいつごろ活躍した人かが書いてあります。実線で書かれているのは、確実な歴史的事実です。そうするとこのグラフは下に凸形にかるく曲がったグラフだということが読みとれます。そして仮に卑弥呼=天照大御神としますと、横軸については卑弥呼は神武天皇の5代前、縦軸については239年くらいの人ということで、図中のAポイントが定まるわけです。このポイントが実線の延長線上にきわめて自然に乗っていることが、読みとれると思います。
卑弥呼は天照大御神という形で神話化し伝承化したとしたならば、、邪馬台国のことは天照大御神のいた場所ということになります。「古事記」「日本書紀」によると、その場所は、高天原となっています。この高天原とは邪馬台国のことが神話化し、伝承化したのではないかと考えられるわけです。

 

 

 

 

 

3)神話の中の地名図6 「古事記」神話の地名と地域別統計

つぎに[図6]のグラフをご覧ください。このグラフは「古事記」の神話にでてくる地名の統計をとったものです。そうすると九州の地名が一番たくさん出てきます。つぎにたくさん出てくるのが出雲の地名です。畿内の地名はごくわずかしか出てきません。そこで「古事記」神話の舞台は主に九州と出雲であるということになります。津田左右吉さんのいわれるように「古事記」の神話は大和朝廷の役人たちが天皇家の権威をたかめるために、机の上で創作したとすれば、畿内大和の地名が一番たくさん出てきそうなものですが、事実はそうでない。九州の地名が一番たくさんでてくる

 このことは何を意味するか?

 大和朝廷の人たちは遠い祖先の人たちが九州に居たんだという伝承、おぼろげな記憶を持っていたのではないかということになります。
「古事記」神話には畿内の地名もいくつか出てきます。しかし、その地名を丁寧に調べてみますと、本来の畿内の地名は一つも出てきません。例えば、「住吉」という地名が出てきます。
これは昔の「墨江」です。本居宣長は摂津の「住江」、つまり大阪府の「住吉」を考えています。従って、[図6]のグラフでは「墨江」は畿内の地名としてカウントしました。しかし、博多の辺りにも、宮崎県にも「住吉(墨江)」神社は有るのです。特に、この住吉神社の成立が、伊邪那伎の命の禊と関係するならば、むしろ宮崎県の地名とすべきでさえある。つまり、地名の統計をとると、九州が日本神話の主な舞台になっているということが云えるわけです。
更に、この神話の内容を見ますと、神話の中には「天の安川」という川の名が記されており、この「天の安川」において神々が会議を開き、いろいろなことをおこなったと書いてあります。「地名は言語の化石」といわれるように、古い地名が残りやすいといわれております。九州の地図を見ますと、北九州の中心部の甘木市の近くに、夜須町というところが現在でもあります。そうしてその夜須町あるいは甘木市の近くに小石原川という川が流れています。この川は別名「夜須川」とも呼ばれています。ごく最近、ここから平塚川添遺跡という大規模な環濠遺跡が出てまいりました。これは果たして神話を裏書きするものなのかどうか、検討に値する興味深い問題だと思います。

 

図7 大和郷のまわりの地名 図8 夜須町のまわりの地名

[図7][図8]の地図をご覧下さい.[図7]の地図は畿内、大和の地名です。[図8]は北九州の夜須町の地図です。ご覧いただきますとおわかりのように、ほとんど同じ場所に同じような地名があります。たとえば、北の方に「笠置山」という山があり、「春日」というところがあり、「三笠(御笠)山」というところがあります。あるいは「長谷」であるとか「朝倉」であるとか、ほとんど同じような位置に同じ地名があります。
これはいったい何を意味するのでしょうか?
結論からいえば、これは北九州の邪馬台国勢力が東に移って大和朝廷をたてたさいに、もとの九州の地名を畿内に持っていったんだとわたくしは思います。イギリスの人たちがアメリカに渡り、たとえば「ニューヨーク」とか「ニューハンプシャー」とかイギリスの地名をたくさん持っていった。それと同じような事情があっただろうと考えます。畿内の奈良県もこの甘木、朝倉のあたりも、地形が非常に似ていて、大きな川の上流であり、ある程度盆地的になっている。こういうことから、
私は甘木、朝倉あたりが邪馬台国の中心地であったと考えます

図9 弥生時代の九州地方の人口(遺跡)分布

[図9]をご覧ください。これは小山修三さんがつくられた九州地方の人口の分布ですが、筑後川流域の甘木、朝倉を含むあたりが人口の密集地帯であることがおわかりいただけると思います。また、南九州にも人口の密集地帯があることもご注目ください。

 

 

 

 

 

 

 

図10 稲佐の所在地それからまた、[図10]に出雲の地図が書かれております。いずものところに「稲左(伊那佐)の小浜」というところがあり、そこに建御雷(たけみづち)の神と天の鳥船の神という高天原勢力の二柱の神が上陸して、出雲の大国主の命と談判したと「古事記」「日本書紀」には書かれています。天の鳥船の神は船の擬人化だと考えられます。高天原というのはどこにあったか。高天原が仮に畿内にあったとするならば、畿内から出雲では船では行きません。高天原が九州にあったとするならば、船で行かなければなりません。つまり高天原は九州地方にあったのだろうと考えられるわけです。

 

 

4)邪馬台国時代の遺跡と遺物

[表1]と[表2]には九州、近畿、関東のいろいろな遺跡、遺物の数が書かれております。銅をとりましても鉄をとりましても、あるいは鉄鏃をとりましても絹をとりましても、数からいえば九州の方が畿内に比べて圧倒的に有利だと思います。畿内の方がわずかに有利なのは、三角縁神獣鏡と銅鐸ぐらいだと思います。銅鐸は「魏志倭人伝」には書かれていません。少なくとも、直接的に「魏志倭人伝」に書かれているものを考えたならば、これは九州の方がどうみても有利だと思います。鉄は消えてなくなるのではないかという佐原真先生のお話がございますけれども、「魏志倭人伝」に書かれているのは鉄だけではありません。他の遺跡、遺物のこともたくさん書かれています。そのほとんど全部が九州の方がずっと有利になっていると思います。

ここで遺跡、遺物についてもう少しくわしく考えてみたいと思います。佐原真先生は、先日放送されたNHKの「歴史発見」で、三角縁神獣鏡がたくさん出ているから畿内、大和が邪馬台国のあった場所と見られると説明されていましたけれども、三角縁神獣鏡というのは、主に四世紀の時代にしか出てこないものだとわたくしは思います。邪馬台国のことを議論するならば、邪馬台国時代のものをとりあげなくてはならないと思います。つまり邪馬台国時代という時代を設定して、その時代に遺跡の分布がどうなっているのかということを考えなければ議論の焦点がずれてしまうのではないかというのが率直なわたくしの感想です。
それでは邪馬台国時代の遺跡、遺物は何かということですが、埋葬形式として、まず土器の甕のなかに死体を葬るという甕棺
(かめかん)の時代が西暦紀元前後から180年頃までつづく。吉野ケ里遺跡なども、主なものはこの甕棺時代のもので、邪馬台国時代より前のものだったと考えます。甕棺時代のつぎにやってきたのが箱式石棺の時代、平らな石を組み合わせてつくるお墓の時代です。それがまさに邪馬台国時代の埋葬形式だと考えます。そのつぎに竪穴式の石室を持つお墓の時代がやってきます。これが主に四世紀時代のお墓であると思います。そのつぎに横穴式の石室を持つお墓の時代がくる。これはだいたい五世紀頃だと思います。つまり邪馬台国時代の遺跡、遺物を問題にするならば、箱式石棺の時代のものをとりあげなければいけないと思います。

図11 山田尾告示代の遺物の出土状況

[図11][図12]の地図をご覧ください。ここで地域と時間とを限定しなければ話が混乱しますので、旧甕棺墓地域というものを設定します。甕棺のおこなわれた地域です。この地域では、甕棺の時代のつぎに箱式石棺の時代がやってきます。ところが周辺地域には甕棺がおこなわれずに、はじめから終わりまでずっと箱式石棺が主におこなわれていました。ですから、地域と時間とを限定しなければなりません。
この甕棺がおこなわれた地域(旧甕棺墓地域)では、西暦180年頃から箱式石棺に変わるわけです。卑弥呼の時代は、箱式石棺の時代です。[図11]をご覧ください。これは箱式石棺から出た主な遺跡、遺物です。旧甕棺墓地域において、箱式石棺がおこなわれた卑弥呼時代のものにしぼってその分布を書いたものです。すると、昔、甕棺がおこなわれた地域では、四つの中心地があることがおわかりかと思います。
まず、福岡県前原市の平原
(ひらばる)のあたり。ここから非常にたくさんの遺物が出ていますが、これは原田大六さんが発掘されたたったひとつのお墓から出たものです。これは大変なもので、もし筑後川の流域から出たものならば、文句なく卑弥呼のお墓だといっていいようなものです。それから福岡市のあたりにひとつの中心があることがおわかりいただけるでしょう。また、私が邪馬台国があったのではないかと考える甘木、朝倉のあたりにひとつの中心地がある。それから吉野ケ里のちょっと北側、北背振村のあたりに中心地がある。その四つの中心地があることがおわかりいただけると思います。特に、鉄の遺跡、遺物となりますと、これは甘木、朝倉あたりが中心的になります。

 

 

 

 

 

5)台与(とよ)の時代図12 投馬国の遺物の出土状況

[図12]をご覧いただきたいと思います。この地域では初めから終わりまで箱式石棺がおこなわれていたので、箱式石棺が出たからと行って、それが邪馬台国時代のものであるとは限定できないのですが、そこにまた四つの中心地があることがわかります。
京都郡のあたり、今の行橋市のあたりにひとつの中心地がある。それから北九州市のあたりに、もうひとつの中心地がある。それから若宮町、宮田町のあたりに中心地があることがおわかりいただけると思います。さらにいまひとつの中心地は、遠賀川の上流域、香春町、田川市のあたりにある。この四つの中心地をふくめた地域が投馬国ではないかとわたくしは考えています。ここからはかなりたくさんのものが出ています。不思議なことにここの箱式石棺のなかからは、極めて多量の芝「ヤリガンナ」が出てくる。この多量の「ヤリガンナ」は何であろうか。もし人口の点からいったら邪馬台国の地域、筑後川流域からいっぱい「ヤリガンナ」が出そうなものなのに、そうはなっていない。これはなぜであろうか。

これは家をつくるための「ヤリガンナ」ではなく、船をつくるための「ヤリガンナ」だったとわたくしは思います。その船は何であったか、少なくとも三つくらいは考えられます。ひとつは天の鳥船の神と建御雷(たけみづち)の神が出雲方面へ行ったという伝承がありますように、出雲方面へ行くための舟ということが考えられます。
それからもうひとつはこの北九州のあたりに企救郡というのがありましたが、ここらへんに聞(企救)物部という人たちがいたと考えられるわけです。物部氏が、多くの船頭たちとともに、大和へ移ったという話が「旧事本紀」に書いてある。それと関係するのではないかと考えられます。もうひとつは、筑後川河口付近にあった神武天皇が出発した岡田の宮と関係があるのではないか。宮田町、若宮町からは簡単に筑後川河口付近に出られるような川のルートがあるわけです。したがいまして、ここで船などをたくさんつくったためにたくさんの「ヤリガンナ」が出てきたのではないか。
問題は京都郡であります。ここに「ミヤコ」という地名が残っています。古代においては、都はしばしば移っております。中国の方に注意がむいていた卑弥呼の時代には、確かに卑弥呼の都は「甘木、朝倉地域」にあったと思いますけれども、その宗女の台与の時代になったとき、都が京都郡に移ったのではないかと考えられるわけです。ここらへんは、豊前、豊後の「豊の国」であり、「豊の国」と台与という名前は、地名が豊という国だったから台与という名前で呼ばれたのか、あるいは台与という女性がそこに住んだから地名が豊になったのかわかりませんけれども、いずれにしても、豊という人名とは、無関係ではないであろうと思います。
そしてこの台与の時代こそ、のちの大和朝廷の前史をなす大発展時代だったのだろうと思います。つまり出雲方面にはそれなりの勢力が行き、それから大和の方面にはニギハヤヒの命が行き、そして南九州にはニニギノ命が天尊降臨したという形で行き、このように北九州から日本のあちこちに勢力がおよんでいった時代だったろうと思います。その一環として南九州に降った人たちがいる、そうしてそれがのちの大和朝廷につながるということになるわけです。
この宮崎県のあたりには、しかるべき遺跡、遺物がでないではないかというようなご質問も当然あろうかと思いますけれども、それについてわたくしの答えは用意してあります。要するに神武天皇は、宮崎県から出発して大和朝廷をたてた。それは邪馬台国のヤマトの名前をつぐものであった、と考えるわけです。宮崎県に天孫降臨したのは、なんらかの史実の核があったとわたくしは考えています。


邪馬台国は朝倉だ!