ふるさとの鉄道今昔
(朝倉市・朝倉郡)

2001.05.18


 朝倉地方の鉄道は筑豊地方などに比べると、かなり遅れて敷設されている。
 先ず、明治41年12月、二日市〜甘木間朝倉軌道」(軽便鉄道)が開通し、略、現在の国道386号線上を走っていた。明治45年1月には朝倉地区の恵蘇宿(えそのしゅく)まで延長、更に大正11年7月に杷木(はき)地区まで延長された。当時の二日市〜杷木間所要時間は2時間半、運賃は1円であった。昭和14年4月に基山〜甘木間に「国鉄甘木線が開通した(昭和61年3月、第三セクター「甘木鉄道」となる)のに伴い、朝倉軌道は昭和15年に廃線となった。
 一方、大正元年9月に田主丸〜甘木間に「両筑軌道(軽便鉄道)が開通、翌年に甘木〜秋月間が開通したが、昭和5年に廃線になっている。
 次いで、大正10年12月、「三井電気軌道」(通称:三井電車)の福島(八女市)〜久留米〜北野〜甘木間が開通した。現在、久留米〜甘木間は「西鉄電車・甘木線」として運行されているが、久留米〜福島間は、昭和33年11月に国道3号線の整備に伴い、廃線となった。

年表

鉄道名 区分 区間など
明治41年12月 朝倉軌道 開通 二日市〜甘木
明治45年1月 朝倉軌道 開通 甘木〜恵蘇宿
大正元年9月 両筑軌道 開通 田主丸〜甘木
大正10年12月 三井電気軌道 開通 福島(八女市)〜久留米〜北野(三井郡)〜甘木
大正11年4月 朝倉軌道 開通 恵蘇宿〜杷木
昭和5年 両筑軌道 廃線 田主丸〜甘木
昭和14年4月 国鉄甘木線 開通 基山〜甘木
昭和15年 朝倉軌道 廃線 二日市〜杷木
昭和33年11月 三井電気軌道 廃線 福島(八女)〜久留米



朝倉軌道

動 力 蒸気&内燃
軌 間 914mm
区 間 二日市〜杷木
距 離 44.4km
開 業 明治41年(1908)11月14日
廃 止 昭和15年(1940)4月20日


 北九州各地に有った軌間914mmの軽便鉄道の中で、距離的には筑後軌道より、やや短いが、様々な話題を提供していた軽便鉄道が朝倉軌道である。
 路線は、九州鉄道(現、JR鹿児島本線)の「二日市」から始まり、「甘木」を経由して筑後川沿いの「杷木」に至った。
 路線の殆どが県道上に有る併用軌道で、最初の開通区間は「二日市〜甘木」間で明治41年(1908)に開業している。その後は、県道の造成工事と共に延長され、明治45年(1912)に朝倉の恵蘇宿まで開通した。この頃に、筑後川を挟んで対岸を走っていた軽便鉄道「筑後軌道」との連絡を図るために、路線延長が計画されていた。一方、二日市から先は、博多までの延長が計画されていたようだが、何れの延長計画も実現していない。
 恵蘇宿から杷木までは大正11年(1922)に開通して、「朝倉軌道」本来の路線が完成した。
 昭和4年(1929)には、依井(よりい)で接続していた「中央軌道」を買収し、路線の長さは一気に40kmを超えた。
 周辺の軽便鉄道が経営的に苦戦を強いられてた中で、着々と会社の規模を大きくしていった朝倉軌道は、営業成績も順調に推移していった。
 地元住民のための軌道として、地道に営業を続けていた朝倉軌道に終焉が訪れたのは、昭和15年(1940)のことだった。前年の昭和14年(1939)4月に国鉄・甘木線(現、甘木鉄道)が開通しており、この線と競合路線をなるため、国からの補償金交付を受けて廃止となった。

 <余談>
   甘木市史(下巻)には、当時は道路と軌道の併用橋だった小石原川の「甘木橋」上を走行する蒸気列車(明治45年頃)の写真が掲載されている。


両筑軌道

動 力 蒸気
軌 間 914mm
区 間 田主丸〜甘木〜秋月ほか
距 離 18.4km
開 業 大正元年(1912)9月8日
廃 止 昭和13年(1938)6月24日

 両筑軌道は、先ず筑後軌道に接続する「田主丸〜甘木」間が、大正元年(1912)9月に開通し、営業を開始した。朝倉地区の中心地「甘木」で朝倉軌道と接続し、乗換え客で賑わっていた。更に路線は翌大正2年(1913)2月、城下町の秋月までが開業している。その後、嘉穂郡確井村までの延長が計画された。筑後と筑豊を結ぶ壮大な連絡路線として大きな期待を集め、先ず国鉄上山田線(現在は廃線)臼井に接続する「上確井〜飯田」間が大正9年(1920)に開業した。
 しかし、大正10年(1921)筑後川の大洪水という思わぬ災害のために木橋が流出し、筑前と筑後に線路が分断された両筑軌道は大打撃を受けた。
 大正14年(1925)5月、全資産を新両筑軌道に売却し再起を図ったが、昭和2年(1927)頃には、「上確井〜飯田」間も廃止されたようで、更に昭和5年(1930)7月に「田主丸〜甘木」間が廃止されて、翌6年(1931)5月、朝倉軌道に買収され、社名は元の「両筑軌道」に改称されるという複雑な変遷を辿っている。
 昭和11年(1936)9月、社名を「両筑産業」と改め、バス事業に進出するようになったが、鉄道線の業績は上がらず、最後に残った区間の「甘木〜秋月」間も、昭和13年(1938)12月に朝倉軌道よりも、一足早く廃止され、26年間の歴史に終止符を打った。


中央軌道

動 力 蒸気
軌 間 914mm
区 間 依井〜上田代(佐賀県)
距 離 12.7km
開 業 大正10年(1921)7月1日
廃 止 昭和4年(1929)1月11日に朝倉軌道に譲渡

 筑紫平野の北東部を走る軌間914mmの軌道網の一つが「中央軌道」である。
 大正8年(1919)10月、甘木市、三輪町、大刀洗町に跨る広大な敷地に、陸軍の大刀洗飛行場が完成し、飛行第四大隊が開隊された。
 朝倉軌道の依井(新町)から飛行場前を経由し立石村松崎までと、飛行場への貨物専用の引込み線が、大正10年(1921)7月に開業している。この軌道は、飛行機の燃料や飛行部品などの資材輸送、兵士輸送に貢献した。更に、大正13年(1924)に上小郡まで、昭和2年(1927)には鹿児島本線・田代駅に接続する上田代までが開業している。
 運行には当初、石油発動機関車を使用する予定であったようだが、実際は蒸気機関車が採用となり、5.5トンを3両、開業時に用意している。
 営業状況は厳しかったようだが、大刀洗飛行場への貨物輸送収入で、何とかもっていたようだ。
 全線が未だ完成していない大正13年(1924)に、九州鉄道電車線(現、西鉄・大牟田線)が開業した為に大打撃を受け、昭和4年(1929)、朝倉軌道に譲渡され、朝倉軌道の支線・田代線となった。「航空隊前〜依井」間は朝倉軌道の全廃まで存続したが、昭和9年(1934)に休止し、昭和12年(1937)に廃止された。


筑後軌道

動 力 馬力−>蒸気・内燃・電気
軌 間 914mm
区 間 久留米〜豆田(大分県)
距 離 56.7km
開 業 明治36年(1903)10月25日
廃 止 昭和4年(1929)3月25日

 「筑後軌道」は、九州地方最大の路線網を誇る軌間914mmの軽便鉄道であった。そのルーツは、明治36年(1903)に「浮羽市吉井〜久留米市田主丸」間を開業した「筑後馬車鉄道」である。
 その後、馬車鉄道は、順次路線を延ばしつつ、明治38年(1905)には石油発動機関車を導入して、軌道の動力化を果たした。後に明治40年(1907)には、筑後軌道と改称した。
 様々な路線が延長と開業を続ける中、念願の九州鉄道(現、JR鹿児島本線)久留米駅までの連絡線は、明治39年(1906)に開業し、更に大正5年(1916)頃までには、約50kmにも達する長大な鉄道網が完成している。
 動力車は、石油発動機関車が何と30両以上も存在していたようだ。後にその出力が弱いため、蒸気機関車に置き換えられた。尚、久留米周辺の一部区間では軌間914mmのままで電化された路面電車タイプ車両が運行に就いていたらしい。
 この長大な軌道の終焉は意外に早く、昭和初期に訪れる。筑後軌道に並行して国鉄・久大線(現、JR久大本線)が筑後・吉井まで開業することになり、競合路線となる為、補償を受けて、翌昭和4年(1929)に廃止された。


国鉄甘木線

 大正8年、朝倉郡三輪村、馬田村(現、甘木市)、三井郡太刀洗村(現、大刀洗町)の3村に跨る広大な山隈の林野に「太刀洗飛行場」が開設されて、陸軍航空第四大隊が駐屯し、周辺に航空支廠、航空機製作所、高射砲隊、陸軍病院などが次々と建設された。これら軍施設への物資輸送のため昭和14年4月、国鉄甘木線(基山−甘木)が開通し、朝倉郡三輪地区の原地蔵に太刀洗駅が開設されて、この辺り一帯は一大軍事基地となった。
 しかしながら、昭和20年3月び2度に渡る米軍の大爆撃を受け、飛行場と諸施設が潰滅し、戦後は開拓されて農地になった。また、国鉄甘木線は、国鉄の経営合理化により、昭和61年3月から第3セクターの甘木鉄道となった。