柴田川の合戦


 大友氏の耳川敗戦後、大友に対して各地で叛旗が翻ったが、筑前において、先ずその口火を切ったのは古処山の秋月種実(あきづき・たねざね)である。
 秋月種実は基養父(きやぶ)の筑紫広門と共に龍造寺隆信に呼応して立ち上がり、筑豊および筑後の一部にも勢力を伸ばし、生葉(いくは:現、浮羽郡浮羽町)の井上城主・門註所鑑景(もんちゅうしょ・あきかげ)を旗本に引き入れ、更に八女の星野中務大輔吉実をも配下に入れるという目覚しい活躍であった。
 そのため大友陣営は筑後では矢部の五条氏と生葉の長厳城主・問註所統景のみとなってしまった。

 天正6年の終わりに近い12月●日、立花道雪、高橋紹運が秋月勢の来攻に備えて、立花城、宝満城、岩屋城へ篭城のため入城したのであるが、果たして秋月種実は先ず宝満城、岩屋城を攻めんとして、肥前の豪族・綾部駿河守、秋月の将・内田善兵衛、横田讃岐守、上野四郎右衛門、木所刑部之丞、長谷山民部少輔、熊谷修理、芥田惣兵衛など4千人を率いて、筑前・御笠郡天山(現・筑紫野市天山)の柴田川に陣を敷いた。また筑後・生葉郡(現・浮羽郡)の井上城主・門註所治部少輔鑑景も秋月加勢のために手勢1千余人を引き連れて、この戦いに加わった。

 高橋紹運は、この状況を見て直ちに立花山の道雪に急を報じ、駆けつけてきた道雪の軍勢と共に御笠郡針摺峠(現・筑紫野市針摺峠)に打って出て、柴田川を挟んで対陣した。
 戦は矢戦より始まって銃撃に移り、やがて両軍水中に分け入っての大混戦となった。
 秋月勢に比べ、高橋、立花勢は小勢であったが、将兵よく奮戦したので、勝敗は容易につかなかったが、用兵に長けた高橋、立花の両将は思うところあって次第に兵を後退させはじめた。

 これを見た秋月種実は、将兵に急追を命じた。
 多勢を誇る秋月勢は、この虚に乗じて前後の兵を一つに纏め、大友勢を追って二日市を越え、片野を過ぎ、やがて大宰府の街を流れる白川の辺りまで追ってきた。
 この時、漸く暮色が迫ってきたので、秋月の将・問註所統景は秋月種実に向かって、夜中不案内の敵地に深入りすることは危険であるので、ここは一旦退き、兵に休養を与えて明日に備えるように勧めたが、種実は、今、折角、敵の城下に足を踏み入れながら後一押しのところで退くことは反って敵に休養を与え味方の攻撃に支障を来たすことになると、これを斥け、尚も兵を強引に進めた。高橋紹運は、このことを計算して充分に敵を隘路に引き入れておき、その将・由布美作、小野和泉、綿貫左三兵衛、高迫進士兵衛、成富左衛門尉などに精兵2千人余を指揮させて道路の陰に伏せさせ、時分を計って一斉に梳きの鬨をあげて、どっと前後より襲撃したので、不意を突かれて狼狽した秋月勢は忽ち崩れて態勢を立て直す暇も無く、雪崩れをうって城下から敗走しはじめた。

 高橋紹運、立花道雪は、この機を逃さず急追し、成富、綿貫らは真っ先に突っ込んで、そのまま種実の本陣目掛けて突入した。秋月方も長谷山、熊江、芥田、恵利らの勇士が必死に戦ったが、勝に乗じた大友勢のため次第に敗れて、遂に柴田川の線まで後退した。この時、二日市、針生の間にあって数流の旗馬印が夕暮れの風に乗って○○と