鹿狩り(秋月藩と能古島)

初めに

以下の文章は、博多湾に浮ぶ能古島(のこのしま)から発信されている能古島ホームページ「能古の歴史」ページ中の「鹿と鹿垣」を抜粋・編集させて頂きました。


本文

何時の頃からか能古島は鹿狩りの場となってた。鹿狩りの記録として最も古いものは寛政10年(1789年)だが、その翌年の寛政11年に馬牧を記念して牧の神社が再建されたというから、鹿と牛馬は同居していたということになる。

寛政10年の記録は、秋月藩主・黒田長舒一行が3月26日・27日の両日に行なった大規模な鹿狩りのこと。

一行は秋月藩の者の他、本藩である福岡藩から家老2人、用人1人、中老1人、御納戸頭1人、目付頭1人、それに御道具持、挟箱持、鉄砲持、茶弁当持、葉箱特、草履取、大工、医師などが随行し、勢子として各郡からそれぞれ20人が徴発されましたが、犬も早良郡内の185匹では不足だということで粕屋郡からも100四が集められました、これらの人や犬を乗せるための船も、藩船の栄寿丸、五十石小早、三十石小早、急用丸のほか、姪浜、浜崎、志賀、弘、箱崎の各浦から漁船77艘と加子水夫236人が動員された。

能古島では、これらの人々を迎えるための用意がされたが、黒田長舒が宿泊した組頭嘉左衛門の家では、2、3日も前から藩の大工が入り込んで便所その他の改築工事を行ない、その他の人々の宿も25軒用意された。賄い方としては島中の女子が動員された。

26日、姪浜から渡海して来た一行は白鬚神社で休息の後、秋月鉄砲方の合図の大筒の号報で鹿狩りを開始した。

両日の獲物は、討留めた鹿159頭、生捕りの鹿2頭、兎1匹であったようだ。

このような鹿狩りは度々行なわれたようだ。大泊の永田政衛氏宅を弁当岩といい、藩主などが鹿狩りに来島したときの弁当の場所であったという伝承が残されている。

記録としても、永福寺の過去帳に次のものがあり、島民が勢子として動員されていたことを物語っている。

 享和3年(1803年)10月2日

  江の口 甚十

  善応玄的信士

 鹿狩に出、鉄砲に当り即死。

鹿狩りは軍事訓練としての要素も持っていたらしく、動員された人々も公役として働いた。また、島の鹿は一般には開放されず、藩の御猟場としての利用しか許されいなかったので、鹿の数も増加し、最盛期には600頭にものぼった。

以上のような能古島の鹿であったが、明治以降、福岡藩の庇護を失なうと急激にその数も減り、数年間でいなくなってしまいました。大正年間に、鹿狩りの昔を再現し、レクリエーションの場にしようと屋久島から9頭の鹿を移入したが、この鹿が一時は増えすぎて、新しい開拓地として発足しはじめた大沼の人々にとっては多少迷惑な存在でもあったようだが、現在は絶滅してしまっている。

おわり