三輪町(みわまち)

 朝倉郡三輪町は、北東の古処山系・目配山(423m)から発する草場川と小石原川が形成した肥沃な扇状地に発達した農村である。太古、三輪の平地は湿地帯であった。弥生時代になって、この平地に人々が住み着いて稲作農耕を行うようになり、集落が形成されていったと考えられている。

 古代の三輪町は、「和名抄」に記載された筑前国夜須郡六郷の内、雲提(うなで)郷、大己貴(おおなむち)神社が鎮座している弥永(いよなが)一帯)と栗田郡(三輪町西部)に略当たっている。古代、夜須郡を東西に通じていた豊後道(大宰府−豊後国府)の宿駅、隈崎駅は、三輪町久光熊山で駅鈴2個が発見されたことから、この辺りにあったと見られている。(夜須町下高場付近の説もある。)

 鎌倉時代、原田種雄(はらだ・たねかつ)が時の将軍・源頼家から筑前国夜須郡秋月荘(福岡県甘木市秋月)を賜り、筑前国恰土郡(福岡県前原市)から移ってきて「秋月」氏を名乗り、以来夜須・下座・上座の3郡を支配した。
 しかし、豊臣秀吉が九州を平定して小早川隆景の領地となり、次いで黒田氏の福岡藩領となった。そして、秋月藩が成立してからは三輪町域内では、旧栗田・弥永・久光・上高場・依井・大塚・高田の7カ村が秋月藩領となった。

 明治4年7月、廃藩置県により秋月藩は秋月県となり、同年11月、福岡県に併合された。明治22年4月1日、町村制施行により栗田・森山・当所・上高場・山隈・高上の6カ村が合併して栗田村となり、久光・野町・大塚・依井・弥永・高田の6カ村が合併して大三輪村となった。

 明治29年4月1日、3郡(夜須郡・下座郡・上座郡)合併により夜須郡が朝倉郡と変わり、明治41年9月1日、栗田村と大三輪村が合併して三輪村が誕生した。

 昭和37年4月、町制施行して三輪町となった。

 三輪の地名は、弥永にある大己貴神社に由来している。大己貴神社の由緒については、「日本書紀」に神功皇后が新羅を伐つため軍兵を集めようと大三輪社を建てられ、戦勝祈願をされたのが同社の始まりであると記載されている。
 「古事記」の三輪山伝説によると、崇神天皇の御代に疫病が流行って、多くの人が死んだので天皇が愁嘆しておられると、ある夜、夢枕に大物主大神が立って「意富多々泥古(おおたたねこ)という人を以って我を祭らすれば国は安らかになるであろう」と申された。天皇が全国に使いを出して意富多々泥古という人を捜し出し、この人を神主として御諸山(ももろやま)に大物主大神を祭ったところ疫病は治まり、国は平安になった。
 意富多々泥古の母は活玉依毘売(いくたまよりひめ)といい、非常な美人であった。その姫のもとに、これも非常な美男子が訪れるようになり、姫はいつか身ごもった。しかし、その男の名前も住まいもわからなかったので、姫の両親が「今度、その人が来たら麻の紡ぎ糸を針に通して着物の裾に刺しておきなさい」と教えた。教えの通りにして翌朝見ると、その糸は戸の隙間を通って外に出ており、沢山あった糸のうち三輪だけが残っていた。糸を辿って行くと美和山の神の社に至った。そこで、はじめてその男が神であり、意富多々泥古はその神の子であることがわかった。麻糸が三輪だけ残っていたことに因んで、その地を「美和」と呼ぶようになったということである。

 大和の三輪山は、奈良県桜井市三輪町にあり、ここにも大神社(大三輪神社)があり、大物主神を祀っている。大物主神は、叉の名を大己貴命、大国主命ともいう。
 奈良県の三輪町と朝倉郡の三輪町とは、位置、地理的状況、地名など拾余りの共通した点が見られ、大変興味深い。
 例えば、長谷(初瀬)−長谷、雲提郷−雲提郷、高田−高田、黒田(久留田)郷−栗田郷といった同名の地があり、それぞれの西北に三笠−御笠という地がある。神武東遷説を裏付ける有力な事柄となっている(「三輪町史」)。