杷木地方の民話:片袖如来

 
 むかし、久喜宮(くぐみや)の「上げ」に、今からおよそ四百年ほど前、「永楽寺(えらくじ)」「玉泉寺(ろくせんじ)」という立派なお寺があった。
 しかし、このお寺は天正九年(1581年:織田信長が本能寺で殺された1年前)筑前の秋月氏と豊後の大友氏が戦った「原鶴の合戦」のとき、大友の手によって焼き払われてしまったが、そこは、今でもお寺の名前がそのまま地名となって残っている。
 その「玉泉寺」にあったという如来様にまつわるお話である。


 久喜宮に、青木弾正頼近という郷士(農業に従事しながら武士の待遇を受けた人)がいた。
 頼近は、生まれつき気が荒く、殺生が好きで、毎日弓矢を持って狩猟に出かけていた。そして、月に何度となく、村の農民を十人、二十人と呼び集めては、山狩りの勢子に使っていた。そのために、仕事が出来ず、田畑は荒れてしまうという始末だったので、人々は人の気持ちを考えないやり方や、むやみに殺生する頼近を恨んでいた。
 一方、頼近の奥方は情け深い人で、心から仏教を信じ、常々、玉泉寺にお参りしては、ご住職の法話を聞くことを心から喜ぶ、心の優しい人であった。
 奥方は、夫(頼近)の殺生を心配して、たびたび諌めていたが、頼近は、これがうるさくてたまらなかった。それに加えて、不思議なことに、奥方が玉泉寺にお参りした日に限って、獲物が一つもなかった。
 頼近は、いまいましくてたまらないが、じっと辛抱していた。
 そんなある日のことであった。むしゃくしゃしている頼近に、そっと告げ口をする者がいた。
「奥方が玉泉寺にお参りするのは、お寺の若いお坊さんに会うためです」と。
 そうでなくても、日ごろから爆発寸前の不満を抱いていた頼近は、カンカンに怒り、「今に見ておれ」と奥方の様子をうかがっていた。
 ある晩、奥方が玉泉寺にお参りしたので、この時とばかり、人気のない道端に待ち伏せて、お参りから帰る奥方を、一刀のもとに斬り伏せてしまい、急いで家に帰り、そ知らぬ顔をして横になっていた。しかし、憎んでいるとはいっても、夫婦だから、多少の愛情はあった。心の疼くのを感じながら横になっていると、間もなく、いつもと変わらぬ優しい声で、「ただ今戻りました」
といって奥方が、頼近の前に手をついて挨拶をした。
 頼近は不思議でたまらない。今さっき、確かに奥方を斬ったはずだと思いながら「そちの帰り道、何か変わったことはなかったか」とたずねた。

 奥方は「別に変わったことはございませんでしたが、いつものとおり、帰る途中で玉泉寺の方に手を合わせて拝んでいますと、急に肩すじがひやりとして目まいがし、その場に倒れていたようでございます。気がつくと、身も心も爽やかになりましたので帰って参りました」と話した。
 奥方の話を聞いていた頼近は、「はて、不思議なこともあるもの・・・・・・」と思い、「そなたの倒れていた所に行ってみようではないか」といって、二人でその場所に行ってみると、そこらあたり一面の草に真っ赤な血が飛び散り、そこに、これも真っ赤な血に染まった木片が落ちていた。手にとってよく見ると、どうも、如来像の片袖らしいのである。頼近は不思議に思って更によく見ると、血が点々と玉泉寺の方へ続いている。二人がそれをたどって行くと、血は玉泉寺の本堂の仏壇の前で止まっていた。

二人がご本尊を仰いでみると、何と、ご本尊の片袖が斬り落とされていて、その切口には、べっとりと血が着いているではないか。
これを見た頼近は、ハッと驚き、バッタリとご本尊の前にひれ伏した。
「南無三、さては我が妻の身代わりに立たせ給い、妻をお救い下さるとともに、愚かな自分を諌めたもうたか・・・・・・」
涙に濡れた顔を上げた頼近は、腰の刀を取って仏前に捧げ、
「ああ、私が悪うございました。明けても暮れても無益な殺生を続け、農民には迷惑をかけ、また、妻の諌めは聞き入れず、果ては、嫉妬に狂って妻を殺そうとまでしました。どうぞ、この罪深い私をお許し下さいませ」
頼近は、今までの自分の生き方を深く反省し、懺悔の涙をとめどなく流し、新しい人生を誓って、いつまでも、み仏の前にぬかづいていた。

 それから数十年の歳月が流れた。世は戦国時代の末のころである。豊後の大名、大友宗麟が、筑前まで攻め入って、お宮といわずお寺といわず、すべてを焼き打ちにして、多くの財宝や文書などを一片の灰としてしまった。玉泉寺も永楽寺もこの戦火を免れることはできなかった。
 戦後の騒乱も静まった慶長五年、黒田長政が福岡五十ニ万石の領主として入国すると、重臣・栗山備後利安(栗山大膳の父)に一万石を与え、志波の「までら城」の主として、筑前東部の守備を固めさせた。

 栗山備後の奥方は千代姫といい、後に「栄長院(えいちょういん)」と号した人である。
 奥方が、ある春の一日、侍女たちを連れて、久喜宮に遊びに行ったときのことである。玉泉寺跡に立ち寄ってみると、哀れにも、むかし栄えた寺の面影はなく、わずかに礎石を残し、石灯籠の破片が散乱している中に、破れかけたお堂が残っているだけであった。近づいて中をうかがってみると、片袖のない阿弥陀如来の像が、優しいお顔をして立っておられるのが目に映った。

 侍女たちから頼近夫妻の話を聞いた奥方は、「ああ、これこそ片袖の如来よ。身代わりの尊像であられますよ」と深く感激し、礼拝して、如来像を志波の館へ持ち帰り、念持仏(自分の部屋に安置して啓う仏様)として、朝夕礼拝していた。
 そんなある日のことである。久喜宮の大庄屋、養父助左衛門(ようふすけざえもん)が、志波の館へ参上して栗山備後公に次のように申し出た。

 「私、昨夜不思議な夢を見ました。まことに霊夢(神や仏が現れる不思議な夢)とでも申しましょうか。床につきますと、間もなく深い眠りにはいりました。それからどのくらい経ったでしょうか。『助左(すけざ)、助左・・・・・・』と、誰か私を呼んでいるような声に、はっと目が覚め、頭をもたげますと、夢とも現(うつつ)ともなく、片袖の如来様がお立ちになって、『古里(ふるさと)に衣の袖を残し置く また久喜宮に帰り着衣(きごろも)』と歌われました。
 その歌が、まざまざと耳に残って目が覚めました。なにとぞ、如来様の御尊像は、久喜宮にお返しくださいませ」

 栗山備後公は、これをお聞きになると、「み仏は、誰でも同じように慈しまれるのであるから、我が妻をお捨てになるはずはあるまい。我が妻が、縁あってこの館へ、み仏のお供をして参ったのに・・・・・」と言って、『古里に衣の袖を残し置くたずねてそれを取りて着衣(きごろも)』と返歌(へんか)した。
 それから、さっそく玉泉寺跡に行き、よく探させたところ、腐れた藁の陰から、何となく尊い光がさしているのが見えた。
 急いで藁を取り除いてみると、阿弥陀如来の片袖が現れたのである。助左エ門の枕元で片袖如来がお詠みになったお歌は真実であった。

 この事があって、この如来様に対する栄長院(千代姫)の尊敬の念は更に強くなり、このみ仏を深く信仰されるようになった。
備後公は、この片袖を如来様の御身に合わせ奉ろうと思い、持ち帰ろうとしたが、助左エ門は、「み仏のお慈悲をもって、片袖は残すとのお歌がありますので、この片袖だけは、ぜひここにお止めください」と、お願いした。
 備後公も「げにもさることよお(本当にそのとおりであるな)」と仰せられ、それ以来、片袖は久喜宮に残されることになったということである。 この片袖は、現在、「上ゲ」の稲積家(いなづみけ)に伝えられ、同家で大切に保存、奉祀(大切にお祀りすること)されている。

一方の如来像は、黒田家騒動のために、毛利家へ引きとられることになった栄長院千代姫と共に、山口県豊浦郡高山に移されたが、栄長院が亡くなった後は、下関市にある『稲積山 善勝寺』に預けられ現在に至っている。

このお寺では「袖乞いの弥陀」また「御袖乞弥陀」(別名・御身代弥陀)と呼ばれて、深い崇敬を受けている。
久喜宮の「稲積家」の人は、現在も毎年、下関の善勝寺にお参りに行っているということであり、また、善勝寺からも稲積家へお参りに来られるということである。
    

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