小石原村(こいしわらむら)


 朝倉郡小石原村は、古処山系・馬見山、○岳、白石山および英彦山系・大日ケ岳、台山などの山々に囲まれた山村である。中心地の小石原地区は標高500m前後の盆地状高原平地であり、村の総面積の90%は山林で、南流する大肥川(鼓川)と西流する小石原川沿いの谷底平地にある農地は10%に満たない、冬季は県下有数の降雪地帯で、小石原小学校は僻地校に指定されている。

 近世、筑前二十一宿の一つ小石原宿は深山の中の宿駅ではあったが、東の彦山口、南の鼓口、西の佐田口・江川口・嘉痲口、北の添田口など四方に通じる交通の要衝であったので、通行人の絶えることなく、国境の宿場、日田街道の宿場町としてかなりの賑わいを見せたという。
 ことに、九州修験道の中心道場英彦山への登山口に当たり、英彦山と宝満山とを結ぶ修験者たちの峰入りのルート(行者道)の中間に位置し、重要な修行の場であった。
 英彦山口にある行者堂の付近一帯は、昔は「深仙宿」と呼ばれ、行者堂内には修験道の始祖・役小角の坐像(大宝元年作)が祀ってあり、堂の前庭には石積みの大護摩壇(天明2年作、昭和60年県文化財指定)がある。また、その直ぐ近くに山伏が秘法の修行に用いたという○迦井(あかい:香水池)がある。このように小石原は英彦山霊場の門前町であると同時に英彦山神社の神領であったので、鼓・小石原両地区に産土神の高木神社(大行事社)が祀られており、修験道や山伏に因んだ行者堂とか笈釣、行者杉などの地名や伝承が多く見られる。

 在地の土豪として、この地方を支配した鼓の高鼻城主・野上氏や小石原の松尾城主・宝珠山氏は、元弘年間(1331年〜34年)に筑後を本拠とする星野氏に服属した。
 戦国時代は、秋月氏の支配下に置かれたようであるが、天正9年(1581年)、筑前進出を図ったキリシタン大名・大友宗麟は英彦山を焼き討ちし、更に翌年、小石原に来襲して秋月氏と戦い、村の至る所で焼き討ちしている。

 旧・小石原村は、昔は「腰原(越原)村」とも呼ばれ、筑前国・上座郡に属し、枝村として奥畑村と塔瀬村があった。また、旧・鼓村は、同じく上座郡宝珠山村の枝村であった。明治22年4月1日、町村制施行により、小石原村と鼓村が合併して、現在の小石原村が成立した。新村名は近世の宿駅・小石原宿の名が世間に通っていることから、その名を取り入れ小石原村とされた。

 小石原の語源は、「腰原」、「越原」は転訛したものともいわれるが、行者道であったこの盆地状高原を考えると妥当な説と思われる。また、一説に、小石の多い原っぱを指して呼んだ地名ともいう(「小石原村百年のあゆみ」)。

 小石原村は、小石原焼の産地として名が知られている。小石原焼は元々・小石原村皿山の民陶であって、その起源は明らかでない。
 村は、鎌倉時代中期の建治年間(1275年〜78年)から柳瀬家を中心とした半農半陶の村で、柳瀬家は代々・三右衛門を襲名している。江戸時代に豊前国小鹿田村(現、日田市)に小鹿田焼の窯を開き、更には、藩命により筑前早良郡鹿原村(現、福岡市早良区祖原)に西皿山焼の窯(西山高取ともいう)を開いた。
 一方、文禄・慶長の役の際、黒田長政が連れてきた朝鮮の陶工・八山が鞍手郡鷹取山麓(現、直方市)に窯を開いたのが高取焼の初めで、その後、穂波郡合屋白旗山(現、飯塚市)に窯を開き、更に、寛文7年(1667年)に藩命により小石原村釜床に移って窯を開いた。これが現在の高取静山窯の祖であり、献上品の茶器、花瓶などを製作した。
 従って、民陶の小石原焼と御用窯の釜床高取焼とは別系統のものであるが、現在では両方を混同している向きが多い。
 貞亨年間に皿山奉行が置かれ、その保護と管理の下に小石原の陶器生産が発展し、明治になると、英国の陶芸家バーナード・リーチも来訪して賞賛したという。毎年5月と10月に開かれる民陶祭は各地から訪れる観光客で大変な賑わいを見せる。