耳川の合戦
(島津氏 vs 大友氏)

 合戦の場所「耳川」とは、日向国(現在の宮崎県日向市)を流れる川の名。

 薩摩国、大隅国、日向国の三国統一を目指す島津義久は、1572(天正元)年の「木崎原の戦い」で、当時、日向国の中央部に大きな勢力を持っていた伊東義祐を破る。
 日向を追われた伊東義祐は、姻戚関係にある豊後国(現在の大分県)の大友義鎮(宗麟)を頼って落ち延びる。当時の大友氏は、北部九州に六ヶ国を有し、九州最大の勢力を持つ戦国大名だった。
 伊東氏の旧領奪還願いを聞き入れた大友宗麟は、1578(天正6)年9月、日向国侵攻を開始する。しかし、この遠征には、大友氏の中で意見が分かれ、大友宗麟の軍師、角隈石宗を初め老臣の殆どが反対だった。しかし、大友宗麟は彼らの言に耳を貸さず、自ら率先して出陣することを決める。

 大友氏の日向国侵攻軍は3〜4万、一説には6万以上という大軍だと謂われ、本隊は豊後国から直接日向国に入り、また別働隊として肥後国方面から一軍が侵攻し、島津軍の背後を突く作戦をとる。
 大友軍は進軍中に各地の寺社を破壊して回り、大いに住民の怒りを買った。また、大友宗麟自身は務志賀(現在の宮崎県延岡市)に本陣を置き、その地に館と教会を建て、信仰に没頭し、大友宗麟の嫡男で、当時の大友家当主・義統も豊後国(現在の大分県)の野津にあってキリスト教信仰に励み、家臣達の忠告も聞かず布教に精を出していた。
 大友軍は、合戦前から君臣の足並みが揃わず、軍の士気は揚がらなかった。

 一方、島津軍は伊東氏を日向から追いやった後、義久の末弟・家久佐土原城主に据え、日向国守護代として守備に当たらせていた。また、北からの侵攻に備え、要衝、高城山田有信を配していた。高城は日向中部にある切原川小丸川に挟まれた標高約60mの台地にある平山城。大友軍の侵攻を知った義久は、出水大口島津義虎新納忠元を配置し、肥後路の別働隊を警戒させ、家久を高城の援軍に派遣、自らも三国(薩摩国、大隅国、日向国)に総動員令を発し日向に向かった。

 10月に入ると、田原親賢(紹忍)を総大将とする大友軍の主力は高城下に辿り着き、これを包囲する。大友軍4万に対し、高城守備隊は家久らの援軍をあわせても3千余だったと謂われている。
 大友軍は城下の村を焼き払い、幾度か高城に攻め入ろうと試みたが、天然の要害である上に、城主の山田有信の必死の采配もありこれを攻めあぐね、一端、兵を退き持久戦の構えをとった。
 またこの時、伊東氏の旧臣が蜂起し、手薄になった都於郡城(とのこうりじょう)に迫るという事件も起こるが、都城北郷時久が駆けつけ事無きを得る。 この知らせを聞いた義久は流石に色を失い、鎮圧の知らせを聞き漸く安堵したと謂われている。

 10月も末になると、島津義久の率いる島津主力軍は佐土原城に到着、数日後には飯野の義弘らも日向に入る。そして、島津義久らは大友軍と高城を挟んで対峙する。
 11月12日、高城下の小丸川でついに両軍は激突する。戦の口火を切ったのは大友軍の田北鎮周の軍だった。田北鎮周は総大将の田原紹忍と意見が合わず、田原紹忍の命に従わず単独で進軍した。これを見た他の大友軍の武将達も遅れまじと一斉に進軍を開始。
 緒戦は大友軍が優勢で、島津の先鋒は潰走する。勝ちに乗じた大友軍は、一気に島津本陣のある根白坂に攻め入ろうとし、島津陣地へ深入りしてしまう。大友軍は一気に川を渡ろうとして、水際での戦闘になった。
 それまで戦況を見つめていた島津義弘は、渡河しようとする大友軍に対し一斉に鉄砲を撃ち込み、その横腹を突く。この攻撃で、大友軍の先陣が崩れ、先手の田北、佐伯の両将も討死にすると、元々統制の取れてなかった大友軍は一気に混乱し、両軍入り乱れての激しい戦闘が繰り広げられた。
 島津義久も本陣より旗本を率いて戦闘に加わり、また高城守備隊の島津家久、山田有信も城から討って出て大友軍の背後を突いた。三方から攻められた大友軍は総崩れとなり、田原紹忍は全軍に退却を命じた。
 島津軍は潰走した大友軍を尚も追撃し、耳川でも大友軍に大打撃を与えた。この一連の戦闘での死者は、大友軍が4〜5千人、島津軍も千人以上といわれ、負傷者はその数倍に上ると謂われている。

 務志賀で高城・耳川の敗戦を聞いた大友宗麟は、家族と僅かの従者を連れ、着の身着のままで豊後国に逃げ帰った。
 この戦を境に島津氏は九州の覇者へのし上がり、一方の大友氏は転落の一途を辿ることになる。

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