原鶴の合戦
(秋月氏 vs 大友氏)

 原鶴の合戦は天正九年(西暦1581年)の秋に、筑前国の秋月種実の軍勢が筑後国・井上城主・門注所治部少輔鑑景(もんちゅうしょ あきかげ)を案内者として、筑後国・生葉(いくは)郡に進入したことに始まる。

 筑後国・長岩の城に門注所刑部少輔統景町場興兵衛が立て篭もって大友氏の味方をするが、多勢に無勢なので、なかなか秋月氏の軍勢を防ぎ返す事は出来なかった。

 そこで、飛脚を立てて豊後国(大友氏)に急を告げた。これにより、大友宗麟は生葉に軍勢を向かわせた。

 以前から、日田郡・玖珠郡の警備に配置していた朽網(たくみ)宗暦を大将として、三千余人を日田より直ぐに筑後国・生葉郡に向かわせた。

 十一月四日、大聖寺の援軍・朽網宗暦は大聖寺の城攻めに取り掛かり、門注所治部少輔鑑景森播麿守実方(秋月種実の家人)を攻めた。

 秋月種実は是を聞いて、大聖寺の援軍には自分自身が行かなくては敵わないだろうと、内田善兵衛長谷山民部少輔を先陣に決め、秋月の城を出て麻底良(までら)の城に入った。

 ここに三日間逗留し、旗本の軍勢を集め、八千余人で香山に陣を置いた。

 大友方も、朽網宗暦が大聖寺の城を攻めれば、秋月方の援軍が来るだろうと用心していたので、一萬田氏の五千余人が豊府を出発して生葉に向かい、朽網軍と合流して大聖寺を取り巻き、筑後川の長瀬を渡って針目の城に陣を敷いた。

 秋月方は是を見て、原鶴に陣を張って待ち受け、合戦をした。

 秋月氏は事前に豊前の高橋元種(秋月種実の弟で、高橋家の養子となる)にも出陣するように言い衝けておいたので、高橋元種は夜を日についで十一月七日の夜、生葉郡の池田という処に着いた。そして、じっと潜伏して合戦が始まるのを待っていた。

 豊後勢(大友勢)は、この事を夢にも知らなかった。

 翌、十一月八日に八千余人の軍勢が、原鶴に到着して矢戦を始め、敵味方入り乱れて戦った。このような最中に豊後勢(大友軍)の中から、野上上野入道一閑と名乗る荒武者が、三尺五寸(116cm位)で白柄の長刀で、草を刈るように秋月勢を薙ぎ倒した。

 秋月方の軍兵は、この勢いに辟易して、三町ばかり後退した。そこに秋月方の武士・三奈木弥左衛門の子で弥平次という二十二歳の若武者が、秋月種実の前に進み出て、「それでは、野上の首を取って、味方の兵を安心させて戦を致させましょう」と云い、「自分も討たれるかも知れないので、最後の盃を頂戴致したい」と望んだ。武士に二言は無いので、止めても止めないだろうと、最後の盃をさそうと土器を取り寄せ、秋月種実自らが三奈木弥平次に二度酌をした。弥平次は大いに悦んで、三度の酌で盃を置いて、馬を引き寄せて打ち跨り、山の下に馳せ出た。

 秋月種実も弥平次を死なすのは惜しいと、木所(きど)玄蕃横内七郎左衛門曾我平右衛門を差添えた。弥平次は敵が近くないので、「秋月が士、三奈木弥兵次と云う者なり。高名したりと伺い給う野上殿に見参せん」と懸け向かった。

 それで、野上上野入道一閑が出合い、大長刀を以って山王の森を南北に馳廻り、弥平次と戦った。暫く勝負がつかなかったが、二人は騎乗したままで取っ組み合いとなり、両馬の間に二人とも落ちた。この時、三奈木に添っていた秋月の武士・木所、横内も下馬し、終に上野の首を取った。
 
是を見た豊後(大友軍)の大勢が、槍先を揃えて、三奈木弥平次を始め、木所(きど)玄蕃、横内七郎左衛門を討ち取った。

 その後は、敵味方入り乱れての戦闘となった。戦の最中に高橋元種の伏兵(秋月方)が池田の大きな竹薮の中から一斉に立ち上がり、豊後勢(大友軍)の背後より、囲いを作って進んで来た。豊後勢は前の秋月勢のみと戦えば良く、後ろは味方の国なので安心していたところに、不意に後ろから伏兵が起こったので、慌て騒いで山王の森長瀬方面に逃げ始めた。

 秋月、高橋、両家の軍勢は勝ちに乗って、囲いを作って敵を追った。豊後勢はと云えば、敵に追われて千年川(筑後川)の水に溺れ、死ぬ者が後を絶たなかった。 秋月方に討ち取られた首の数は七百五十であった。

 秋月軍は、原鶴に集結して勝鬨を挙げて、麻底良(までら)の城に引き上げた。

 豊後勢は、この戦で能士が多く討死にしたので、筑後国に在陣することも出来なくなり、皆、日田郡や玖珠郡まで、引き返した。

 これが、「原鶴の合戦」の顛末である。

 合戦の場所は−−−−−>合戦場「原鶴」