杷木町(はきまち)


 朝倉郡杷木町は、朝倉郡の東方に位置し、筑後川を底辺とした三角形に近い地形をしていて、古処山系の広蔵山、米山、麻氏良山などの山地が町域の大部分を占めている。平野部は少なく、これらの山々から流れる赤谷川など数条の川沿いの山間平地と筑後川が作り出した両筑平野始端部の平地にある農林業の町である。
 筑後川沿いにある「原鶴温泉」は県内でも有数の古い温泉場であり、特に夏季には鵜飼いが楽しめる温泉郷として知られている。

 杷木町は、昔は筑前国上座郡に属した。「和名抄」には上座郡の7つの郷名、即ち、杷伎(はき)郷、壬布(みぶ)郷、広瀬郷、○田(すだ)郷、長淵郷、何束(かづか)郷、三島郷が記載されているが、このうち杷伎郷が今の池田地区杷木に、壬布郷が志波(しわ)に当たると考えられている。杷伎郷は「杷伎庄」とも呼ばれ、大宰府観音寺の荘園で、古代駅路(豊後道)の杷伎駅が置かれていた所である。筑前国と豊後国の国境に位置しているばかりでなく、小石原を経て豊前国(筑豊)に通じている交通の要所であった。

 慶長5年(1600年)、関が原の合戦の功により、黒田長政が筑前国の領主となった。この時、長政の筆頭家老・栗山備後利安が志波の痲氏良城(左右良城・までらじょう)の城主に任ぜられ、上座郡志波以東1万8千3百石の領地を与えられた。これにより栗山備後、大膳の2代(30余年)に渡り治世が続いたが、寛永10年(1633年)、黒田家騒動で栗山大膳が南部盛岡藩(岩手県)に配流され、栗山氏の治世は終わった。大膳は土木・治水に優れた人物で、宝暦年間(1751年〜61年)に遠賀川から洞海湾に通じる堀川運河「大膳掘」の開削を行い、また、冷水峠(筑穂町)の開削を手掛けている。

 明治22年4月1日、町村制施行により、赤谷・松末・星丸・大山の4ヵ村が合併して松末村に、穂坂・林田・白木・池田の4ヵ村が合併して杷木村に、寒水(そうず)・古賀・若市・久喜宮の4ヵ村が合併して久喜宮村となり、志波村は一村そのままで、杷木町域は合わせて4ヵ村となった。久喜宮と志波は江戸時代には筑前二十一宿に数えられる宿場町として栄えた所であり、志波は左右良城の城下町としても賑わった所である。

 昭和14年4月17日、杷木村は町制を施行し杷木町となり、昭和26年4月1日に杷木町と志波村、久喜宮村、松末村の3ヵ村が合併して新しい杷木町が誕生した。そして、昭和30年3月、高木地区を分離して甘木市に編入し、現町域となった。杷木の町名は、古代の杷伎郷に合併町村全てが関係があったことから、その名をとって付けられたものである。

 杷木(杷伎)の語源は、侵食・風化などにより崩れ易くなっている川岸、崖地などを指す語の「ハキ、ハギ、ハクイ」に由来しており、杷木は崩壊地形を意味する地名と思われる。「杷木神社縁起」によると、天忍穂耳命(あめのおしほみみのみこと:天照大神の子で、○に○に杵命の父)が陰陽二つの馬杷(ばは)をもって日子の峰(彦山)に天降り、陽の馬杷を大己貴命(大国主命)に授け、「汝、これより南の国を豊かにせよ」と仰せられた。大己貴命は勅を奉じて早速豊後と筑前の境の山に来て、大きな檜の枝にその馬杷をかけ、そこに鎮座したので、その地を「杷の来た山」(杷木山)といっていたが、その山裾の道が二つに岐れていたので、何時の頃からか「杷岐」と呼ぶようになった。
 その後、安閑天皇申寅の年(534年)2月29日に村人がお宮を建て、杷岐を改め杷木大明神として祀ったのが、杷木神社の始まりであるという。

 馬杷とは、土を掻き均す農具のことであり、杷木大明神は農耕の神であって、江戸時代、上座郡上郷の19ヵ村の総鎮守耶社であった。2月29日の大祭に社前において、農具を売り出したのが、今に続いている「杷木市」の初めといわれている(「杷木町史」)。

 志波は、昔は「遠市(といち)の里」と呼ばれていたが、南北朝の頃、九州探題の一色範氏が「秋月備前守種雄」に滅ぼされた後、九州探題となった斯波(しば)左京太夫氏経が下向し、居住したことから斯波(志波)という村名になったという。その斯波氏は肥後の菊池氏に敗れ、遠市の里、痲氏良布山中に隠れ住んだという。

 また、原鶴の名の起こりについては、邪馬台国の統率下に巴利(はり)という国があったことが、「魏志倭人伝」に記載されているが、そのはずれの方が巴利尻であって、これが転訛してハラヅル(原鶴)になったという説がある。しかし、それを裏付ける確かな資料は無い(「杷木の昔ばなし」)。

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