弘安の役

第2次日本遠征


 

元軍の軍容

総司令官

征東行省右丞相

アラカン

 

アラカンの後任

アタハイ


東路軍

東路軍司令官

征東都元帥

忻都

東路軍副司令 征東都元帥 洪茶丘
高麗軍司令官 征東都元帥 金方慶
 

蒙漢軍=
(侍衛軍)
高麗軍=
水手=

15000人
(4000人)
10000人
17000人

軍船=

900艘

江南軍

江南軍司令官

征東行省右丞相

アラカン

江南軍副司令

征東都元帥

范文虎

蛮子軍指揮官   夏貴
 

蛮子軍=

100000人

戦艦=

3500艘

総軍戦員総数14万200人

歴史群像シリーズ【チンギス・ハーン】参考

1281年1月

フビライ、第二次日本遠征作戦発令する。

1281年5月3日

東路軍、合浦を出撃。
巨済島に錨を降ろす。

1281年5月21日

東路軍内高麗軍が対馬へ上陸。
在地武士を蹴散らし占領する。

1281年5月26日

東路軍、壱岐へ向かう途中、暴風により2、3艘が沈む。

1281年6月6日

東路軍主力、博多へ侵入し各所で上陸を試みるが撃退される。
志賀島、能古島周辺へ碇泊、日本軍の夜襲をうける。
日本軍は、当初の予定通りの配置につく。

香椎地区

大友頼泰(豊後)

箱崎地区

島津久経(薩摩)

博多地区

少弐経資(太宰府)、北条宗政(筑後守護)、秋月種家(筑前)

今津地区

島津(日向・大隈)

生の松原

安達盛宗(肥後)

1281年6月8日

東路軍、再び上陸を試みるが大友貞親軍の迎撃により退く(志賀島攻防戦)。

1281年6月9日

志賀島攻防戦に安達盛宗が率いる関東軍参戦、三度退かせる。

1281年6月13日

東路軍、博多湾を離れ壱岐へ退く。

1281年6月29日

日本軍、壱岐に駐屯する東路軍を急襲する。
少弐経資・資時父子、島津久経・長久兄弟などが参戦、少弐資時が戦死する。

1281年7月2日

日本軍、再び壱岐を急襲して東路軍を混乱させる。
松浦党、彼杵氏、千葉氏、高木氏、龍造寺氏らが攻撃した。
東路軍、江南軍との合流地点平戸へ移動する。
総大将アタハイ、緒将を集め作戦会議を開く。

1281年7月27日

東路・江南両軍、東へ移動する。

1281年閏7月1日

鷹島付近へ集結した元軍、暴風のため大きな被害を受ける。

1281年閏7月2日

鎌倉武士団、被害をうけた元軍の掃討作戦を開始し、松浦・御厨へ移動する。

1281年閏7月5日

日本軍の掃討作戦が本格化し、元軍は江南・合浦へ退却しする。