文永の役

第1次日本遠征


 

元軍の軍容

総司令官

征東都元帥

忻都

副司令官

征東都副元帥

洪茶丘

劉復享

高麗軍司令官

都督使

金方慶

 

蒙古軍=
高麗軍=
水手=

15000人
8000人
6700人

軍船=

900艘
歴史群像シリーズ【チンギス・ハーン】参考

1274年10月5日

元軍、対馬佐須浦へ上陸。
守護代・宗助国80余騎を率いて出陣。

1274年10月6日

宗助国、陣を構え元軍を迎え撃つが全滅し、小太郎・兵衛次郎太宰府へ行く。
息子・右馬次郎、養子・弥次郎、一族・右衛門三郎、越前五郎、甲斐六郎、流罪中の肥前御家人・口井勝三、源三郎兄弟、肥後の援軍・田井藤次郎、斉藤資定などが宗助国と共に戦死した。

1274年10月14日

元軍、壱岐西海岸に上陸。
守護代・平景隆100余騎を率い樋詰城前に陣をはる。
奮戦するも翌日陥落。
平景隆・一族共に自害。
郎党・宗三郎太宰府へ行く。

1274年10月17日

元軍、肥前鷹島へ上陸。
松浦党武士数百名を殺すがとどめを刺さず出発。

1274年10月19日

元軍、洪茶丘率いる別働隊・今津へ上陸。
監視隊を追い払い布陣する。
秋月氏及び松浦党を破り麁原山を占拠。
本隊の支援をする。

1274年10月20日

元軍、金方慶率いる高麗軍・佐原・赤坂へ上陸。
元軍本隊は箱崎・博多へ上陸。
太宰少弐経資、鎌倉・京都へ急使を派遣、九州の守護・地頭を博多湾に集結させ各地の守備につける。
総大将・少弐経資、前線司令官・少弐景資。

赤坂地区

菊池氏(武房)、詫磨氏、竹崎氏、白石氏、山田氏、秋月氏
粟屋氏、日田氏、松浦党

箱崎地区

大友氏、島津氏

博多地区

菊池氏(隆泰、康成)、赤星氏、西郷氏、葉室氏、難波氏
戸次氏、千葉氏、野田氏、光友氏、山代氏、石志氏
城氏、龍造寺氏、大村氏、有馬氏、高木氏、深堀氏
山鹿氏、紀井氏、臼杵氏、児玉氏
 

守護3家=
地頭・御家人31家=
合計=

各500人
各125人平均
約5375人
本土防衛戦史元寇参考

1274年10月20日

金方慶率いる高麗軍・百道原へ侵攻、菊池武房・詫磨頼秀軍を破る。
本隊・箱崎にて島津久経軍と、息の浜にて少弐景資軍と戦いこれを退ける。が、副司令官・劉復享が少弐景資のはなった矢により重傷をおう。
日本軍は博多・箱崎を放棄、太宰府へ引く。
日暮れにより元軍夜襲を恐れ船団へと帰還、作戦会議を開くき撤退が決定される。
金方慶のみ反対し抗戦を訴えるが総司令官・忻都がこれを却下する。
朝鮮へと帰還途中、大風雨に遭い船団は潰滅した。