ふるさとの「地名の由来」

甘木市(あまぎし)



  
(丸山公園の桜)

 甘木市は福岡県の略中央に位置し、北九州市・福岡市に次いで第3位の広さを持つ田園都市である。北部は古処山、屏山、馬見山が連なり、東部は鳥屋山、広蔵山、米山の山々が連なり、町域の60%は山林が占めている。小石原川(甘木川)と佐田川によって形成された沖積平地の南部地域は、縄文時代から人々が住み着き開けた所で、縄文、弥生、古墳、各時代の遺跡が多い。中でも、平塚川添遺跡は、5重(一部は6重)の環濠に囲まれた弥生時代後期の大集落遺跡で、約300の竪穴住居跡、100余棟の掘立柱建物跡、橋、物見台(楼観)、および●棺・石棺墓などが多数発見されており、弥生時代のクニの中心的集落(ムラ)の姿を良く残しているため、佐賀県の吉野ケ里遺跡に匹敵する重要な発見として社会の注目を集めた。

 「魏志倭人伝」に記載された邪馬台国が何処に有ったのかということは、古代史の四大謎の一つとして九州説、近畿説で論争が続いているが、「安本美典」氏は氏の著書「邪馬台国への道」で、邪馬台国「甘木・朝倉説」を唱え、邪馬台国が東遷して大和政権を成立させ、天照大神は女王・卑弥呼であると主張している。そして甘木市馬田の地名は邪馬台が変化したもの、大和は邪馬台の名を継承したものと、大変興味深い説を唱えておられる。

 甘木市は、古代郷名でみると、筑前国・夜須郡馬田郷(現、馬田地区)、賀美郷(現、秋月地区)、川島郷(現、甘木地区と菩提寺地区)、上座郡祖田郷(現、佐田地区)及び下座郡七郷全域を含む地域に当たる。下座郡七郷とは、馬田郷(現、小田地区)、立石郷(現、立石地区)、水城郷(現、蜷城地区)、美○郷(現、三奈木地区)、桑○郷(現、桑原地区)、城辺郷(現、福光付近)、青木郷(現、十文字・牛鶴地区)で、郡衛は桑原に置かれていた。

 また、甘木は古代官道(豊後道)の要衝として、近世は福岡と日田を結ぶ日田街道(朝倉街道)と、筑後から秋月を経由して豊前に至る秋月街道の交差する交通の要衝で、甘木・朝倉地区の中心地として栄えた所である。

 秋月地区は、中世には豪族・秋月氏の居城・秋月城の城下町として栄え、南北朝・戦国時代には諸大名の係争地として激しい攻防戦が展開された所。藩政時代は福岡藩支藩・秋月藩5万石の城下町として繁栄した。
 しかし、甘木地区は、交通の要地、商品流通の要地であったため、秋月藩成立後も飛び地の形で福岡藩とされていた。
 「筑前国続風土記」によると、甘木では毎月9日間市が立ち、筑前、筑後、肥前、肥後、豊前、豊後の6カ国から人が集まり交易が行われ、福岡市西区姪浜からも魚や塩などが沢山運ばれて商いが行なわれたようだ。

 明治4年7月、廃藩置県により秋月藩は秋月県になり、その年の11月14日に福岡県に統合され福岡県庁秋月出張所が置かれた。「秋月千軒」といわれて賑わいをみせていた秋月は、福岡県に統合されてから地方の中心的立場を失い次第に衰退していった。

 明治22年4月1日、町村制施行により、同市域では、上座郡高木村、下座郡三奈木村、蜷城(ひなしろ)村、福田村、夜須郡上秋月村、秋月村、安川村、甘木町、馬田村の1町8村が成立した。同年9月、福田村から分離した一木・頓田・古賀・堤・来春・柿原の6大字と蜷城村から分離した相窪が合併して立石村が成立した。また翌年、蜷城から屋永・牛鶴・桑原・田島・中島田の5大字が分離独立して、金川村が成立したし、甘木市域は1町10カ村になった。
 昭和29年4月1日、高木村を除く1町9カ村が合併して甘木市が誕生し、翌年3月10日、高木村を併合して、現市域になった。甘木市名は、中心地の甘木町が昔から住民に親しまれているということから、その名をとって付けられた。

 甘木という地名は、同市にある甘木山安長寺に因んだものと伝えられている。後醍醐天皇の御代、甘木遠江守安長という者が荘園管理のため、南都からこの地に移住してきた。疱瘡にかかった安長は兼ねて厚く信仰していた大和金剛山の矢田地蔵に祈願したところ全快したので、矢田地蔵尊を勧請し、一大○○を建立して甘木山安長寺と名付けた。この地蔵が霊験あらたかというので遠近の参拝者がひきもきらず門前町として賑わいを見せたという(「甘木雑記」)。
 しかし、これは逆であって、甘木遠江守安長という人物名も山号も地名から付けられたものであると考えられている(「甘木市史」)。

 甘木の市街地から小石川沿いに国道322号線を秋月に向かうと、約4km程の所に甘水(あもうず)という集落がある。木と水の一字違いで見誤り易いが、双方関連した地名と思われるものの、「甘」の意味するものが何であるかは不明である。八女郡広川町に甘木という地名がある。こちらの甘木は、海士来(あまき)、つまり海人族を呼ぶ「海人、海士、海女」に由来する地名といわれており、甘木市も海人に由来するのかも知れない。

 秋月という地名についても、この地に長く君臨した秋月氏から起こったと思われ易いが、秋月氏は建仁3年(1203年)、原田種雄が鎌倉幕府3代将軍・源頼家から筑前国夜須郡秋月荘を賜り、地名をとって秋月氏を名乗ったのである。これが秋月氏の始まりであり、秋月の地名はそれより古くからあったのである。秋月の語源は、高い所にある場所を示す語アゲ(上)・アキにあるのはないかと思われる。
 秋月の名は、明治9年10月に発生した「秋月の乱」で広く知られている。反乱軍(秋月党)は新政府鎮台軍に攻められて惨敗し、首謀者・今村百八郎はその年11月24日、山隈村(現、朝倉郡三輪町)の知人宅で捕らえられ斬罪となった。徴兵令、地租改正条例、廃刀令など明治新政府が打ち出す諸政策を不満とする士族の反乱は、明治7年の「佐賀の乱」、同9年の「神風連の乱」、「秋月の乱」、「萩の乱」と続発したが、政府の圧倒的な軍事力の前に何れも敢え無く潰え去った。