朝倉町(あさくらまち)

 朝倉郡朝倉町は、北部九州の内陸部に位置し、北東部から北部にかけては山地、南部は筑後川を境に浮羽郡と接する純農村地である。
 朝倉低山地を源とする桂川、荷原川(にないばるかわ)など数条の川が町内を貫通して筑後川に注いでいるが、これらの川とは別に、南部の田園の重要な水源となっている堀川用水が恵蘇の宿(えそのしゅく)の山田井堰から甘木市鵜ノ木まで通っている。山田井堰は大石井堰(浮羽郡浮羽町)、恵利井堰(浮羽郡田主丸町)と共に筑後川三大井堰に数えられ、1663年(寛文3年)に完成したものである。この堀川から揚水するため設けられている菱野(ひしの)の3連水車および三島(みしま)と久重(ひさしげ)の2連水車は、平成元年に「堀川用水路水車群」として国の史跡文化財に指定され、朝倉町観光の目玉の一つとなっている。
   

    
(菱野の3連水車)

 甘木・朝倉」地方は、古代から筑前国15郡の内の「夜須」・「上座」・「下座」の3郡からなっていた。『和名抄』に下座を下都安佐久良(しもつあさくら)、『延喜式』(註)に上座を上都安佐久良(かみつあさくら)と記している。夜須郡は現在の夜須町と三輪町に、下座郡は甘木市に、上座郡は朝倉町・杷木町・小石川村・宝珠山村に、略当たる。
 註:延喜式(えんぎしき)
   平安中期の律令の施行細則。五〇巻からなる。
   905年(延喜5)藤原時平らが醍醐天皇の命により編纂を始め、時平の死後、藤原忠平らにより927年完成。
   施行は967年。弘仁式・貞観式を踏まえて編まれたもので、後の律令政治の基本法となった。

 『日本書紀』によれば、その昔、この地方は豪族「羽白熊鳶」が支配していたが、仲哀天皇9年3月、神功皇后によって滅ぼされたという。鎌倉初期の建仁3年(1203年)、筑前国恰土郡にあった「原田種雄」が筑前国夜須郡秋月荘を賜って秋月城に移り、地名をとって「秋月氏」を名乗り、以来この地方を支配した。「豊臣秀吉」が九州平定後、秋月氏は日向(宮崎県)高鍋に転封され、「小早川隆景」の知行地となったが、慶長5年(1600年)に「黒田長政」が筑前国の大名となり、更に元和9年(1623年)に秋月藩5万石が成立し、秋月を中心に夜須・下座・上座の三郡の大部分が秋月藩領となった。

 明治29年4月1日、夜須・下座・上座の三郡が合併して朝倉郡となったが、下座・上座の両郡は元々は朝倉評(こおり・・・郡)一つを成していたものである。7世紀末期に上下に分割され、「カミツアサクラ」、「シモツアサクラ」となり、和銅6年(713年)、郡名を二字表記して下座・上座となったものと考えられている。明治29年に三郡合併したとき新郡名を朝倉郡としたのは、古代の郡名をとって命名されたものである。

 朝倉の語源については、山の陰で日の出が遅いので朝闇(あさくら)と称したとか、朝倉宮斎明天皇百済救援のため新羅を討伐せんとして筑紫に下ったときの行宮)が校倉造りだったので校倉が訛ったもの、或いは谷をクラともいうので、町内を流れる桂川の谷を浅谷(アサクラ)と称したなどの諸説がある。しかしこれらは今一つ説得力に欠けるようである。

 座という文字には、天皇の位を示す「高御座(たかみくら)」のように位などを意味するクラという訓がある。また古代には集落が東方に位置して目立つ山は、「神の朝の座」とされたといわれている。

 朝倉町東部の「麻氏良山(までらさん)」(295m)に連なる山並みを総称して「朝倉山」と称するが、朝倉宮の後背地の山で、かっては山上に朝倉社が鎮座していた。古代人が東方の山上に昇る太陽を崇めたであろうことは容易に想像され、朝倉の語源もこの「神の朝の座」からきていると思われる(「あさくら町の歴史ものがたり」)。

 明治22年4月1日、町村制施行により、山田・菱野・古毛の3ヵ村が合併して朝倉村が、須川・宮野・鳥集院・比良松の4ヵ村が合併して宮野村が、田中・多々連・長淵・上寺・入地の5ヵ村が合併して福成村が、石成・大庭の2ヵ村が合併して大庭村が成立した。

 明治42年6月福成村と大庭村が合併して大福村となった。

 昭和37年4月1日には、朝倉・宮野・大福の3ヵ村が合併して朝倉町が誕生した。
 新町名については、公募して審議した結果、「朝倉・木の丸殿(このまるでん)」や「朝倉の関」(朝倉宮警衛のために置かれたといわれているが、場所は不明)などの史跡があり、町民に馴染み深い「朝倉」の名称を尊重して名付けられたものである(「朝倉町史」)。

 朝倉宮は「木の丸殿」とも呼ばれるが、正式には「朝倉・橘広庭宮(たちばなひろにわのみや)」という。斉明天皇は、斉明7年(661年)、68歳の高齢をおして中大兄皇子らを率いて西征の途につき、伊予の熱田津(にぎたづ)の石場行宮を経て3月下旬、那大津(博多)に到着、磐瀬(いわせ)行宮に入られた。熱田津を出発するときに万葉歌人・額田王が詠んだ有名な歌がある。

  熱田津に船のりせむと月待てば 潮もかなひぬ今はこぎいでな」(「万葉集」巻一)

 斉明天皇(女帝)は、その5月、磐瀬行宮から朝倉宮に移られたが、朝倉宮を造営する際、朝倉社の木を切って使ったので祟りがあり、近侍の者たち多数が病死したり鬼火が現れて殿舎が壊れたりしたという。そして、7月24日に斉明天皇も崩御された。
 中大兄皇子が遺体を守って磐瀬宮に帰ったが、朝倉山の鬼が大笠を着て喪の儀を見ていたという怪奇な伝説がある。
 「秋の田のかり穂の庵の苔をあらみわが衣手は露にぬれつつ」(百人一首)という天智天皇の御歌は、朝倉宮から見える情景を詠んだものと云われているが、朝倉宮の所在地については明確ではない。

(恵蘇八幡宮)

 朝倉町内の恵蘇宿(えそのしゅく)には、上座郡の惣社・恵蘇八幡宮がある。また、恵蘇八幡宮の境内には「朝倉木乃丸殿・旧蹟碑」がある。