朝倉地区の史跡

 恵蘇八幡宮(木の丸公園)
 <現在地:朝倉地区山田>
 朝倉町の総社。宇佐八幡より勧請して応神天皇を祀る。
 西暦673年斉明・天智天皇を合祀、社の上に斉明天皇の殯の跡といわれる御陵山がある。
 山田井堰(筑後川三大井堰の一つ)
 <現在地:朝倉地区山田>
 1663年(寛文3年)、筑後川から水を引き、150ヘクタールの新田が開発された。
 1790年(寛政2年)、筑後川いっぱいに石堰を築造し、現在も670ヘクタールの水田を潤している。 
 隠家の森
 <現在地:朝倉地区恵蘇宿>
 樹齢1500年以上たち、目通りの幹の周りは18m、樹高は21mある。
 昔、昼朝倉の関所を通れぬ人が、夜になるのを隠れて待っていたので、この名前がついたといわれている。 
 剣塚古墳
 <現在地:朝倉地区菱野>
 菱野の大地上に立地する前方後円墳。
 三段築造方式で、全長70.7m、前方部幅51m、長さ約38m、後円部最大幅57m、高さは、後円部頂上8m、前方部7m。
 墳丘には、上中下三段にそれぞれ約1mの間隔をたもって、円筒埴輪が廻らされていたらしい。 (未調査) 
 虚空蔵山古墳群  山頂に近い虚空蔵11号古墳は、墳丘に葺石を持ち、内部主体は小型竪穴式石室で鉄剣、鉄斧、鉄矢尻を副葬する等、古代古墳の特徴を示していたが、柿園造成により消滅した。 
 橘廣庭宮跡(伝承)
 <現在地:朝倉地区山田>
 西暦661年斉明天皇が百済救援の為に朝倉に来られた時、皇居を造営し、ここを橘廣庭宮と名づけた。
 天皇は、滞在わずか75日で崩御された。
 当時の建物は、掘立柱で、藁か茅葺だったであろうといわれている。 

 医王山 南淋寺
 <現在地:朝倉地区宮野>
 準別格本山南淋寺は、真言宗大覚寺派に属し、伝教大師作 「薬師如来」 を本尊として祀っている。
 これは、国指定重要文化財であり、梵鐘は県指定の文化財である。
 宮地嶽神社
 <現在地:朝倉地区宮野>
 百済救援に来られた斉明天皇は神功皇后が宗像の宮地嶽で戦勝を祈願された故事にならい、この山上に天地の神々を祀り、戦勝を祈願した。
 祭神は、神功皇功・勝村大神・勝依大神。
 宮地嶽前方後円墳
 <現在地:朝倉地区宮野>
 丘陵状の宮地嶽山頂やや下りに造営された古式の前方後円墳。
 全長50m強、前方部幅20m、後援部30m、前方部長さ約15m。
 円筒埴輪の破片も発見されている。 
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 宮地嶽装飾古墳(&湯の隈古墳)
 <現在地:朝倉地区宮野>
 宮地嶽の中腹部に所在する径が15m、高さ4mの円墳。
 内部は、複式の横穴式石室であり前室・玄室は方形をし、玄室の奥壁及び玄門の左柱には、赤色を帯びた同心円がかすかに認められる。 
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 旧石井家  三つの屋根がコの字型に組み合った前谷型クド造り型式の民家。
 筑紫平野に多く見られる型式の中でも古い型式をしており、建築されて200年経過していると推測される。 
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 宮野神社
 <現在地:朝倉地区宮野>
 藤原氏の祖先の墓といわれ、天孫降臨の時天照大神に従った 「天児屋根命」 を祀っている。
 斉明天皇が、武運長久を祈願するため、藤原鎌足に命じて創建されたと伝えられている。 
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 舒翠館
 <現在地:朝倉地区比良松
 1885年(明治18年)甘木・朝倉地方ではじめて建設された公会堂。
 明治24年議会を解散、時の内務大臣品川弥次郎は、野党に対し選挙干渉をはじめた。
 舒翠館の講演会では、大乱闘がおきた。現在、比良松公民館として使用されている。 
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 堀川の水車群
 <現在地:朝倉地区・菱野、三島、久重>
 山田堰をつくり、岩盤をくりぬいて「堀川」に取水したが、菱野・古毛の一部では土地が高いため、およそ200年前自動回転式の重連水車を設置した。
 灌がい面積は、菱野三連水車13.5ヘクタール。
 三島二連水車10.5ヘクタール、久重二連水車11ヘクタールにも及ぶ。 
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 天皇山
 <現在地:朝倉地区・須川、高木神社裏山>
 黒いわ山といわれた山で、長慶天皇(98代)が葬られた後、このように呼ぶようになった。
 今から600年ほど前(楠木正成の頃)、南北に天皇が分かれ、長慶天皇は南朝方で当地にこられた時、一夜川(筑後川)の帆かけ舟の通る様子が大変気に入り、この地に死後葬るよう遺言を残し、葬られた。 
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 狐塚古墳
 <現在地:朝倉地区上の原>
 古墳時代後期(西暦470〜502年)後の古墳で、墳丘は、東西24m、南北22m、高さ3.6m。内部は、複室構造の横穴式石室で側壁には、大舟、人物、動物等の線刻画が描かれている。
 また、馬具、装身具、須恵器等の副葬品や出土遺物は、当時のこの地方の水準を超えるものであり、朝鮮半島にかかわりのある豪族の墓ではないかといわれている。 
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 桂の池と源太じいの墓  斉明天皇の頃、橘廣庭宮で、源太じいが女官に恋をしたときの悲恋物語(綾の鼓)の舞台となった池。
 近くの福成神社横には、源太じいの墓と伝えられる墓石がある。 
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 福成神社  景行天皇が九州遠征のおり、海上守護神である宗像三女神を祀りになったと伝えられ、町内では一番古い神社であり、後に斉明・天智両天皇も合祀されている。 
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 古賀百工の墓  山田井堰の大改修、新堀川の新設などを農民のため、あらゆる困難を克服して完成させ、堀川の恩人といわれている。 
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 稲守観音
 <現在地:朝倉地区余名持>
 約1400年前、豊後の国の朝日長者が、稲守観世音菩薩を祭った。
 長者の子が物を大切にしない人で、この家は年とともに落ちぶれていき、天正13年の長雨で長者の屋敷も観音蔵も筑後川に流されてしまい、観音蔵は現在地に留り、安置され、余名持区を見守っている。 
21
 太刀八幡宮
 <現在地:朝倉地区乙王丸>
 神功皇后は、熊襲や秋月の羽白熊鷲、筑後の土蜘蛛田油津姫などを打ち滅ぼし、大庭村の上野原に軍事を練り、兵器をとがせ、自分の太刀を奉納して、異国での勝利を天神地祇に祈願した。
 南北朝の頃、この古事にならってこの社に弓矢・太刀を奉納したと伝えられる。
 南側には古賀百工が奉納した子持ち鳥居がある。 
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 ナンジャモンジャの木
 <現在地:朝倉地区善光寺>
 戦国時代に焼け落ちた善光寺の灰を集めた所と伝えられる古塔塚(灰塚)。
 そこに生い茂っている大木。
 高さ12.6m、胸高幹囲4.3mの県下最大のタブの木。
 本当の名前がわからず、 「この木は何じゃろか」 と言ったところから、この名で呼ばれている。 
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 清水ヶ丘
 <現在地:朝倉地区石成>
 「ほしょ霜よ暁ののち不老石」の句碑のある丘。
 昔は清水が流れ、蛍がとび交う風向の秀れたところ。
 作者は後藤遊五(古賀四郎右ヱ門)という石成に庄屋で俳句をとおして、この地方の文化の向上につくした人である。 
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 勤皇志士の隠れ家
 <現在地:朝倉地区乙王丸>
 1850年(嘉永3年)から1858年(安政5年)にかけて西郷隆盛、僧・月照ら勤皇の志士が隠れ住んだと言われる乙王丸の庄屋星野茂三郎の家跡。
 月照を鹿児島に密送するため、西郷、武内五百都らは、変装して、余名持の筑後川岸辺から船で有明海へ下り、鹿児島へ着いたといわれている。 
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 蜷出池旧史跡  昔、恵蘇八幡宮祭礼の時、ここまで、神幸(お下り)して、この池の蜷(ゴヒナ)を供物にした。
 蜷祭(みなまつり)として、蜷出池より河蜷2つを取って土器のはしをめぐり、めぐりやんだ時、本殿に奉った。今は、この儀式はしていない。


史跡地図