筑前秋月と歴史浪漫


秋月の歴史
秋月氏の時代(1203年〜1588年)
西暦 年号 時代 主な秋月史
1203 建仁 3 鎌倉

 

 

 

鎌倉幕府二代将軍・源頼家は武田有義の謀反をいち早く鎌倉幕府に通報した功績により、恩賞として原田種雄(秋月氏の始祖に秋月荘を与える。種雄はここに移住し、姓を「秋月」と改める。

戦国時代の習わしとして、古処山の山頂に山城(古処山城)を築いたので(白山権現より1町西。これより1町ばかり西に泉流出)修験道は次第に衰退した。

宮園の垂裕神社付近(*甘木市)に杉本城を築き居館とする。
*秋月は1954年に朝倉郡の甘木町と秋月町の2町及び8村が合併し市制施行され甘木市の一部となった。
*現在も朝倉郡として残っているのは、次の4町2村。
  朝倉町、三輪町、夜須町、杷木町、小石原村、宝珠山村

1274 文永11 文永の役(元寇)が始まる。
1276 建治 2 元軍の再襲来に備え、博多湾岸の石塁構築を開始。秋月種頼(4代)
1281 弘安 4 弘安の役(元寇)に秋月種家(3代)は一族郎党2700人余を率いて博多の津に出陣し大いに戦って武勲をたてる

竹崎季長の「蒙古来襲絵詞」に(筑前国の御家人秋月の九郎種宗のひょうせん)という小舟が描かれている。

1338 延元 3 室町 多々良浜の敗戦
 多々良浜に菊池勢とともに足利尊氏を迎え討ったが、利あらず
秋月種貞(6代)は大宰府まで落ちのびたが、足利直義などに取り囲まれ、一族郎党20余人枕を並べて討ち死にした。
1359 正平14 その後、秋月種高(7代)は足利方の小弐頼尚と共に、宮方である菊池武光軍と筑後川を挟んで対陣する。
これを世に「
筑後川の戦い」といっている。
1368 応安 1 この頃になると、秋月氏は菊池氏をはじめ、周辺の武将とともに宮方につき、朝敵退治のため太宰府を進発する。

この時代の秋月氏は「昨日は足利、今日は宮方」と如何にも節操がないように受け止められるが、戦国の世の中の於いては、自衛保身のためには止むに止まれぬ行為であったに違いない。

1464 寛正 5 秋月種照(12代)は応仁の乱にて、西軍の「山名宗全」に従って戦った。
1477 文明 9 古処山城・杉本城をはじめ、領内の砦を修復、更に新砦を築く。

古処山城の前方左手に見える荒平城もこの時期に築かれたものである。(里城で、天正15年3月6日 豊臣秀吉はここに2泊したといい伝えられている)

1486 文明18 秋月種朝(13代)は鳴門山の谷奥に、種月山大竜禅寺を建立する。
現在、その寺の上に
秋月種時(14代)の墓が残っている。
1507 永正 4 秋月種朝は大友義継・菊池武重の軍を古処山下に誘い寄せ、これを撃退する。
1524 大永 4 秋月種時、大友義継と知略の和議を行い、益々兵備を厳にする。
1531 亨禄 4 秋月種時、古処山城の防備を固めつつある時、死去する。
1541 天文10 大内義隆中国地方においてますます勢威盛にとなり、明国との貿易によって、莫大な利益を得る。
1543 天文12 我が国の南端・種子島にポルトガル船が鉄砲を伝える。
1551 天文20 大内義隆が重臣の陶晴賢に攻められ大寧寺(長門市)にて、自刃する。
1555 弘治
元年
陶晴賢が毛利元就との厳島の戦いで敗れて、自害する。

大内氏亡き後、秋月氏は毛利氏と款を通じ、大友氏と抗争を続ける。

この頃キリスト教の布教活発となる。大友義鎮(宗麟)は豊後に来たポルトガルの宣教師を保護し、外国との貿易を盛にして巨万の富を得る。鉄砲や大砲の新兵器を大量に輸入する。

1557 弘治 3 秋月種方(15代)は大友義鎮ら二万の大軍と戦って、杉本城の居館、さらに古処山城をも奪われ、戦死する。
種方は子(種実、種冬、種信)の生命を僧高音奄ノ託し周防の毛利元就に頼らせる。
種実は、この時13才であったといわれる。(9才ともいわれている)
1567 永禄10 青年武将・秋月種実(16代)は、毛利元就の好意により、援軍3千をも得て、勇躍帰国の途につき、無事に柳ヶ浦(北九州大里)に上陸、一昼夜にして豊州路を駆け抜け、念願の古処山城を奪還する。

7月:大友氏宝満城(高橋鑑種)を攻撃する。
8月:大友軍二万余騎が秋月に押し寄せる。(秋月の合戦)
   秋月軍が夜討をかけ休松城総攻撃を開始、大友軍は筑後に後退する。休松の合戦
   熱望の秋月家再興が見事に結実する。
   坂田越後守・諸真政(坂田城主)首淵にて自刃する。

1575 天正 3 安土
桃山
竜造寺隆信、高橋鑑種、秋月種実が「打倒大友」の共同目標で友好を暖める。
1578 天正 6 大友氏が「耳川の合戦」で敗れる。
  これより種実近隣を奪って旧領を復し(荒平城、坂田城、嶽城、観音寺城、道場山城など)
  近くの砦を固め全盛時代を迎える。(筑前、筑後、豊後3ヶ国11郡、36万石を領す

柴田川の合戦

1579 天正 7 二日市の合戦
1580 天正 8 猪膝の合戦
1581 天正 9 原鶴の合戦、八木山の合戦、英彦山焼討事件
1582 天正10 石垣山の合戦
1584 天正12 有馬の合戦にて竜造寺隆信が最後を遂げる。
1586 天正14 7月:岩屋の合戦、高橋紹運が600の篭城兵と共に玉砕する。
8月:毛利勢が海を渡り、小倉・香春城を占拠(香春城の合戦)する。
   秋月勢・島津勢と共に、立花城を解き後退を開始する。
12月1日:秀吉九州征伐を正式に発令する。
      兵30万人分の糧食、馬3万頭分のそれぞれ1カ年分、その他合戦に必要な品々細引まで準備させる。
1587 天正15 1月:九州征討第一・二軍が出陣する。
3月:九州征討第三軍、秀吉出陣、海路にて九州に向かう。
   秋月種美の忠臣、恵利内蔵助暢尭が広島にて秀吉に謁見、偽りの降伏を申し出る。
     *秀吉は大人物であり、軍容も堂々たるもの。
       決して敵対すべきでない事を身をもって感じ、その旨を逐一報告し、血涙をもって和睦することを勧める。

       しかし、これを願い聞き入れられず、恵利内蔵助暢尭・妻子と共に鳴渡大岩の上で諫死する。
        (これを「腹切岩」と言い伝えて、現在も秋月に残っている。)

   秋月種実、種長(17代)の親子は、ついに豊臣秀吉に降伏する。
   降伏に際し、「家宝の茶入「楢柴の肩衝」および「国俊の刀」を捧げた。」と言い伝えられている

   戦に敗れた秋月親子は日向の国財部(現在宮崎県高鍋町)に転封される。
   秋月種雄以来385年間、17代に亙って続いた筑前の秋月氏は、かくて終止符をうつ。
1588 天正16 小早川隆景の所領となる。