筑前秋月と歴史浪漫

秋月藩(黒田家)

小藩興亡記

筑紫平野と筑豊地方の境にそびえる古処山。
その山すそに、麗しの里・秋月は静かに佇む。
山々に優しく守られた小さな城下町には、自治の喜び、駆け引きのおもしろさに魅了された男たちの夢とロマンが詰まっている。
しかし同時に、そこには小藩ならではのもろさと弱さがあった。
秋月という一つの藩の誕生から消滅までの物語と、その舞台である九州の小京都「秋月」の物語り。

小藩ならではの喜び、悲しみ…
 「この里、山林景色うるわしく、薪水の便よく、材木乏しからず。かつ、山中の土産多きこと、国中第一なり…」
 江戸時代の儒学者・貝原益軒(えきけん)は、著書『筑前国続風土記』の中で、愛妻・東軒(とうけん)の故郷、秋月の町の様子をこう表している。
 古処山の懐にひっそりと佇む城下町・秋月。鮮やかな紅葉に彩られた黒門、桜舞う杉の馬場、緑萌える古処の山々…四季の自然と歴史が解け合った艶やかな景観。その様は、九州の小京都とも称される。
 中世、秋月は鎌倉時代から豊臣秀吉の九州平定まで、約380年、古処山の山城を主城とする秋月氏の拠点として栄えた。
 江戸時代、この地を治めたのは秋月黒田家。福岡藩から独立して秋月へやって来た。秋月藩は成立した当初から、常に、福岡藩の動向を探っていた。その興亡の物語には、小藩ならではの喜び、悲しみ、そして苦しみがあった。
 
藩誕生に託した男たちの夢
 天正15年(1587)、九州制圧を狙う島津氏を討つために豊臣秀吉が九州入りし、平定。この戦いで秋月氏は島津方についていたため、日向高鍋に転封されてしまう。その後、筑前国は関ケ原の戦いで功績を上げた黒田家の領地となり、秋月もその一つに含まれていた。
 元和9年(1623)、黒田藩初代藩主・黒田長政が死亡。彼の遺言によって、秋月の5万石は三男・黒田長興(ながおき)に与えられた。
 しかし、二代藩主に着任した兄・黒田忠之は、秋月の独立を快く思わなかった。彼は今まで通り、秋月を福岡藩付属の小国としていたかったのだ。そこで、将軍に秋月独立を伝えるため江戸登城しようとした長興を差し止める。
 「独立をやめれば5万石を10万石にしてやる」と甘い言葉をささやく一方で、江戸までの要路に警戒の兵を出す福岡藩。それに、断固として反抗し策を練ったのが、長興とともに黒田家から秋月入りした家老・堀平右衛門(ほりへいえもん)。
 黒田長興とともに堀は、密かに秋月を出発し、夜闇に隠れ、丸木舟に釣竿、釣具という漁師の格好で警戒の目をくらませた。豊前小倉細川藩の助けもあり、無事警戒線を突破。寛永3年(1626)、長興は初めて将軍徳川秀忠に拝謁し、同11年(1634)には5万石の朱印状を与えられた。
 この時、藩主・黒田長興は14歳。秋月藩の独立を強く求めた張本人は、堀平右衛門だったのだ。秋月はもちろん5万石の小藩であるため、財政基盤は弱く、農民は常に風・水・虫害に悩まされた。独立し政治を動かすのは、相当の苦労が伴うことは容易に想像がつく。
 本藩(福岡藩)は言わば大企業。対して、秋月藩は中小企業。大企業の一上司であったら、将来は安定している。しかし、どんな小さな会社でも出世して、自分の手で治めたいという夢を抱いたのではないか。堀平右衛門も本藩の一家臣で終わるよりも、小藩の行政に魅力を感じたのだろう。秋月という小さな領土には、男たちの夢とロマンがいっぱいに詰まっていた。
 
努力が実を結び、秋月に春がやってきた
 秋月藩は誕生した。以前、秋月氏の館であった梅園の建物を修理して城を築き、周辺に城下町を作り上げた。
 もちろん藩主は、他の諸大名と同様に江戸に参勤した。参勤交代による江戸と秋月との二重生活、そして諸役の賦課は、秋月小藩の財政に大きな圧力となり迫る。
 財政窮乏…。これは、歴代藩主の頭を悩ませた大問題だった。
 果たして秋月藩は、どんな対策を立てたのであろうか。秋月藩246年の中で、一番財政が豊かだったのは宝暦〜天明期(1751〜1788)。時の指導者であった家老・渡辺典膳(てんぜん)の財テクは、安永元年(1772)に建白された「国計大則」で知ることができる。彼は、支出の各項目ごとに必要額を定め、支出をその枠内に制限。さらに臨時の予算を設けて、不意の支出に備え、一部を備蓄金として蓄えた。質素倹約を旨とし、家老の妻子は門外ではすべて帯付き綿服、食事の内容まで細かく指示するなど家臣の生活までにも口を出している。
 このお陰で、明和元年(1764)から天明3年(1783)の20年の間で2万金が蓄えられている。この備蓄金が、秋月の黄金時代を呼んだ。歴代家老たちの苦労が実を結び、秋月に『春』の時代がやってきたのだ。それは、八代藩主長舒(ながのぶ)の時代である。
 
秋月藩に舞い降りた若きヒーロー
 黒田長舒は、秋月藩が渇望した男だった。
 彼の先代、七代藩主・長堅(ながかた)は、6歳で藩主になり、16歳でこの世を去っている。この時、秋月は次の跡継ぎがいないという事態に陥った。絶好のチャンスを福岡藩が黙って見過ごすわけはない。事情を知り、秋月藩を廃する計画を立てるが、家老・渡辺典膳などが福岡藩の有力者に働きかけて、どうにか藩取り潰しの危機は免れた…。が、もちろんただでは済まなかった。福岡藩が幕府から任ぜられていた長崎警備役を代わりに務めなければならなくなった。
 そんな秋月藩に必要なのは、若くて強いヒーローの誕生だったのだ。
 長舒は明和2年(1765)、日向高鍋藩主・秋月種頴(たねひで)の二男に生まれる。本名は秋月幸三郎。秋月氏というと黒田の前まで秋月の地を治めていた名家。さらに秋月長舒は秋月藩四代・秋月長貞の曾孫に当たり、秋月・黒田家の血もひいていた。若いころから武将として高い評価を得ていた長舒は、まさしく、秋月の地を治めるべく生まれてきたような男。秋月藩は渡辺典膳が蓄えた莫大な金銀を使い、20歳になった彼を藩主として迎え入れた。
 
備蓄金が後ろ盾。長舒は心置きなく手腕を振るった
 名君としての血統と若さと英知を武器に、彼はさまざまな業績を達成。彼の善政は、小さな領土に広く浸透していった。
 当時、危機的な年貢減少に直面していた幕府や諸藩は、農民労働力の増大をはかるため、子の間引きを禁止した。長舒もまた、妊婦は庄屋に届けさせ、子育ての困難な家庭には養育米を与えた。彼が大事にしたのは、子どもだけではない。暇を見つけては領内を巡り、お年寄りに優しく声をかけた。80歳以上の人を招いて労をねぎらい、酒食を共にして贈物をしたという。誇れる藩主を前に、お年寄りたちはどんなに喜んだことだろう。
 藩の産業の奨励もした。現在も受け継がれる多くの秋月名産品を誕生させたのも、彼の功績によるものだ。葛、和紙、焼き物、製糸…。『筑前続風土記』には、当時50以上もの秋月の名産品が名を連ねている。
 全国で藩校が誕生する中、秋月藩には安永4年(1775)に学問所が設けられ、後に稽古館と呼ばれる藩校に拡大する。
 長舒の時代には、本藩より徂來(そらい)派の亀井南冥(なんめい)や京より山崎派の小川万次などいろいろな学派の学者が招かれ、教鞭を取っている。また、正式に亀井南冥に学んだ原古処(はらこしょ)が教授に就任した。向学心の強い長舒は、我が子を引き連れて、講義を受けていたという。
 このように彼が幾つもの事業に着手できるのは、渡辺典膳が残した備蓄金の後ろ盾があったからだ。時代の流れに乗っているときは、すべてがうまくゆくもの。心強い蓄えがあり、適切な計画があった。秋月の行政は、順調に進み、藩政の『春』を謳歌していた。
 
身に染みる小藩の悲哀
 しかし秋月の『春』も長くはなかった。
 九代藩主・長韶(ながつぐ)の時。家老、宮崎織部と渡辺帯刀が苦しい財政にも関わらず公金を湯水のように使ってしまったのだ。「渡辺崩れ」と呼ばれるこの失策で、藩の財政は建て直し不可能なほどの借財を背負ってしまう。しかも追い討ちのごとく、飢饉に見舞われてしまう。秋月藩は、もうどうにも首が回らなくなっていた。とうとう文化9年(1812)、福岡藩から秋月御用請持ちと呼ばれる者が派遣され、本藩の直接的な介入を受けるようになる。
 こうして、秋月藩の完全独立は、約190年で終止符が打たれた。
 希望を持って独立した秋月であったが、このとき小藩の悲哀を実感したことだろう。
 
時代についていけなかった秋月藩
 福岡藩直接介入という事態のまま、秋月は幕末を迎えた。
 「秋月は山に囲まれた密かな地。外との交流が少なかったため、心移りせず伝統を守り続けるという素朴で純朴な良さがある。しかしその反面、『井の中の蛙』になる傾向があったのではないか。
 新しい時代の幕開けに際して、この地の風土が秋月の人々の進歩を妨げた。
 幕末の日本は、西洋の新技術を貪欲なまでに吸収していた時代。秋月にも洋式装備の必要性を説いた藩士・臼井亘理がいた。
 しかし、出る杭は打たれる運命にある。「余計な思想を運び込む彼を除かねば、藩政改革は断行できない」。若い藩士らの手によって彼は殺され、新しい芽は摘まれてしまう。さらに廃藩置県の後、次々と新政策を押し付ける明治政府に対して、九州の各地で不満が爆発する。秋月でも、このままでは自分たちの身分がなくなると感じた者たちが立上がった。「秋月の乱」と呼ばれる反乱の参加者は255人にも及んだ。
 ところが、だ。口々に「攘夷国権論」を叫び、勇んで出陣した彼らだったが、その格好と言えば、甲冑で身を固め、大きな火縄銃を抱えているという始末。時代錯誤も甚だしい様相に、出兵した鎮台兵もさぞかし呆れたことだろう。
 
古処山の懐に開いた桃源郷
 こうして、秋月藩は消滅する。
 藩成立から明治2年の版籍奉還まで、十二代246年の間には、小藩としての数々の苦悩、悲哀があった。
 しかし、秋月からは、日本初、種痘を治療に取り入れた藩医緒方春朔(しゅんさく)や和算の発達に寄与した星野廓庭(かくてい)など多くの才能が飛び出し日本の舞台で活躍した。もちろん黒田長舒という英雄も誕生し、一時の栄華を楽しんだ。
 幕末・明治期には仇となった「変わることを拒む」秋月の風土。それは現在、画一化する日本の都市にあって、いつまでも秋月らしい情緒を留める町並みの保護という形で人々の心に受け継がれているのではないだろうか。
 古処山の懐に抱かれた桃源郷・秋月。豊かな自然と美しい町並みが、江戸の世の興亡記を語りかける。その優しい調べに、人々は魅了され、そしてまたこの地にやってくる―。

■色白な秋月美人、「葛」
 
 秋月長舒は富国のため特産品の開発・製造を奨励した。もちろん歴代藩主たちも、特産品作りに力を入れ、その中には現在まで作り続けられているものもある。
 風邪をひいたときによく飲む「葛湯」や漢方薬「葛根湯(かっこんとう)」など、葛は昔から薬用に食用に重宝されていた。葛粉には、イソフラボノイドという成分が含まれていて、それが解熱と筋肉や血管の緊張を和らげる働きがあるのだという。
 もともと秋月の山野には、葛の原料・寒根葛(かんねかずら)が自生していた。豊かな山林、澄んだ空気、清水、冬の寒さ…。秋月のすべての条件が、葛作りに適していたのだ。そこに、葛粉を純白に仕上げるべく努力した先人たちの苦労が加わった。各地の葛商店を訪ね歩き、数年の修行を経て……。
 こうして完成した秋月の葛は、一級品として将軍へも献上され、今も変わらずその名声は続いている。