秋月城崩壊

− 征服者(豊臣)側から見た筑前・秋月氏の終焉 −

天正十五年一月
 豊臣秀吉は安土城にて、九州遠征軍の陣容を発表。
 越後・上野・甲斐・信濃・駿河・遠江・三河・尾張・美濃・飛騨・越中・能登・加賀・越前・若狭・近江・伊勢・伊賀・大和・志摩・山城・丹波・丹後・紀伊・和泉・河内・摂津・淡路・播磨・但馬・因幡・備前・美作・伯耆・出雲・岩見・備中・備後・安芸・長門・周防・阿波・讃岐・土佐・伊予の四十余国の武将に軍役を割り当てた。


 総大将は豊臣秀吉、本軍十万の指揮は羽柴信秀、副将として蒲生氏郷・池田輝政・堀秀政、徳川竹千代の名代として本多忠勝・榊原康政が、真田昌幸の名代として幸村が、秀吉から指名されて本軍・馬廻衆に組み入れられ、秀吉を護衛することであった。
 秀吉嫌いを高言する徳川家の重臣二人を身近に置き、信頼しているとみせた秀吉特有の宣伝である。
 度量の広さを見せることで、二十五万の将兵は秀吉を信頼し、争うように勲功を競うであろう、と。

 別動隊十五万の大将は豊臣秀長、副将には毛利輝元・長曾我部元親・細川忠興、軍師として黒田官兵衛を指名。
 九鬼嘉隆・堀内氏善・村上武吉・村上通統らには、日向灘から薩摩・錦江湾に入らせ、島津家・本拠地の内城を攻撃するように命じる。

二月一日
 長門・周防・伊予から豊臣秀長軍の先遣隊として、細川忠興・生駒親正・長曾我部元親らの軍勢が、豊前・中津に上陸して、黒田官兵衛の軍勢三千人と合流。

 豊臣秀吉の命を受けた海賊衆は、二千艘余りの関船を周防に集結させ、織豊軍二十五万の兵馬の輸送に当たっている。
 石田三成・増田長盛・大谷吉継・小西行長らは、大量に買い付けた兵糧米・弾薬を、豊前・中津と筑前・博多に輸送。

三月一日
 博多と立花城に集結した豊臣の本隊七万五千人は、島津氏に加担した筑前・国人衆の城を各個撃破した後、豊臣軍七万人が秋月城を幾重にも取り囲んだ
 城主・秋月種実(この時の秋月方の大将は種実の嫡子・種長)は、大友宗麟の筑前支配に敵対し、毛利氏・島津氏に加担した反復極まり無い武将であった。

 素性定かでない秀吉に従わない、九州各地の国人衆を脅かす必要性を感じた羽柴信秀は、舶載砲十門で秋月城を砲撃した。
 
これは、豊臣秀吉から、名器「楢柴肩衝」を秋月種実から召し上げるように厳命を受けていたので、脅かしの砲撃でもあった。
 豊臣秀吉は「天下三肩衝」の内、既に新田・初花は手に入れており、残りは楢柴のみであった。


三月二十八日
 羽柴信秀は、秋月城の包囲を立花宗茂に委ね、織豊軍五万を率いて筑前国・高良山に布陣。


四月一日
 秀
吉の本隊二万五千が、秋月城の包囲に加わった同日深更、本多忠勝、榊原康政、真田幸村らが抜け駆けの夜討ちを秋月城に懸けた。
 秋月城から十町離れた周囲を取り囲まれてい秋月軍は、、織豊軍の「我責め」がないと安心していたので、真田忍衆と生駒忍衆を主力とする夜襲部隊に、不意をつかれ数百の死傷者を出した。
 本多忠勝と榊原康政は、二日未明には無事に引き上げた。

四月二日
 
豊臣秀吉は舶載砲十門に破裂弾を装填させ、秋月城・本丸を砲撃させた。
 半刻毎に十門の大砲から破裂弾が撃ち込まれた秋月城は、半ば崩れ落ち無残な姿となり、籠城勢の武将や老若男女の多くが死傷した。

四月四日
 秋月種実は、種長共々剃髪し、娘を人質に出し、黄金百枚、米二千石と「楢柴肩衝」を秀吉に献上して、降伏
 
秀吉は秋月城の破却を命じて、立花城に兵を戻す



六月十八日
 秀吉は九州陣における軍功を賞して、知行割を行った。

 筑前の内、宗像・鞍手・嘉穂・朝倉の四郡を小早川隆景に、糟屋・筑紫・糸島の三郡は織田家直轄地に、筑後の上四郡は秀吉・馬廻衆に、筑後の下四郡は立花宗茂に、筑後の一郡・肥前の一郡を筑紫広門に、肥前の四郡を龍造寺政家に、肥前・長崎を秀吉直轄地に、対馬・宗氏、肥前松浦氏、有馬氏、大村氏には旧領を安堵した。
 肥後の内、球磨・葦北・天草・八代・宇土・益城郡を佐々成政に、隈府・菊池・鹿本・玉名郡は秀吉直轄地に、豊前の内、遠賀・田川郡は織田家蔵入地に、宇佐・中津・下毛・上毛・京都・築城郡を黒田官兵衛に、豊後一国は大友義統に、志賀親次には秀吉直轄地から千石を、毛利輝元には小早川隆景の領地であった周防を与え,、秋月種実・種長 親子を日向・高鍋、高橋元種(秋月種実の弟)を日向・延岡に移封した。

  

 これが、征服者(豊臣)側から見た筑前・秋月氏と反豊臣・九州戦国大名の終焉であった。