休松の合戦
(1567年)


秋月家の危機

 永禄10年(1567年)、筑前国内で大友氏に反抗して蜂起した「高橋」、「秋月」、「筑紫」、「宗像」ら諸氏の、所謂、筑前攪乱は、毛利氏と結ぶ「高橋三河守鑑種」(旧姓:一万田氏)を首魁とする豊筑独立戦争に起因するもの。休松(やすみまつ)の合戦は、その先駆を成す前哨戦であった。

 秋月氏は鎌倉期以来、筑前の夜須郡秋月(現、福岡県朝倉市秋月)に住み、「原田氏」・「高橋氏」と並ぶ大蔵氏三豪族の一族である。
 大蔵氏は、漢室の末裔と称されるが、「記紀」(「古事記」、「日本書紀」)にも記載されている古来からの渡来民族で、帰化して、我が国の王朝に仕え、官物収納を司る「大蔵」の職にあった。
 一説には、備中大蔵谷(岡山県倉敷市)に居住したと言われ、大蔵の名は官名または居住地からとったものという。

 天慶4年(941年)、大蔵春実は伊予の藤原純友が西海で暴威を振るった、所謂「天慶の乱」で、小野好古らと鎮定に当たり、その功で九州(筑前)に所領を貰い、大宰府政庁の官人として北九州の防衛に当たった。後に、原田(筑紫郡)に居館を作り住んだので、「原田」の姓を名乗るように成ったと言われる。
 大蔵氏は、このように原田氏を本流として、「秋月」・「高橋」・「田尻」・「江上」・「三原」・「砥上」・「小金丸」などの諸氏を生じたが、この他にも同系の日田(大分県日田市)大蔵氏が有り、原田氏系の「種」に対し、日田大蔵氏系は「永」の一字を「通字」としている。

 戦国時代には在地領主として、「大内」・「大友」へと従属関係を変えた。
 秋月氏15代・秋月文種(種方とも言う)は、大内義隆の滅亡後、九州侵攻を企画する毛利元就に通じて挙兵したので、弘治3年(1557年)7月、当時九州最強の勢力を持っていた「大友義鎮(おおとも・よししげ)」(後の「宗麟」)は、配下の将「田原」・「田北」・「志賀」らに命じて秋月討伐の軍勢を差し向けた。
 秋月文種は、古処山(標高=862m、所在地=現、朝倉市野鳥)の本城(古処山城)に拠って防戦したが、衆募敵せず7月7日、遂に城は焼かれて、文種は自害、嫡子(長男)・秋月春種と家臣の多くは討ち死にした。
 この時、文種の子(次男)「種実(たねざね)」(当時14歳。一説には9歳だったとも言われている。)は、近臣に守られて城を脱出、毛利(元就)氏を頼って周防(山口県)に逃れた。


種実の復讐

 その後、毛利氏の庇護を受けて成長した秋月種実は、毛利元就の嫡子(長男)・隆元と義兄弟の約を結び、太刀一振りを贈られている(「毛利家文書」)。やがて、種実は旧臣達の努力によって、秋月の地を奪回し、古処山城を回復した。
 種実の帰城については、永禄2年(1559年)、同4年、同10年などの各説があるが、「大坪文書」などの資料から見て、永禄2年〜4年までの時期と推定されている。
 「秋月家譜」に、「毛利元就、兵3千を出して、これを援く」とあり、毛利氏の援助によって秋月への復帰が成功した。その後、種実は亡父・文種、亡兄・春種の復讐を誓って宿敵・大友氏への闘志を燃やすが、「休松の合戦」は、正にその復仇戦であった。

 種実のこの旗上げを側面から援助したのが、宝満城督の「高橋三河守鑑種」である。
 高橋鑑種は当時、九州最強の戦国大名・大友宗麟の武将として、筑後・高橋に在城していたが、永禄年間の初め、大友宗麟により御笠郡2千町を賜り、大宰府守備を命じられて着任、宝満山の城を本城として、九州の古都・大宰府の軍政両面を掌握していた。この高橋鑑種が数年後、主家・大友氏に反旗を翻すことになる。一般には、主君・大友宗麟が高橋鑑種の兄・一万田親実の妻を奪い、親実を殺害したことが原因と言われているが、高橋鑑種の反抗企画はそれ以前からあり、その事を証する文書などが残されている。「萩藩閥閲録」によれば、永禄5年(1562年)、既に毛利隆元(元就の長男)の説得に応じて、毛利氏の一味となっている。

 弘治3年(1557年)、大内氏後継の大内義長(大友宗麟の弟)を滅ぼした毛利元就は、大内氏の遺領・北九州を手中に収めるために、「高橋」・「秋月」・「筑紫」・「宗像」らの諸氏を味方に引き入れ、謀略を用いて大友氏支配の切り崩しを図る。

 永禄2年(1559年)、大友宗麟は筑前、豊前、肥前の守護職となり、本国の豊後を初め6ヵ国を掌握し、九州探題となって勢威を振った。

 その間、高橋鑑種は宝満城督として民政に意を注ぐと共に、次第に主家・大友氏への叛意を抱くようになる。鑑種は天満宮留守職に小鳥氏を任ずるなど、職権を以って公然と主家の意向に反する行動をとった。
 鑑種は、「秋月」・「筑紫」らの諸氏と密やかに連絡をとりながら挙兵の機会を狙っていた。一説には、秋月種実と父子の盟約を結んだとも云われるが、その後、天正年間に種実の子(弟とも言われている)・元種を養子に向かえている。

 この様な状況下にあって、秋月種実は毛利氏の支援を背景に、高橋鑑種に協力して挙兵に踏み切った。高橋鑑種側では、既に安楽寺天満宮も別当・小鳥居信元を初め、神官、寺僧たちや、近隣の諸士らが城内に入って防備を固めていた。
 彼らの行動は、大友のしつこくから逃れて毛利側につこうとする豊筑諸家の気勢を大いに高め、北九州内乱の起爆剤となった。

 かくて、秋月6千の軍勢は古処山城に拠り、大友軍との決戦に備えた。秋月種実以下の将兵は、結束して秋月の地を死守し、弘治以来の亡魂の恨みを晴らそうとしていた。戦雲、既に古処山下を覆い、人馬の動きあらしかった。
 大友軍の主将・戸次伯き守鑑連は、各将と協議し、吉岡、斎藤、志賀ら一万余の軍勢を宝満攻略のため、大宰府周辺に残し、臼杵鑑速、吉弘鑑理の両将と共に豊後、筑後の兵2万余を以って、秋月城下に攻め入らせた。

 戸次軍は古処山の前衛である休松の陣(安見ヶ城とも云う)を攻めて、秋月の守将・坂田越後を自刃させ、戸次鑑連はここに布陣して後備とした。また、吉弘、臼杵の両軍は小石原川を挟んで、秋月への関門に当たる道場山、観音岳に夫々布陣し、敵の本拠・古処山城へ攻撃態勢をとった。
 古処山(白山)は、宝満に劣らぬ天険で、屏山(標高=926m)、馬見山(978m)と共に東西に並列して、現在は「九州自然道」に組み込まれているが、柘植の原生林の有ることで知られている。山中は岩石が多く、滑り易い地層の急坂が続く。
 古処山頂には、白山権現を祀り、巨岩が○立して、北方に嘉穂郡、豊前方面が望まれ、南は筑後の穀倉地帯が広がっている。古処山城は、この西方100mの岩場を中心とした広場に有ったと云われ、水舟と呼ぶ水源がこの下方に有り、城兵の命を支えていた。
 この古処山城に有った搦手門(からめてもん)が、近世になって山麓に移され、現在は垂祐神社(秋月藩・藩祖・黒田長興を祀る)の石段上に堅牢な威容を見せて建っている「黒門」である。

 「永禄10年8月14日 巳の刻より軍始まりて 甘水、長谷山にて1日の中に7度の槍合せありしに 戸次鑑連7度ながら太刀打ちして よき武者を多数討ち取たり」(「九州軍記」)
 

 秋月近郊を流れる小石原川に沿った甘水、長谷山などの村落で、大友の主力・戸次軍と秋月勢との戦が一日に7度も展開され、主将・戸次鑑連の太刀を振っての勇戦振りを伝えている。この戦闘は「休松の合戦」の前哨戦であり、敗れた秋月種実は古処山城に引き篭もった。
 奮戦した戸次鑑連は、大友軍第一の勇将であり、この時、54歳。一方、種実は23歳の青年武将であった。
 緒戦で敗れた秋月種実は、急使を以って毛利氏に救援を請うた。


秋月の夜襲戦

 大友軍は持久戦を採り、城内の兵糧が尽きるのを待った。月が変わると大友軍の陣中に、「毛利の大軍が攻め寄せてくる」という噂が広まった。そのため、心ならずも従軍していた長野、城井、千手、麻生ら豊筑の諸将たちは、めいめい勝手な口実を作って、兵を纏めて自領へ引き揚げてしまった。
 この様な情勢の急変に対処するため、大友軍は一応、筑後川北岸の線まで後退することになった。

 永禄10年9月3日、大友諸軍の撤退を察知した秋月勢は、この機を逃さず4千の兵を以って夜襲を決行した。古処山から休松までの距離は約2里(8km)である。
 「9月3日の夜、秋月勢4千余人打て出、臼杵越中(鑑速)、吉弘左近(鑑理)が両陣に夜討をかけて突みだす。大軍かねてより引き取んとせし所に、不意の夜軍出来ければ、豊後勢以の外大崩して芥田、千手へ引もあり」(「筑前国続風土記」)とあり、秋月勢の夜襲を受けた吉弘、臼杵の両陣は忽ち混乱してパニック状態となり、川沿いを甘水、千手、下淵へと敗走し、遂に戸次鑑連が布陣する安見ヶ城へと雪崩れこんだ。このため、鑑連の陣形も乱れ、暗夜の中で敵来襲と間違えて同士打ちの醜態を演じた。
 「鑑連これを見て、いかに夜半なればとて、敵味方をしらぬ事やある」(「筑前国続風土記」)と怒って、味方の者たちに同士打ちを止めさせ、敗走の友軍を援け、迫撃してくる秋月勢と戦った。
 だが、地の理に長けた秋月勢の夜襲が功を奏し、大友の諸勢は各自バラバラの戦いを演じたため、討死する者が多く、一部は三奈木(現、朝倉市三奈木)方面に逃れたが、ここでも秋月兵の猛追を受けて横大(現、朝倉市横大)付近で討たれた。

<余談>
 近年の大分自動車道建設で、この近辺(牛鶴あたり)の工事を行なった際の話。
 工事の最中、夜になってこの辺りを通ると「3人の武者が追いかけて来る」という話が頻繁に出た。
 調べてみると、昔、戦で沢山の武士が死んだ場所だと分ったので、神主に御祓いを行なってもらったそうだ。
 この時(休松の合戦)に討ち取られた武者の魂が成仏出来ずに眠っていたのを、工事で掘り起してしまったのかも知れない。
 尚、お祓いの後は、3人の武者は成仏したのか、出なくなったそうだ。
 この大分自動車道は筑前の合戦地上を通り、この時に負けた大友軍の地元(豊後:大分)まで通じる高速道路。
 それにしても、何か因縁めいたものを感じます。3人の武者も豊後に帰りたかったのだろう。



 戸次鑑連は、全軍に後退を命じ、筑後・山隈(現、三井郡大刀洗町)方面に引き揚げさせた。
 秋月種実にとっては亡父・文種の弔合戦であり、宿敵・大友への怨念を、この休松の戦に賭け、総力を挙げての合戦であった。
 大友側はこの一戦で、400人以上の戦死者を出したが、特に主将・戸次鑑連の5人の弟が、この戦闘で一度に戦死し、戸次家中だけで50人余の犠牲者を出している。
 戸次鑑連は後の立花道雪であり、秋月への宿怨は、道雪の養子・立花宗茂や、その父・高橋鎮種(紹運)にまで、引き継ぐことになる。


宗麟、鑑連に弔意す

 大友宗麟は「休松の合戦」の五日後、弟5人を討死させた戸次鑑連に対し、次の長文の書状(「立花文書」)を送って、深甚の弔意を表すると共に、秋月への憤怒の情を述べている。
 以下は、大友宗麟書状(「立花文書」)の読み下し文である。

 
追て申し候。今度の合戦に別て粉骨を尽くされ、舎弟・中務少輔、同・兵部少輔、刑部少輔、隼人佐、右京亮、其の他家中の人等戦死の由承り候。鑑連御心痛推察せしめ候。
 就中、隼人佐こと、この節同陣あるべきの由(参戦の申し出があった)承り候条、雇われ申し候(戦闘参加を許された)処、結句用に立ち候(大友家のために尽くして死んだ)。不憫の儀候(可哀相でならない)。今にて入らざる儀に候と雖も、その砌煩りに仰留申す可き物をと、申事に候(その時、強く引き留めておけばよかった)。然りと雖も、鑑連恙無く候条(鑑連が無事であったから)。宗麟安堵、筆紙に尽くし難く候。
 いよいよ彼の子孫に至り諫を加えられ取り立てられ候者、如何程もこれあるべき条、今においては○○を散ぜられるべく候(戸次家の子孫に至るまで忠義の訓育が徹底して多くの忠臣を出したことは何よりも天晴なことである。)


と述べ、後段において、

 
さてさて、秋月振舞のこと、無念中々申すに及ばず候。宗麟鬱憤の儀○以って浅からず候(秋月に対する憤りは深い)。何様本望を遂げる可きこと、別儀あるべからず候(秋月討伐に全力を注いでもらいたい)。殊更筑後衆歴歴戦死の由に候。是叉○気深重に候(筑後衆(五條、三池氏ら)の中にも多くの戦死者が出た由、これまた、深い心痛である)。

と記している。

 戸次鑑連は戦後、休松西方2里(約8km)の山隈に布陣して、豊後との通道を確保し、毛利軍の侵攻に備えていた。
 秋月種実は「休松の合戦」の戦勝で、亡父の仇を報じると共に、反・大友方の豊筑諸氏に多くの勇気を与えることが出来た。
 現在、戸次陣のあった休松と云われる安見ヶ城の山上には何の遺構も無いが、北には秋月勢が拠った古処山が山裾を引いて碧空に聳えている。