10億円を拾いました。しかも現金でした。
 正確に10億と数えたわけではないけど、アタッシュケースの蓋の裏に10億円と書かれていたのでそうなのだろう。
 紙曰く「このお金はご自由にお使いください。真っ白なお金です」。
 たとえどれほどの酔狂だとしても、10億の現金を公園の隅っこにぽんと放置するのはありえない。なら落し物と考えるのが妥当だろう。でも、それだと真っ白なお金という記述を入れるのは矛盾がある。たとえばこれが黒服とサングラスがてんこもり集団の所有物だとしたら、東京湾の濁った色を濁った目で見ることだろう。やばい、やばすぎる。
 でももしかしたらそうじゃないかもしれない。そうなると、「じゃあ、この10億はいったい?」ということになる。誰にも、もちろんぼくにもそれはわからない。誰にもわからない10億円は、金額だけでなく、その存在だけですごく怖いものであった。
 とにもかくにも、アタッシュケースを引きずって我が家へと帰還。今日は両親共に留守であり、ここは一夜限りのぼくの城である。だから10億円があっても誰も気付かない。ぼくだけが知っているのだ。時計を見ると、午後の六時だった。10億円を部屋まで運んで、着替えて、10億円を担いでリビングに降りて、テレビの音を耳で拾いながら、10億円を観察した。
 紙のテープで括られている1万円札の束の数はいくつあるのか数えた。束のひとつにはいくら括られているのか、まずはそれをやった。100万円だった。
 そうなればあとはたやすいもので、ひいふうみ、ひいふうみ、ひいふうみ。77で数えるのをやめた。10億円といえば100万に1000をかけた数であるからして、となると。本当にこれが10億円だとすれば、1000を数えなければいけない。確認のために数時間を費やすのは正直いやなので、「たぶん10億」で手を打つことにする。たとえ10億じゃなくてもこの額は充分を充分に超えているので、不満はない。
 しかしその不満は「使う」ことを前提にすることにより発生するマイナスで、それが持続するか消滅するかはぼくの意思により決定する。
 10億円と言われれば大金だとは思うが実感が湧かない。こうして目の前にあるとしても、だ。これが十数万円、オマケして数百万円ならば転がりまくっただろうが、億という単語は馴染みがないので、どう表現すればいいのかがわからない。そう考えてみると、たとえどう使ってもいいとある物でも使えなくなってしまう。八方塞に四面楚歌も加えよう。
 ここで気持ちを切り替えて、10億円があれば何が出来るか考えることにした。なにせ相手は10億であり、100円10円ではない。某うまい棒なら1億個も買えるのだ。置き場所に困るため実際には買わないし、健康にもよろしくはないので食べもしない。ようはスケールの問題である。でもここで10円の駄菓子を喩えに出すあたり、僕という人間の狭さが窺えるわけで。
 マゾっ気はないが自虐をしてしまいちょっとだけ傷ついてから、今度は大きいことを考える。何せ10億、思いつくことは片っ端から出来るに違いない。
 しかし考えてみると、何をしていいかわからない、思いつかない、想像できない。こういう金額に触れるどころか見る機会がなかったわけで、そういった場面にいざ突入すると、混乱の極みだ。
 うーむ。唸ってみた。なんにもならなかった。
 結局のところ、ぼくに出来ることはなかった。10億円あろうとも、僕はなんにも出来ないのだ。分相応という言葉があるが、その意味を深い場所まで知った思いである。
 あ。
 しかし、ぼくは思いつく。なけなしの脳細胞を使って、ひとつだけ出来ることにぶち当たった。でも今日はもう遅いので、明日にしよう。
 なるべく目立たない場所へ、なるべく誰にも見られずに、アタッシュケースを抱えて走れ。そしてぼくは書き記すのだ。
『この10億円はどんなことに使っても結構です。潔癖症と呼んでもいいくらいに真っ白なお金です。』