「うー」
 僕の傍らで唸っているのは猫でも犬でもなく、円条はるかという女の人である。ただしその根源は非難ではなく、肉体的な痛み。僕を睨んでいるのは八つ当たりという意味合いが近い。
「睨まれても困ります、だいたいあれは先生の自業自得ですよ」
 ここで甘やかすのはよくない。まるで子供に言い聞かせる親の気分だが、その子供が学校の先生と言うのは世間的にどうだろう。かなり日本は危ないのではなかろうか。どうする、沈みゆく経済大国(経済面でも社会面でも)。
 一介の中学生が自国の明日を憂い、考えたとしてそれが何になるのか。冷静になると日本の未来像は凍って砕けて消えていった。それは果たして幻想か、現実のものとなるのか。がんばれ、政治家や政治屋の面々。協力は出来ないけど、応援は出来ます。
 ふれーふれー、ふれーふれー。
 午前七時。僕の右手の先っちょから胸の半分あたりまでの幅を持つワイドテレビの中で、綺麗な女の人が笑いながら降水確率は80%となっていますと言った。
 4/5は大体そうなるという確信にも近い確信を数値化したもの。傘を持っていないことを悔やみはしなかったが、制服が濡れることは悔やんだ。
 なんとなく窓を開けてみる。
 ふれーふれー、ふれーふれー。
 それはエールではなかったかもしれない。今日は一日中雨という悪寒と予感。僕は今度こそ傘を持っていないことを悔やもうとしたけど、やっぱりそれよりも制服が濡れることをなによりも嫌だと思った。
 雨の色は限りなく透明で、でもその向こう側の景色はなにひとつ見えない。
「頭いたいー、死んじゃうー」
 後ろで情緒を分子レベルまでぶち壊す現実が追いかけてくる。逃げられないと思うのと、捕まったのはほぼ同時。
 ふれーふれー、ふれーふれー。
 それはきっと誰かの雨乞い。灰色を願った考える葦の仕業。パスカルは、何も言わずに消えていく。フェードアウト。















「というわけで、わたしは今日風邪ということで学校をお休みしまーす」
 神を殺した人間は頭痛に負けた。一升瓶は栓をされて、中にあるのは匂いだけ。その匂いだけできっと人は駄目になっていく。
 傘を持っていないことと、通学鞄を持っていないことを、僕はいっぺんに悔やむ。上辺だけでもそうするべきだと思ったからだ。そうすると、窓の外でカエルが鳴いている気がした。げこげこ。僕も真似をして、げこげこと言ってみた。
 ひどく似ていない。僕は打ちのめされる。
 今度は紫陽花の真似をしようとしたら、先生が真顔になって僕の真横に体育座りで座り込む。
「あと一ヶ月すると、夏なんだよねー」
 暢気な声で先生は言った。僕は紫陽花の声で返そうと思ったけど、紫陽花の鳴き声に窮して、普通にそうですね、そう返した。
 ちらちらと僕の方を一瞥してはそっぽを向いて、一瞥してはそっぽを向いて、その繰り返し。
 午前七時半。綺麗な女の人はいなくなって、メガネをかけた中年の男の人が円高ドル安をしきりに繰り返していた。
「ね、直人くん」
「はい?」
 円高ドル安は社会であり、今日の一時間目は社会から始まる。鞄を取りに行きたいが、制服が濡れるのはナメクジを素手で握り潰すくらい、勘弁してもらいたかった。どうしようと考えていると、先生はまた僕の名前を呼んだ。
「今日は直人くんも休んでくれたりはしないかな?」
「休みません」
 カール・ルイスよりも速く僕は答える。頭が痛いのは先生であり僕ではなく、理由は先生にはあるが僕にはない。自業自得がもっとも似合うのは先生であり僕ではなく、鞄と傘があるのは先生であり僕ではない。世界は理不尽と不可解で彩られる。
「えー、けちー」
「けちとは節約、つまり美徳。この場合、サボタージュという甘い誘惑に傾倒しそうになる弱い心に割く暇を節約すると言うこと。つまり先生は僕を誉めているということですね」
 ありがとー、ありがとー。
 世界は好意的解釈と嫌悪的解釈で満ち溢れている。矛盾で心はいっぱいだ。
 テレビは止まることなく、玉突き事故の直後を撮影した映像をニュースキャスターのセリフと一緒に世界に流す。先生は真横にいて、体育座りはいつのまにか正座になっていた。正座は美徳ということを僕は知っている。
 足の痺れは副産物として、しばらくはとり憑いて離れない。美徳によって生まれたものは生産性を持たないこともある。
「ねーねー、直人くんてばー」
 先生は僕へとしなだれてくる。無論、そんなものは通用しないはずであった。
 白のブラウス、白いブラウス、安物の白いブラウス。よくよく考えると、そうである。先生の服装は昨日と変わらない。上着を着用していないというのが唯一の変化。タイトスカートから伸びる、長く細く肉感的なふたつの脚が僕の中に侵入するのがわかった。
 入ってくる異物の感触を、僕は何故か心地いいものだと思っていた。
 左の二の腕に押し付けられるふくらみを意識せざるをえなくなってくる。先生の顔はいつもと変わらない、平常。
 最悪だ、最高だ。ふたつの間でせめぎ合い。
 僕は、のこったのこった、いつのまにか呟いていた。背筋がぴんと張り詰めた。
 カエルの声はいつからか二重三重になっている。でも、紫陽花は鳴かずにいたらしい。なんでだろう?
 その疑問は紐解くものではないと、僕は思った。世界は不思議に充ちている。















 哲学的思考に逃げていてもいつかは足首を掴まれて、僕たちは得体のしれない沼に自分から入っていく。望んだわけでもないのに、僕たちはその沼を愛してしまうのだ。
 鼻唄が僕の鼓膜を容赦せずに劈く。でも、痛いのは鼓膜じゃなくて、良心。
 周到な策戦に敗北を喫し、僕は電話を手にとって、ありもしないコードを指に絡めながら、風邪の延長ですと言った。担任は肺炎を心配したが、平気ですよ、そう良心に待針を刺しながら返した。地獄に落ちてしまえと僕は自分を呪う。
 それに引き換え、先生はえらく機嫌がいい。さっきまでビートルズのHey Judeだった鼻唄は、カーペンターズのTOP OF THE WORLDになっていた。
「先生、洋楽が好きなんだ?」
「あ、判るんだ」
 そうなんだよね、好きなんだよねー。先生は笑っていた。やっぱり、ね、が多い。
 最近判ったことだが、先生は嬉しかったり楽しかったりする時は、「ね」が語尾につくことが多くなる。さながらそれは、小さな女の子が友達に、ねー? と言って賛同を得る場合のような。きっとその子と友達は仲がいい。
 午前八時半。テレビはニュージャージーに舞台を移し、二本足で歩く犬の姿を数多のテレビカメラが躍起になって撮影していた。その群集を、さらにひとつのカメラが捉えていた。
「邦楽も好きだけどね、洋楽も捨てたもんじゃないよ君ぃ」
 ふっふっふ。先生はどこか自慢げに笑う。きっと邦楽よりも洋楽の方が好きな人間もいるだろうし、二本足の犬だって洋楽が好きに違いない。だからそこは別に自慢するところじゃない気もする。
 でもそれを言ってしまうと先生はまた拗ねてしまうのだろうから、僕は言わずにその言葉を咀嚼した。唾の味がする。
「僕そんなに詳しくないんですよね。ビートルズはジャン・レノでカーペンターズはカレン・カーペンターでしたっけ」
 ジョン・レノン。ジャン・レノは銃を撃ったけど、ジョン・レノンは撃たれちゃったんだよね。残念だよね。
 自分の知識にないことを言う時は、周りの反応をおっかなびっくり確かめながら言おう。間違った知識は時として暴発する。
「えっへん」
 先生は今度は得意気に笑う。周囲が知らないことを自分だけが知っているというのは無性に嬉しかったり、時として怖かったりする。この場合は前者。
 反対に僕が知っていて先生が知らなそうなことを、脳を捻って考えた。
 そして何も思いつかない辺り、僕と言う人間の限界がありありとわかる。とほほと呟いて、三秒前から背中に張り付いている背後霊の両腕に触れた。
 すると背後霊は歌うのをやめる。
「幸せだねえ」
 思わずゴホゴホと噴き出してしまった。どうしたの? 先生は顔を傾げる。
「いやいや、先生は凄いなぁと思っただけですので」
 これは本心。どんな障害も壁も溝も円条はるかを阻むことは出来ないのだ。天然素材、ここにあり。
「思うんだけどね、直人くんってちょっと淡白だよね」
「いきなりなんですか」
 回していた両腕をするりと解いて、今度は思いっきり体重をかけてくる。先生は軽い部類に入ると思うけども、ちょっとだけバランスを崩した。前のめりになる。
「ほら、こんなことしても何も言わないしー」
 それは単に事態を把握できていないことが原因だと思われる。僕を悩ます先生の立ち振る舞いと、背中で潰れる罪作りなオブジェ。
 オブジェはふたつあって、どちらも先手であり、後手でもある。二本足の犬はいなくなって、ドラマの再放送になっていた。義理の兄と妹の恋愛をライトに描いた作品と、クラスの女子が熱心に語っていた記憶がある。
 なんだか他人事とは思えないその状況を、僕は他人事のように見ている。先生のことは、意識の外の外にある原生林においてけぼりにして、僕はそれを見た。
 第六話まで話は進んでいた。母子家庭の男の子と、父子家庭の女の子がある日突然兄妹になるのが大まかな設定である。あとはきれいさっぱりとした展開でラストまで昇りつめていくのだが、リアリティが一切ないのがネックだと、放映当時の僕は思っていた。
 当時はまさか自分がこんな立場になるとは思っていなかった。そういえば、凛が熱心にこれを見ていたような気がしないでもない。その頃僕は十三歳だったはずで、慣れない制服を毎日透き通った泥に塗していた。その汚れの分だけ僕は、この二年間で色を失くしていったのだろう。
 雑念、邪念、無念。入り混じるだけ入り混じって、踊る。オクラホマミキサーにも見えるし、コサックダンスにも見える。とにかく、踊る。
 先生は踊れますか? なんとなく気になって訊いてみると、いくばくかの沈黙の後に小声で阿波踊りと返ってきた。
 頭痛もどこへやら、先生は僕の顔に頬擦りする。阿波踊りを僕は踊れないけど、こうやって先生の好きにさせることはできる。
「やっぱり淡白だー」
 不満を受け止めることもできるわけで。僕は先生の頭を、左の掌で撫ぜてみる。柔らかな手触りを堪能してから、僕はいいきもち、と言った。
「……ずるいねー、キミは」
 はて、と今度は僕が顔を傾げる。
「なんでそう思ったのかはわかりませんけど、僕はずるいですよ、基本的に」
「ううん、そうじゃなくてねー。なんというかねー」
 唸るティーチャー。困った時も先生は、ねー、を多用することが判明した。困った時も嬉しい時も、いつでも、ねーは彼女の中にある。要するに、しっかりと見据えろと言うことだろう。
「阿波踊りは踊れませんけど、こんな風に傍にいることは出来ますよね」
「……はあ、やっぱりずるいねー」
 先生は更なる密着を要求するかのごとく、力を篭めて僕を握り締めてきた。僕はちょっとだけ息苦しさを覚えながら、唇を合わせる兄と妹の影になりたいと思っていた。
 でも、その願望はドラマの終了と共に原生林へと埋め立てられていく。
「あ」
 声が漏れた。僕と先生の声が重なった。自然に離れて、僕たちは窓を開ける。紫陽花の声が聞こえたような気がして、でもそれを僕は真似ることは出来なかった。げこげこ。カエルが笑った。
 太陽が雲の切れ目からこちらを見て、ざまあみろと声を荒げて叫んでいた。















 危険が伴うことはできれば避けたいというのが、ほとんどの人間に共通して存在する思いであることは間違いないと思う。
 くわえて今日は学校をおサボタージュしたのであり、後ろめたい気分が競走馬よりも速く追ってきている。ギャンブルは、お金に余裕がある時に、そしてご利用は計画的に。
「いいですか、おとなしくしてないとあとで酷いですよ」
「わたし子供じゃないから平気だよ、きっと、たぶん、おそらく」
 断定ではないところに何かしらの虚偽を感じる。問い詰めたいところだけど、時間が時間。腹の虫は百獣の王をも威嚇できる唸り声でたいそう不機嫌でいらっしゃる。午後一時はお昼の時間、しかし円条家には食料どころか備蓄もなかった。ジーザス。
 先生曰く、わたしが行って生徒指導の先生がいたらやばいらしい。僕が行くのは許されるんですかと訊ねると、糸目になって狸寝入りをしてくださりやがりました。僕は隠密行動はできないけども逃げることはできるので、適任なのだ。
「まあそれはいいとして」
 制服で真昼間に繁華街にいるのはどうも場違いな気がしてならない。いつ公僕に職質されるかと言ういらんスリルが満点であり、なおかつ歩くワイドショーの呼び名を欲しい侭にする主婦軍団の視線を複数、先程から感じている。視線で死にそうな哀れな中学生たる僕は、とりあえずスーパーに向かうことにしたのであった。歩幅は50センチにして。















「というわけでアポなしで円条家にやって来たあたしです、ぶい」
「誰に説明してるの? 凛ちゃんは」
「空に」
「空かー、なら仕方ないね」
 何がだろうかとは思ったけどつっこまないことにした。にこにこしながら茶を啜る先生を一回見て、あたしはすぅーと息を吸う。
「突然ですが、テストです、先生」
「え? てすと?」
 混乱する先生には構わず、突き進む。
「あるところに男の子と女の子がいます。男の子はごく普通に育ち、女の子は少し特殊な環境で育ちました。男の子はすぐに人を信用し、女の子は逆にまったく人を信じません。もしあなたが男の子なら、女の子をどうしたいですか?」
 言い終えると、先生は腕を組んで唸りだした。あたしはただ、待つだけ。それから、またしばらくすると先生はようやく動いた。
「全部を信じなくてもいいから、自分だけは信じさせる、かな」
 言った後で先生は顔を赤らめて、なにやら床を転がり始めた。ぶつぶつと呟きながらのた打ち回るその光景は、まさにシュールの一言に尽きる。
「ところで凛ちゃん、君も学校オサボリなのかな? ふりょーめー」
「人の弱そうなところに付け込むことで自分の羞恥心を誤魔化そうとする汚い大人である先生であると直人に報告しておきます」
「ああ、それだけは、それだけは」
 圧勝。
「まあ、よしとしましょう。ギリで合格です」
「ど、どーも。何に合格したのかはわからないけど」
「今から説明します」
 淡々と用件だけを済ましていき、あたしは最後の引金に指をかけた。発射すれば二度と戻らない弾丸を発射するために。
「直人の歪みについて」