「先生が帰るまで戻らなさそうだったから、凛の分のご飯はないんだけど」
「外で済ませてきたから」
「そ、そうですか。ところで、できるだけ穏便に」
「あたしは直人みたいに愚直で馬鹿じゃないから、大丈夫」
「ぐさり」
僕の心にずきずきする痛みを残留させて、我が妹は、いつものようにリビングへと入っていった。
「うう、胃潰瘍できなけりゃいいけど……」
父さん、母さん。息子は、挫けそうです――
杞憂に終わればいいことはたくさんある。
たとえばそれは中間テストの結果への不安、たとえばそれは自分を好きだという女の子と女の人が同じ室内にいること。
僕にあてはまるのは、悲しいことに両方である。
十五歳には少々辛い現実がこのところ連続して襲ってくるのは、因果応報なのか、神様の気まぐれか。
どちらにしても、事態の進展は犠牲を伴わないといけないっぽい。おもに僕の健康を。
「……」
改善を目的とした奥義は僕にはない。でも凛にはある。数回しか見たことがないそれを僕は営業スマイルと呼ぶ。
まんまなのだが、それ以外に相応しい呼称が思いつかない。
とにかく、にこにこしていた。徹底的に、徹頭徹尾、満面の笑顔。究極の笑顔とか言っても過言ではない。
でも、すべては表裏一体。笑顔の裏にはこんにちわ威圧感。見えない壁に押し付けられている感覚(精神的に)。
胃が、僕の、健康が。危険が危ない。
錯綜し煩雑して、混乱していく。落ち着け、こんな時に落ち着かないでいつ落ち着くというのか。
「な……つ、月代くん。なんでそんなに忙しないのかわからないけど、そういう時はほら、深呼吸」
先生が僕の名前を言おうとして取り繕い、平静を装う。しかし凛は僕たちの関係を知っている。そう考えると、急に、先生が滑稽に見えてきた。
「直人」
出かかった笑いを遮る形で、凛がはっきりと僕の名前を呼んだ。
「ちょっと出てて」
逆らうことは許されない、妹さまの威圧感。当然、僕は「はい」と頷いて、リビングを出た。
二人きりになってすぐに、妹の凛ちゃんからかいつまんだ説明を聞かされた。
「えーと、つまり。全部?」
「はい、全部」
それは、つまり。わたしと直人君のことを知っているというわけで。七歳差はやっぱりあれかなーとか思いながら、わたしは一気に沸点に達した。
「えええええええええ!」
わたし、大絶叫。近所迷惑を微塵も考えない叫び。
錯乱する頭の中で、必死に情報を整理してみる。
「つまりそれは、わたしと直人くんがらぶーな関係であることをおはようからおやすみなさいまであなたの暮らしを見つめる日立の提供でお送りしました?」
「とりあえず待ちますから、そのぐるぐる思考を落ち着けてください」
ぐるぐる思考ってなんだろうと思いながら、深呼吸をした。きっと考えが回りすぎてバターになってしまうことだろうと結論付け、深呼吸をした。
「大丈夫ですか?」
「うん、たぶんもう平気」
なんとか持ち直したのはいいけども、これはけっこう由々しき事態なのかもしれない。見るからに凛ちゃんは真面目な子。告げ口されたらいやもう、困っちゃうわけで。
「言いませんよ、誰にも」
わたしの心配をよそに、凛ちゃんは笑ってそう言った。その笑みを見て、わたしは背筋にざらつきを覚える。
どこかで見た――違う。これはまるでわたし。一週間ほど前のわたしは、きっとこうだった。直人くんがわたしを掬い上げたのも、身近に同属がいたからなのかもしれない。
ざらつきはどこかに消えた。はっとなって、現実を見る。凛ちゃんはいつのまにか無表情になっていた。
きっと、この無表情が彼女の真実のひとつ。わたしがそうであったように、……そうであるように。
「それで早速ですけど先生にひとつ言っておくのですが、解釈はそちらに全権委任します」
「ん、なに?」
改まった口調で、凛ちゃんは無表情のままに言った。
「あたしは直人が好きなんです」
「……」
月代直人、十五歳。成績優秀、外見はかっこいいと言うよりかわいい。人気者。
その妹(義理かどうかは判らない)である村上凛、十四歳。
ふたりは兄妹。世間の目が、世間体を、羊が一匹二匹三匹、きーみーがーあーよーをーわーあー。
「――エート、凛サン。ソレハ妹ガ兄ニ向ケルト言ウ親愛ノ意味ヲ持ツモノデセウカ?」
怪しさ炸裂、キャンペーン中につき100%増量中。落ち着けわたし。しっかりしろ二十二歳。
「LikeかLoveで訊かれたら、間違いなく後者です」
誰かが何かを打つ音が聞こえたような気がした。ラップ音なら怪奇現象にこんにちわだが、あいにくとそうではなかった。
その長い黒髪をたなびかせ、凛ちゃんは冷静に続ける。
「でも、あたしは期待のきの字もないですよ。直人、円条先生に夢中ですから」
からかうような。いや、実際にからかっている。ちょっとだけ凛ちゃんが見えてくる。
「諦めるとか諦めないとかそういう問題じゃないんですよね。あたしは直人を見てるけど、直人はあたしを見ていないから」
「……」
告解にも近い言葉のひとつひとつが、わたしをやさしく抉る。
誰かに見られたい、見てほしい。だからみんな真剣になり、躍起になり、自棄になり、でも最後にはひとつの結論を出す。
わたしはそれをずっと先送りにして、仮面をかぶっていた。優等生という鎧を纏い、傷付かないようにしていた。
刃は奥底にあり、眠る。頑強な箱に、鎖の戒めをされている。本当をさらけ出せば、きっとみんなは離れていくだろうから。
直人くんはわたしを解き放ちかけている。わたしの本当を受け入れてくれるに違いないこともわかる。でもわたしはそれを恐れている。嫌われるとかじゃなくて、醜い自分を見せるのが嫌なのだ。
虚栄心や見栄がわたしの中で渦巻く。円条はるかは、まだ鎖に繋がれていることを望んでいるのだ。
それはけして強い繋がりではないけれども、わたしを永遠に縛って離さない。引き千切ろうとしても、どこまでも伸びていくだけだ。
きっと、凛ちゃんが本当を見せるのは直人くんにだけ。でもそれをわたしに断片だけだろうが見せているのは、直人くんが選んだわたしだから。
この子は本当に直人くんが大好きなんだ。理屈ではなく、そう感じた。
「ところで円条先生」
「なに?」
今度はなんだろうと、わたしは不器用ながらも微笑んだ。
「直人とはどこまで現在進行形ですか?」
どんがらがっしゃーん。
わたしの中で何かが躓き、打ちつけられて砕ける。
「あ、あはは。やだなぁもう凛ちゃんてばー」
笑いながら必死に誤魔化すことにする。
「……ふっ」
(鼻で笑われたーっ!?)
顔を背ける凛ちゃん。強い衝撃がわたしの心をハンマーで横殴りにした。怒るとかそういうのを通り越して、負け犬の気分はこんなものだろうかと考えた。
すいも甘いも知り尽くしているような彼女の立ち振る舞いはわたしの心に鮮明に焼きつく。凛ちゃんは間違いなくわたしとは違う。でも、体験してきた十四年の人生はけして楽なものではなかったのかもしれない。
わたしの二十二年もけして楽とは言えない。けど、凛ちゃんには敵わないだろう。円条はるかが歩いてきた道は、誤魔化しと詐称で成り立っているのだから。
楽な方に逃げるのは誉められた行為じゃない、しかし、貶されるものでもない。誰もが両方を調律して生きている。
(ああ、なんだかどんどん憂鬱に……)
自分で自分を追い詰める自虐系教師、ここに爆誕。とても、とてもとても虚しい。
「お、お茶が入りましたですわよー」
そこに、台所の方から気弱な声アンド怯えた口調。お盆に湯のみを二つ載せ、直人くんがこれまた怯えた顔でゆっくりと歩いてきた。
(……怯えた顔もかわいいかも……、って、違う違う!)
倒錯した趣味の方々と心の友になってしまうところだった。ぶんぶんと顔を左右に振って、危ない危険を打ち消す。……わたしはちっとも落ち着いていない。
「ありがと。適当に置いといて」
「は、はい」
妹に顎で使われる兄の姿はなんとも情けないような気がしてならない。でも直人くんの一面を見れたのでよしとする。お茶の味がした。
直後、湯のみに唇をつけ、凛ちゃんは目を細くした。そしてテーブルに湯飲みを置く。
「直人」
威圧感たっぷりの澄んだ声に呼ばれ、直人くんの時間が止まる。わたしには普通の味に思えたのだけれど、なにか問題があったのだろうか。
「あたしのはいつも緑茶だって言ってるでしょ」
凄みも何もないセリフだけども、兄を怯ませるには充分すぎる言葉だったらしい。直人くんはがたがたと震えている。
「すんませんでしたーっ! ああっ、お腹は、お腹はやめてっ」
漫才。その一言に尽きる兄と妹のやり取り。
額に何度もチョップをされている直人くんを見て、わたしはいつのまにか笑っていた。
「それじゃあ、お邪魔しました」
先生はさっきから笑ったままで、僕を見るたびに笑いを堪えている。いったい何かおかしいところでもあったのだろうかと考えるけど、思い当たる節はないわけである。
謎が謎を呼ぶ連続ミステリー。犯人は見た。何をだ。
何気なく振り返ると、凛がじっと僕たちを見ている。
「……ああ!」
直人くん閃く。ふふん、いつまでもおとぼけボーイとは呼ばれないぜ!
「先生、ちょっと待ってください」
「ん?」
僕は台所へと駆けていき、作り置きしてあった味噌汁を……
「直人、回し蹴りと金的、どっちが」
「ごめんなさい冗談ですのでその構えを解いてくださいお願いします後生ですから」
凛さん、直感鋭すぎです。でも、ボケでもいないのにこの扱いは不当しすぎやしませんか。という意見は後が怖いので封印。でも後頭部にチョップをなぜかいただきました。痛いです。
玄関へと戻ると、先生は律儀に待っていてくれた。
「それで、なに?」
「家まで送りましょう、れでぃ」
後頭部がひりひりと痛むたびに、僕は自信の浅はかさを思い知るのだ。
やっぱり味噌汁ではなくシチューの方がよかったのかもしれない、と。僕の脳はとてつもなく腐ってる。
午後九時半に先生の家に着いた。あがってと誘われたけど夜も遅いし、品性方向な中学三年生としては鋼鉄の意志を以て固辞するのが正しい姿である。
「凛ちゃんってすごく大人びてるよねー、わたしびっくりだよ」
「そうですね」
泣いてなんかいないやい。僕は負けてないやい。
(今、僕はすごく情けない)
同時に悲しい。
いやほら、この年代の男子どもにとっては学校の女神様とまで言われる女教師(二十二歳)の自宅に招かれるなんて事はマインドがいい感じでエレクトする次第でございますゆえに?
……あまりのドキドキイベントに、僕と先生の関係までも忘却の彼方に追いやるところでした。ちょびっと反省。
「ところで……、先生。何かいいことありました?」
月代家から自宅まで、先生は現在進行形でにこにこしている。僕がいなかった時になにかしらいいことがあったには違いないのだが、その時先生は、喜びを与えるよりも奪うと思われる我がシスター村上凛と一緒にいた。とてもじゃないが、凛がなにかいいことを言った風景を想像できない。貧困な想像力を誇る僕がいけないのだろうか。
「べつになにもないよー」
満面の笑みでそれを言っても説得力なんてものは感じられない。ますます怪しい。
「まぁまぁ、これでも飲んで飲んで」
先生は上機嫌で飲み物を勧めてくる。仕方ないなぁ、と思いつつ、カップに口をつけて液体を口内から喉へと流し込む――
ぶふー。
小型間欠泉爆誕フロムマイマウス。
「酒じゃねぇかーっ! なに考えてんだ新任教職者ーっ!」
「あ、あれ? おかしいな」
途端に慌て始める先生の右手には、「大吟醸・神殺し」と銘打たれた物騒な一升瓶が握られている。浮かれすぎてそこに目がいかなかったのか、確信していたのか。どちらにせよタチが悪いのは変わりないが。
それよりも先生が酒を、しかもかなりどぎつい度数のものを所持していたことが驚きである。人は見かけによらずとはこのことに間違いない。今度から心の中で名前の前に酒豪とつけてから呼ぶことにしよう。
そして僕の視線の意味に気付いたらしく、先生は慌てて一升瓶をテーブルの上に置いた。
「ち、違うの。これはね、そのね、杏子がね、無理やりね、置いてね、いってね」
ね、がいつもより多い。本当にそうなら堂々と「ディアフレンドが置いていってしまわれまして困っていますのオホホ」とでも言えばいいものを、こうもたどたどしいと疑念は更に深まるばかり。
ねーねーねー。ねーだらけの先生の家。さすがにそろそろ止めた方がいいっぽい。
「わかりました。そこまで言うなら信じます」
「うぅ、ミネラルウォーターだって言ってたのに……」
大吟醸とか神殺しとか、あと開けた時の酒特有の匂いとかでなんとかならなかったものであろうか。やはり確信犯という疑いが僕を取り巻いていく。
「素直に言えば、お上にだって情けはあるんだぜ」
「すいません、わたしがやりま……じゃなーいっ!」
円条はるか咆哮。あさっての方向に向けて。先生はノリもよく、からかいがいがあると言えよう。
それにしても十四歳にからかわれる二十二歳とは、なんともシュール。
顔を真っ赤にした先生は両手をぶんぶんと振りながら、引き続き一人釈明会見を続行中である。記者は僕一人。今の先生の姿は後々のためによく覚えておこう。
「ふんだ、直人くんの意地悪」
先生は頬を膨らませて拗ねてしまわれた。そして右手に握る一升瓶をぐいっと呷って――
「って、待て待て待て待てマテマテマテマテマテェェェェェッ!!」
「ふぁぇぁ? ろーかしたんなおとくんは?」
「おおおおぉぉぉぉ!? 早っ! 酔っ払うの早っ!」
ぐでんぐでん。そう、ぐでんぐでん。茹蛸の如きピンクに近い赤に、呂律が回っていない口調。これを酔っていないと言わずして、何を酔うと言うのか。世界は僕らの答えを待っている。
「あんたは馬鹿か、いや馬鹿だっ! 酒とわかってて飲まんといてください! 弱いってバレバレですよ!」
「さけー? こんなんみずぢゃこのやろー」
ぐびぐびぐびぐび。
「ひぃぃぃぃっ!?」
勇ましすぎる飲みっぷり。蛮勇そのものである風景が、目の前で具現化されている。無謀とは言わない。それが僕が今できる、唯一の優しさだから。
「すー」
「寝るのかよ! 早ぇよ!」
つっこみが燃え尽きるほど灼熱。灼熱と書いてヒート。
「……」
先生に酒を飲ませてはいけないと思いました。たとえ暴走が小さいものだったとしても、理想はやっぱり大切ということなのですよ。
酔っ払ってちょっと乱れた衣服が悩ましい……じゃなくて。
ともかく、先生を抱き上げてからベッドの上に静かに置いた。そして掛け布団を一応かけておく。風邪でもひかれたりしたら困るわけでありまして。
「はぁー……」
このまま帰るのもなんだか癪だ。そう思って、僕はゆっくりと電話機に近付いていく。
「あ、凛、僕だけど。え、僕なんて知り合いはおりませんって、ちょっとタンマ。直人ですよ直人くん、君の兄上の。え、どこをぶらついてんのかだって? あー、今先生の家って、うわ、なんで切ろうとするかな君は。まあ、それは置いといて。いろいろあって今日は帰れなくなったから、家の鍵閉めといていいよ。え、なんで僕が薄情者なのさ。あ、ちょっと、おーい、もしもーし」
つー、つー、つー。
悲しいかな、兄の威厳というものは微塵たりともなかったことを再確認。
なんだかひどく物悲しい夜は、こうして淡々と更けていく。