――――何が欲しい?
 なんにも。
――――何をしたい?
 なんにも。
――――何をされたい?
 なんにも。
――――何になりたい?
 なんにも。





――――面倒は見るけど、それ以上は期待するなよ。
 なんだっけ、これ。
 ああ、そうだ。
 少し昔、僕の記憶だ。
――――手続きと必要なものの配達は済ませてある、とっとと出て行ってくれ。
 焦ることもぐずることもなく。僕は淡々と事実を受け入れた。好きも嫌いもゼロの伯父家族との暮らしなんて、息が詰まるだけだから。凛は、終始、自室の窓から僕を目で追っていた。
――――お願い、泊めて。
 なんだっけ、これ。
 ああ、そうだ。
 少し昔、僕の記憶だ。
――――もう、嫌になったから――――。
 凛は目を細め、雨に濡れた体をバスタオルで包み、僕に背を向けたままそう言った。両親の亀裂が決定的になってしまったとか。でも、直接的な原因はそれじゃない。原因は、今の僕だからこそ、判るもの。
――――円条、はるかです。国語を担当しています。よろしくお願いしますね。
 なんだっけ、これ。
 ああ、そうだ。
 少し昔、僕の記憶だ。
――――私、月代君のこと好きみたい。
 最初は疑って、次も疑って、でも最後は受け入れて。小柄な体格のきれいな人。僕はどうやら彼女を好きで、彼女も僕を好きらしく。触れて、離れて、ひっついて。実に難しい人と関係を持ったものだ。
 最近は目まぐるしい。自分の立ち位置すら歪んで見える時がある。曖昧。曖昧。曖昧。
 次に眼を覚ました時、はたして僕は僕だろうか。すべてが無かったことにされたらいいのに、と切に願ったり、馬鹿な考え、と頭を小突いたり。

 どっちが僕?

 ねえ、僕は、どこに行ったの?
















 いくら身辺が目まぐるしく変化し続けても、朝だけは変わらない。気だるくて、眠くて、明るくて。
 太陽の光が窓から差し込んでくる。時計は丁度朝の六時を刻む。頭を回すと、骨がバキバキ、ボキボキ、折れていると誤解しそうな音を生んだ。
 昨日の記憶はほとんどなかった。空腹感は、毎朝のそれと変わらない。夕飯はきちんと摂ったようだ。
「……ふー……」
 クローゼットを溜息交じりの呼吸とともに開け放つ。今日は平日なので、始業時間と終業時間はいつも通り。そして着慣らされた制服―――ではなく、ジーパンとシャツと上着をハンガーから解放した。
 ボタンを外し、袖に腕を通し、準備は滞りなく。登校にはまだ早い。でも、あいにくと今日は机に向かう気分ではなかった。昨日からの延長は、今日も遠慮なく延長である。一日が四十八時間体勢のように思える。いつまで続くか? いつまでも。誰かが答えた。
 多大な迷惑ではないにしろ、多少の迷惑ではある。
 ……やっぱり学び舎に向かおうか? 気分が紛れるかもしれない。
「いや………」
 やめよう。
 行っても無駄だ。
 今の状態では見事なトンネル耳を披露し、内申に響いて進学が少しだけやばくなるかもしれない。
 僕には行かなければならない場所がある。早急に、一刻も早く。機敏に、俊敏に。
「あ、そーだ…………」
 サボリでもやはりやばいかもしれないので、コードレス電話を求めてリビングへと移動を開始する。出来るだけ早足で。そして、凛にばれないように、静かに。忍者もびっくりの忍び足。廊下の軋む音ひとつに、頭の中で少しだけ八つ当たりしつつ。
 無事にリビングに到着し、子機を手に取る。
 早番の先生がいることを祈り、丁寧にボタンを押していく。
『はい、もしもし』
 どこかで聞いた声だけどきにせず、用件を伝えることにする。まずは、クラスと名前から。
「あの、三年一組の月代ですが……」
 名前を告げると、がたん、と、受話器の向こうから小さい音が聞こえてきた。なんだろう、と首を傾げると、なんとも事態をややこしくしてくれそうな、
『ど、どうかしたの? こんな朝早くに』
 慌てふためいた声。少しだけ気が遠くなった。ああ、時が見える―――じゃなくて。
「いやー、ちょっと風邪っぽいので今日は家で療養しようかと思いまして」
 落ち着いてるなら、こんな朗らかな病人なんて演じられない。月代直人、早くも一生一大の大ピンチ。苦しげな息を吐け。声も掠らせろ。人類は弛まぬ努力で文明をここまで築き上げてきたのだ。病身の中学三年生に擬似的に転身することなんて難しいことじゃないはずだ。ライト兄弟に思いを馳せろ、明治維新を笑え、大日本帝国憲法を蔑め。
『だ、大丈夫!? 血、吐いてない? 頭、割れてない!?』
 そんな無茶な。
 人類の進歩に真逆する女教師が一人、受話器の向こうで右往左往している様が克明に浮かんでくる。風邪なので死にはしないだろうに、大した誇大解釈である。血を吐いたら。頭が割れたら。どっちでも、命は取り留める可能性だってあるだろうに。もう少し、考えて欲しいとか思ったりした。
 突っ込もうかと思ったけども、屁理屈を一人で並べて一人で満足している時ではないと、瞬時に演技派への変身を便宜。
「残念だけど、そんなに大したもんじゃないですよ。咳とか鼻水とかが止まらなくて、頭痛や寒気にさらされる、ただの風邪。その一歩手前です」
 あと、関節も痛くなる。頭の中で語尾にそう付け加えて、一瞬の満足感を得た。
 そのまま放っておけば家まで押しかけてきそうだったので、僕のことは大丈夫ですので、しっかりと授業を執り行ってください。健気な少年を演じてみた。自分でも中々の芸達者と評価を下すと、受話器は言った。
『じゃ、じゃあ放課後に行くからね』。どうあっても来るつもりだ。
 現在、午前六時二十二分。始業、午前八時四十分。放課、午後三時十五分。学校から家まで、徒歩二十分。おそらく走ると思われるので、十一分。リミットを頭の中で弾き出し、すべきことを頭の中で整理し、準備は万端。
 最後に「できるだけゆっくりと来た方がいいですよ。けっこう車が通りますので」と言っておいた。悪足掻きには程遠い、時間稼ぎもどきだ。通話ボタンを押す。通話が切れた。もう、受話器の向こうからは何も聞こえてこない。静寂をめいっぱい肺に吸い込んで、僕はリビングから玄関に直行した。履き慣れたスポーツシューズを装着し、鍵を持って、ドアを開く。爽やかすぎて逆に鬱陶しいくらいに透き通った朝の空気が通過する。それだけで、吸い込んだ静寂は消え失せた。肺を巡回する酸素と二酸化炭素の攻防。窒素は事の成り行きを影で見守る。水素、その他諸々は観客になって、唾棄する事も無く、ただ見ているだけだ。全身の血管という血管を駆け巡り、口から出てくるものは、たくさんの同胞を失った、同じ部隊のものたち。以上、回りくどすぎる呼吸の解説でした。
「なにやってんだ僕は」
 自虐を言葉に潜ませた一人突っ込み。虚しすぎる。時は金なり、とは誰の言葉だったか。大切な時間をくだらないことで消費してしまった、自責の念が押し寄せる。でも、そんなことをする時間こそが本当に無駄だ。僕は脚を一歩前に出し、出し続ける。コンクリートを踏みしめ、目指すは学校よりも遠い、徒歩三十分の位置にある駅だったりする。ポケットをまさぐり、出てくるは一枚の紙切れ。なくしたら大変な紙切れ。僕の命運を左右する紙切れ。なんとなく上に掲げて、字を黙読。
 隣の県の、見慣れない住所を、繰り返し繰り返し読み上げた。
















 街外れ、建物よりも森が多い、獣道が近道。時間こそが最優先事項なので、草木が生い茂り、足元が見えない道をかき分けながら歩いた。電車に揺らされ一時間、駅から歩いてかれこれ一時間。時刻、午前九時ジャスト。(うまく歩けば)徒歩で三十分でつけるといいね。なんて無責任なメモだろう。……いや、責任の所在はメモではなく、これを書いた張本人にある。芸術家と言われる人間は偏屈が多いとされてるけども、実際にそうじゃあないか? と疑念が浮かぶ。人里を遠く離れ、自分に干渉してくるのは木々と虫と草の匂いと、あとは完成を急かす編集者の電話。ここは、人間味が自然に混ざって爆ぜて、極端に薄れている。そして薄暗い。未知への恐怖に似たものが生まれる。知っているはずの草木や鳥、風は突如未確認生命体に変貌し、襲い掛かってくるのだ。ごっそり背筋を削られた気がして、僕は慌てて走り始める。草を切る音も風を切る音も巻き込んで、僕は走る。酸素が足りなくなっても、転んでも、走り続ける。いつかの『黒いお化け』に飲み込まれるのは、こわい。だから。
 いくつの風景を流し見て、草を薙ぎ倒しただろうか。緑が終わった。土色が代わりに出迎えてくれる。鼓動がやけに近くに存在していた。心臓が止まるといけないので、しばらく歩く。暴れん坊だった呼吸も「俺もだいぶ落ち着いたよ」とでも言いたげに落ち着いてくる。不良でもないし、なかったくせに。どこに向かって放ったか、行方不明候補最有力の突っ込みだった。
「…………」
 空を仰いで、空気を吸った。円筒形に切り取られたような森林から見える空は、際限無く、違うことなく、僕が憧れる空色。
 こん、こん。
 堅めの木製のドアをノックした。
















 やっぱ自分で作れ、ということなのかなと問いかけてみたけども、自分で作るしかない、と自分が答えを弾き出す。
「………直人は冷たいなー」
 妹に対してのこの仕打ちはちょっとばっかり酷いのではあるまいか。ちょっと朝早く、寝坊大好きな兄が起きたのを偶然にも目撃し、日ごろの妹への感謝を込めて朝ご飯を作ってくれるのではと思いきや。
 出てくるのは、溜息ばかり。いつも通りに自分で作ろうと軽く意気込んで冷蔵庫を開けた。そしてすぐ閉める。閑古鳥がどこかで鳴く音を聞いた気がする。
 脳は次の行動をすぐさま指定。右腕が動く。制服に入れっぱなしだった財布を開き、中を見た。そして数える。三万七千三十三円が鎮座している。少しだけ支配階級の気分に。
「今日はコンビニの日」
 お腹が、恥じらいげに小さな音を鳴らした。誰もいないけど、少し恥ずかしくなる。
















「いやー、ごめんね。大雑把で」
 あちこち泥だらけで、頬から薄い血流が流れ出る僕を見ても彼女は動じなかった。若いってのは無茶ができていいねえ。あんたもまだ二十二だろうに。僕のこの言葉は終ぞ口には出さなかったが。出した瞬間に何をされるか判らないからである。芸術家という正体不明の生物には、弱み等は見せてはいけない。直感に過ぎないけど、この手のものは信じたほうが無難なのだ、という今し方思いついた持論。
「いやいや、でもあたしは信じていたよ。艱難辛苦を乗り越え、月代直人十五歳が約束の地に辿り着くことをっ」
 もしも現在の日本国憲法が急遽改定され、許されるならば今すぐ嘘発見器に括りつけ、低周波を体中に流し込みながらねちねちと拷問にかけてやりたい。しかし憲法改定は中学三年生には到底無理。そのまま実行すれば塀の中から社会情勢を眺め、毎朝五時に起きて一日中労働に奉ずることになりそうなのでやめておく。別に僕はサイコパスでもなんでもないので。たぶん、きっと、おそらく。希望ぐらいは持ってもいいと思う。ので、心の内に秘めておく。
 火急の用だから、早々と訊ねることにした。
 悩みの種は先生ではなく妹にある。昨日辺りその種は僕の脳天に埋め込まれ、根っこは今や思考回路を、亀よりも遅く、しかしじっくりと蹂躪中。有機栽培の強み、ここにあり。
 僕がひとつ話すと彼女は唸り、僕が手振りを加えると彼女は唸り。唸ってばっかりだった。芸術家・秋吉杏子は果たしてどんな言葉を僕に放つのか。少しだけ期待する。
 昨日の出来事をすべてなるたけ判りやすく説明し終える。杏子さんはにこりと笑って、
「ほい、あたしなりの結論。あんたは馬鹿でアホでグズで間抜けな亀」
 散々な言われようだ。
 しかし外れてはいない。僕は「そうですね」と相槌を打った。すると杏子さんは細く長い右人差し指を突き出して、僕の鼻のてっぺんを押した。そして、
「痛痛痛痛痛痛痛!?」
 摘まれて、捻られた。
 千切れるとも、千切れているのではとも、それくらい痛い。僕の鼻から二本の指を離し、杏子さんはウェットティッシュでそれを拭いた。ちょっと傷付く少年心。とりあえず自分で鼻を触った。確かにそこにある、変わらない質量と物質を確認する。一安心。
「あのさー、そりゃ悩む気持ちも判らないでもないっつーか判りたくないんだけどさ」
 僕の全存在を全否定する気ですか、あなたは。
「結局は少年が決めることだしさ、あたしに言えるのはそんだけ」
 そう言って立ち上がり、杏子さんは描きかけのキャンバスを真剣な顔で眺め始める。
 もしかしたら、杏子さんは遠回しに自分で考えることの大切さを教えてくれたのかもしれない。悩むことこそ、自身が発達することへの一番の近道、ということを。ああ、素晴らしき芸術家。生態不明の奇妙な精神構造の物体なんて思ってごめんなさい。今なら喜んであなたのために死のうではありませんか。
「あー、もう言うこと無いしさ。気が散るから帰ってくれると嬉しいんだけど」
「はい」
 美談で終わりたかった、終わりたかったんだよぅ。
 あなたの中では邪魔くさくて青臭い子供でも良かった。せめて僕の中だけでは美しい話として胸の内に秘め、後世に持って行きたかった。
 やっぱり、芸術家は解らない生き物だ。できればもう近付きたくないほどに怖い。僕の中の少年は縮こまった。
 ドアを開けて外に出ようとして。
「ま、頑張りな。はるかの友達としてはさ、あいつにゃー幸せになって欲しいとは思うし」
 背を向けたままで僕はその言葉を聞く。きっちりと刻んだ。刻み付けた。消せといわれても消せないものになった。振り返った。
「やってみなきゃ、判らないですよ」
 そうだね。
 杏子さんは筆を振るいながら、聞き流すように返事をした。表情はさきほどとまったく変わらず、一心不乱(?)に筆を動かしている。傍から見れば無愛想に見える。でも僕にはそれで充分すぎた。
















 夕焼けを見ると人は口々に「きれい」とか「まぶしい」とか言う。けど、僕はそう思わない。月代直人は夕焼けが嫌いなのだ。どのくらいかと言うと、わさびとからしを1Kgずつミックスさせ、そこに砂糖を2Kg、さらに餅をそれに塗して食べるのと、夕焼けはどっちが嫌いかと言われれば夕焼けを選ぶほどに。胃がかなりやばい事になりそうだが、それでも僕は夕焼けを嫌おう。嫌いたい。嫌わせてください。
「それじゃあ、今日はせんせーが作ってあげます」
 いっそのこと、嫌いも好きも無くなってしまえ。心の中の、誰にも言えない自暴自棄な自分。ちょっとワイルドな風体に、普段のなよっとした自分を較ぶれば、そりゃあ前者でありたいと単純に考える。でも心構えは全力で後者だ。ワイルド直人はどんどん小さくなっていき、やがてなよなよ直人に食べられてしまう。マインド(精神的)カニバリズム、誕生。
 先生は「待っててね〜」と言っていそいそと部屋を出ていく。扉が閉められ一人きりになると、静けさが訪れた。その静けさも僕にとっては煩すぎるものには違いない。外から「うわっわっ」とか変な音が聞こえたけど気にしない。気にしてたまるものか。
 風邪のフリもこれでなかなか難しい。
「………」
 視線。視線が。視線が痛い。突き刺さるみたいに痛い。実際に突き刺さってる方が感覚がリアリティな分、マシかもしれないと思った。精神的な痛みが肉体を凌駕している。やめてください、お願いですから。
「……サボリなんて、不良みたい」
「凛には言われたくないかなー、とか思っちゃったりして」
 明朗快活に受け答え。アカデミー主演男優賞にもノミネートされそうな演技だ。でも、妹の睨みは誤魔化せなかった。痛いです。視線が。心が。その他諸々が。
 床下から聞こえてくる様々な雑音は幻聴と解釈しておく。
「……まさかここまで悩むとは思わなかった、とか思ってるんだけど」
 ガラにもなく項垂れる凛。それは今まで見たことがない、ちゃんとした女の子の仕草。情報過多、或いは不足で思考が止まった。村上凛は十四歳で、妹で、従妹で、女の子で。情報を整理しているうちに自我は己を構築することに成功する。
「嘘だけど」
 嘘かよ。
「でも、ちょっとは悪いとは、その、考えたり否決したり」
 どっちだ。
「改めて言うけど、期待のきの字も、期待してないからね」
 そう言って笑う。したらば、突如頭の隅に引っかかる違和感。凛の本心からの言葉には違いないが、どうにも拭いきれない。ぼやけた風景が脳裏に次々と浮かんで、消えていく。
 違う。そうじゃない。
 違っているのは凛じゃない。僕だ。
 だから、違っているから、戻さなくちゃいけない。
 成長して、なるべき自分にならなければいけないんだ。壊れないために。
「あー………」

 コネクト。

 小さな歯車が噛み合う音を聞いた。そんな気がする。

















 水の流れるような音がすぐ傍で煩わしく絡み付いてくる。振り払うように、頭を左右に振った。すると今度は意識が遠くなる。
「く……ぅ」
 負けるわけにはいかない。ここで無様を晒しては、僕はきっと、ずっと後悔していくことになる。いやだ、いやだ。半ば意地になり、気を引き締める。それだけで意識は持ち堪えてくれた。すぐに腕を動かす。動け、動け、必死になって呼びかけ、なんとか動作させる。視線の先には十三階段とギロチン。僕はゆっくりと死地へと登っていく。誤解が無いように、念のために確認するが、死ぬためではなく生きるために。自分の弱い意志への反逆のように、繰り返し繰り返し、その言葉を呟いた。そう、生きるために。
「月代死すとも自由は死せず!」
 ここで後世に自分の存在をアピールしておく。どこかで聞いたような言葉のような気がするけど、それは些細な問題だ。要は礎となれたかどうかだ。
 さよなら現世。さよならマイライフ。さよなら妹。さよなら先生。さよなら人類。
 辞世の句をしたためられなかったのが、唯一の心残り。来世では猫になりた「そ、そんなに言わなくても………」。ノイズ。言葉が遮られた。
「先生は僕を殺す気ですかそうですか」
 箸をテーブルに置きつつ、水を一気飲み。コップはあっという間に空になり、でも口内の粘着感は減ることなく健在。畜生、心の中で叫んだ。その苛立ちは主に妹への八つ当たりに使用されている。凛は危険を感じ取ったのか、靴を玄関からこっそりと持ってきて、器用にも僕の部屋の窓から猫みたいに降りていった。一部始終を呆然と見ていた僕は、とりあえず隠密行動専門会社鰍ナも設立しようか、とかいう暴走しかけた思考のまま、空を眺めていた。あ、カラス。
 猿でも三分でわかるよい子の回想講座、終了。
「先生の誠意と殺意は充分に判りましたので、あとは僕がやっときます」
「後者は余計だよー」
「ええいっ、バイオハザードを引き起こせそうなものを食べさせられてにこにこ笑ってられる菩薩様がいるものかっ、むしろいるなら紹介してくれっ」
 廃墟と屍の街誕生の予感がひしひしと。ミサイルを撃たれて爆炎と火柱が立ち上がる様を、僕らはヘリコプターから見るだけしか出来ないエンディングを迎えることになる。無限ロケットランチャーなんて素敵なものはないのであしからず。
 閑話休題。元々どんな話だったのかも定かではないが。
 まな板の前に立ち、包丁を握る。冷蔵庫から取り出し、切り刻む。人参、長ネギ、ピーマン。殻を割って攪拌する。卵。火を点け、油を温め、フライパンで溶き卵を炒り卵にする。そこで卵は一時退場。再び油を敷いて、人参と長ネギとピーマンでフライパンを大空襲。熱された油は容赦なく野菜たちをいたぶる。なんだか矛盾を感じないでもないが、そのまま調理を続けることにした。
「……ん?」
 フライパンの柄を握る右手に視線が行った。赤いものが零れ落ちている。赤唐辛子を擂り潰して水に塗した覚えは無い。おそらく包丁でいつのまにか斬ったと思われる。やっちゃったか、と舌打ちして、フライパンを右手から左手に持ち替えた。そこそこ重量があり、慣れていない左手は小さい悲鳴を上げている。フライパンを置いて火を消す。絆創膏はあったはずなので、台所備え付けの救急箱を取り出そうと、頭上の戸棚へと背伸びをして更に手を伸ばした。これでギリギリ届くのである。身長百六十三センチだってやろうと思えばこれくらいはお茶の子さいさい。無事に取り出して、床に置いた。同じように自分も座る。
 止まってれば僥倖、指を見る。赤い筋が掌まで侵攻していた。少々欝になる。気を取り直して絆創膏を取り出した。
――――もし。
 貼ろうとしたところで、なぜか動けなくなった。でもそれを僕は怪訝に思わない。
 もし。もしも。
 傷口を目の前まで持っていく。
 もしも、だ。
 まるで初めて怪我をして、呆然とそれを見る子供のように。
 この傷口を更に裂いたらどうなるんだろう。
 痛覚は、疾うに麻痺しているのか、元から無いのか。それすらも忘れた。
 血が吹き出る。泉になる。それは面白い?
 妙な高揚感が僕を突き動かしていく。止めようとも思わない。痛いはずなのに、止まれない。
 きっと面白いんだ。
 包丁をあてがった。遮るものは何も無い。安心して、引き裂け。
「うわっ、ち、ち、血、出てるよっ!」
 誰かの声。誰だっけ。
 知ってるよ。
「……本当だ、血だ」
 突然に、醒めた。
 血はなかなかに流出していて、見ている方が痛い、と形容すればいいだろうか。痛覚はまだ戻ってこない。どこまで行ったんだろうか、あの放蕩感覚は。呆れていると、指が滑り気に襲われていることにふと気がつく。じっくりしっとりと丁寧に、それは僕の感覚に侵入してきている。背筋を小さい稲妻が駆け抜けた気分だ。痺れが始まる。しかしそれはひどく心地良く、僕を駄目にするものと同等の気配を出していた。
 ああ、これが舌の感覚か。もっとお願いしますと神に祈る。
「あとは、絆創膏貼ればおっけーだね」
「…………」
 天国終了。現世にこんにちわ。唾液で濡れた指先に、風が冷たい。妙に冷たい。心も冷たい。世間って冷たい。銀行は中小企業に冷たすぎる。差別反対。人に優しくをモットーにすべきだ。
「ところで先生、なんで台所に? 我流殺人料理拳の続きですか?」
「そうじゃなくって、遅かったからどうしたのかなって……」
 尤もな理由だった。そりゃあ、僕も遅すぎたならこうやって見に来るに違いないわけで。
「ところで今何時何分何十秒、地球が何回回った日ですか?」
「そんなの判らないよ」
「そうですよね。んで、今何時ですか?」
「んと、七時をちょっと回ったくらいかな」
 外はもう暗い。
















 家に忍者のようにこっそり帰ってきたのが午後三時半。途中、道が判らないお婆さんを背負って彼女の目的地に送り届けたために遅くなったことは秘密である。挙句の果てにお茶まで貰ったのも秘密である。エジソンが偉い人ということは周知の事実。
「電話を発明したベルとエジソンはどっちが偉いんですかねー」
「どっちもどっちじゃないかな」
 返答は即答であり、あっさりとしたもの。考えるまでもない、といったところか。
 再加熱された炒飯を二人で食べている。凛はまだ帰ってこない。兄としては心配なのだが、
「はー、久し振りにまともなものを食べた気がするよー」
 帰って来られて激烈最終究極修羅場状態を形成されるのも心配だ。動の円条はるかに、静の村上凛。ファイナルバトルの予感。
「……ただいまー」
 なんだかもう駄目だと思った。いろいろと。無神論者は徹底的に排除されるらしい。恐るべき二十一世紀。玄関にある見慣れない靴を見て、今頃妹は絶対零度の世界を展開中に違いない。期待はしないとは言うけれど、はてさて。
 リビングのドアが開く最中、目の前の炒飯が黒くなっていくような気がした。
「あー、おかえりー……」
 魂が抜け出るような脱力感を体中に漲らせる。助かるためなら、この先の人生を麗らかな昼下がりをアンニュイに過ごす少年大好きなマダムに売ってもいいとか、退廃的に考える今日この頃。
















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