朝は気だるい。僕の場合、まずは体が最初に起きる。脳が起きるプロセスは最後だ。
気付けば手洗いの中だったり。キッチンに花柄エプロンを着けて立っていたり。出来上がったトーストとスクランブルエッグに野菜サラダを眺めていたりする。
牛乳とドレッシングとフォークとスプーンは出し忘れていたなぁ。とか思いつつ、僕は四つん這いで移動を開始する。
今は何時だろうか。時計を探して部屋を見渡す。記憶と現実が一致しなかった。そして見慣れない部屋は思い出させてくれる。
皺くちゃの制服、毛布が一枚、窓を隔てて差し込む太陽の光。どれもこれも、黒と白が逆転していること以外は、夕べと変わっていなかった。
細かい変化を挙げるなら、小さいテーブルに一枚の紙切れと鍵が置いてあること。
寝ぼけ眼で、字に目を通す。『先生は先生だから、先に行くね』。よく解るようでよく解らない一文が記されてあった。
やはり円条はるかは円条はるかのままだ。それはこれまでも変わらなくて、これからも変わらないだろう。
そして、僕は僕。月代直人だ。これもまた変わることは無いと断言できる。
心は厭と言うほどに澄み切っていて、穏やか。でも昂ぶっていた。
自分の心臓の鼓動が良く聞こえる。不思議と落ち着いた気分になる。
そういえば時計を探していたんだっけ。思い出して、ほどなく壁がけ時計を見つける。十時四十四分。秒針は七の辺り。
「…………」
新しい朝は遅刻という形で僕を出迎えてくれた。
とりあえず、この言葉を世界に贈ろう。
挨拶は万物の基本だから。
Hello,World
鞄を手に取り靴を履いて玄関の鏡で寝癖をチェック。異常無し。オーヴァー。鍵を掛ける。任務完了。
僕は走り出す。
チョークが次々と粉砕されていく。
なす術も無くされるがままに、白い棒は蹂躙されていく。摘む二本の指はそんなことを意にも介さず。持ち主はだらけた笑顔で黒板の前に立っていた。
粉となる白。欠片になる白。煙になる白。白だらけ。でも、やはり彼女は気付かない。
「えへへー」
何の先入観も前知識も無くその笑顔を見れば一発必中だったろうに、生徒達にとっては、本日の円条はるかは奇人以外の何者でもなかった。
恐怖が教室を席巻し、捻じ伏せ、支配していた。いったい何があったのだろう? 誰もが囁き、考える。
「ふんふんふーん」
挙句の果てには鼻歌まで披露し始める。上機嫌もここまで来ると怖ろしいものがある。
そこに鳴り響くはマリア様の救いの手か。スピーカーから、神聖とは無縁とも思える救世主の声が高鳴る。
迅速かつ丁寧かつ慎重に。足踏みを揃えて、今生徒達が団結した。体育祭でも文化祭でも結託しなかった彼らの、最初で最後のチームワークだった。
起立、礼。時間にして三秒。それでも、クラスは一致団結した。それが恐怖から逃れるための手段だとしても、それでも彼らは団結したのだ。
総勢三十五名の―――今は三十四名だが―――中学生達は、まるで刑務所から出所する気分だったに違いない。
「……遅れました〜」
小声で間延びしている声は突然に。三十四人は、またもや一斉に視線を一点に集中した。チームワークは未だ期限切れではなかったらしい。
正体は月代直人だった。扉を静かに閉めると、丁度チャイムも小さくなっていって、ぽつりと消えた。
「遅刻だよー、月代くーん♪」
桃源郷でも発見したのか。僕は先ず未知の楽園の存在を疑った。けどもすぐにその可能性は違っていることを知る。
そうだった。原因は紛れも無く、昨夜であり月代直人だった。
先生の足元は白一色。理解し、苦笑いを浮かべる。
「す、すいません」
弁明してそそくさと席へ。普段なら教師としての小言が入るのだろうが――――
「うんうん、素直な謝罪。おねーさんは好感触だよー」
神は死んだ。天国も地獄も煉獄も桃源郷もン・カイもシュレディンガーの猫もルルイエも。もうすべてがごちゃ混ぜだ。そのくらいの混乱と混沌と混濁。
あまりの変わりように思わず閉口してしまう。原因の一端を担う身としては複雑だ。
なぜだか忍び足で席へと向かう。疚しいことなど何一つと無いのに。
鞄を机の横に降ろして、中から教科書やノート、筆箱を取り出す。授業は終わったというのに、何故か教室は静か。
男子生徒達のプロレスの声も女子生徒達の喧しい笑い声も無い。
勉強道具をすべて机にしまい、次の時間は体育だったりするので。僕は立ち上がる。でも、周りは未だ静か。
どうしたんだろう、顔を上げる。目の前に女神の笑顔。笑顔の女神。円条はるか。
「…………」
どうしたものかどうすればいいかどうしてだろうか。僕は何かしたのか。遅刻した。何をされるのか。お仕置きだろうか。何故笑顔か。もしかしてサドっ気があるのか。
冷静なような情熱のような冷酷なような熱気のような視線と重圧。とにもかくにも、僕は覚悟を完了する。
「遅刻の理由と、そのことについての反省を職員室で伺おうかな」
笑顔で女神は鎌を振り下ろす。返り血がその美貌を汚すだろうが、それもまた、美しいのだろう。
僕は力ない少年に過ぎない。何が出来るかと自問自答。末。
「……はい」
服従こそ活路。信じれ、僕。
屋上は吹き抜ける風の暴挙がそのままに反映されている。校庭に散らばるは今を肯定する生徒達で溢れ返っている。
球が飛び、球が蹴られ、球が投げられる。跳ねて、撥ねられる。
風に煽られつつ、空とコンクリートを隔てるフェンスに、彼女は背中を預けた。
長い黒髪が揺れる。前髪が上空へと飛び立ちたそうにしている。体ごと透けてしまいそうな視線。天女のような円条はるかの立ち振る舞いに、僕は呆けた。
「もっと、こっち」
誘うような言葉。誘うような瞳。しかしあどけない。無邪気は罪だ。
言われるままに流されて僕は歩く。徐々に距離が縮まり、一足一刀の間合いになった。
そこで僕は止まる。止まれとも言われてない、止まれとも足に電気信号は通達されていない。でも止まる。
足とコンクリートが同一のもののような感覚。息を呑んだ。
「ほら、こっちだってば」
妖艶さは欠片も感じないのに、僕は何故だか興奮している。悔しい。悔しい。
なんとか足を動かして、先生の手前に辿り着く。
すると円条はるかは微笑んだ。
「………ん〜〜〜」
世界暗転。白黒反転。思考逆転。
興奮霧散。理性結合。思考構成。
状況認識。神経伝達。思考発動。
「なっ、えっ、あっ、えっ?」
かみ合わない思考と声帯だった。
鼻を擽るいい香り。柔らかさを厭と言うほどに強調する身体。なによりも、温かみ。
僕はしどろもどろに、けども確実に考える。認識は把握に進化した。
「やっと人目を気にせずにくっつけるね〜」
誰もいない屋上。なるほど、なっとく。
じゃなくて。
女心は秋の空。雨だったり曇りだったり真夏日だったりスコールだったり。
とりあえず「ま、まぁ落ち着いて」と引き離そうとするけど、非力な指先が背中に食い込んできた。必死である。
「やだー」
まるで駄々っ子。いや、まるでじゃなくて。そうなのだ。気分は父親。十五歳の父親と二十二歳の娘とは、なんともシュールでヘヴィな現実。
なんともし難い状況の存在は重く圧し掛かる。そうだった。そういえばそうだったのだ。いたし方ないことじゃないか。
理解すれば僕のやることは決まっていたりする。具体的ではないけども、決まっていたりする。
「はぁ………」
溜息は意味を為さない。重圧は相変わらずに前面から襲い掛かってくる。
とりあえず座ろうとして、腰を落とす。
先生は潔く離れてくれた。一安心、背中をフェンスに預ける。ぎ、ぎ、と緩やかな軋みが背中越しに伝わってくる。
そして右腕に絡みつく熱量と重み。諦めてはくれていないらしい。もういいや、月代直人、十五歳にして悟りの境地を啓く。でもガンダーラは見えてこず。少しだけ虚しい。
気付けば僕は体操服を着込んでいて、気付けば僕はバスケットボールを持っていて、気付けば僕はそれをあっさりとカットされていて。自己を駆け足で取り戻す―――走る。走る。走った。
「月代頑張れー」
「女房を質に入れてまで見に来てるんやで〜」
クラスメイトたちの暖かそうで冷たい声援を背に、僕は走る。右手を、そしてボールへと振るった。すか、斬ったのは空気。ボール、前方五メートルで元気に飛び跳ねる。現実、プレイスレス。
「…………」 僕の視線の先に、ゴールに吸い込まれていく大きなボールが。
キーンコーンカーンコーン。そして終了。呆気なく終了。クラスメイトたちはボールの片付けもせず、待ち受ける給食を求めて去っていってしまった。自動的に、残されるのは佇む僕、月代直人ただ一人。ひとりぼっち。蟻の大群のようなクラスメイトの群れを見送った。
友情はまやかしに違いない。少年少女よ、目を覚ませ。
「はぁ………」
そもそも友情があったかも怪しい。覚えてやがれ。
体育館の片隅で運動を停止したボールを拾い上げて、倉庫へと入っていく。昼間でも薄暗く、シックスセンスで感知できるものが出現しそうだ。そう考えると、背筋をぞろぞろとムカデが行進しているような寒気とおぞましさが、スケールを小さくしたような感じで這い上がってくる。
「直人」
「ひぁっ」
現世に蘇る怪談、ただし真昼間から。
ぎぃ……がら、がら。閉められる扉が立てる不細工な音を聞きながら僕は振り返る。夜道で、得体の知れないものに遭遇したような恐怖と戦いつつ。
「……なんだ、凛」
それが妹だったことに安堵し、僕は苦笑する。
「直人」
「なに?」
「円条先生が怖かったんだけど」
「…………」
なんということだろう。まさか彼女が、凛までも脅かすとは。意外も意外、在り得ないと言い切りたい。しかし証言者(同時に被害者)まで現れてはノーなんて答えには絶対に辿り着けなくなる。
凛はその様子を思い出したのか、少々青ざめた顔をしていらっしゃる。何事にも簡単には動じない我が妹をここまで震え上がらせるとは、人の変貌とはかくも恐ろしい。
「ところで」
瞬時に切り替えが可能らしい。恐怖していたことなど始めから無かったような、いつもの無表情で、凛は僕を見た。
「十個、言える?」
いつか訊ねられた問い。僕は息を吸い込んだ。
「優しい、綺麗、授業が丁寧、笑顔が可愛い、前向き、声が澄んでる、面倒見がいい、手先が器用、実は料理がプロ並み、頭の回転が速い」
ワンブレスですらすらと言えた。なんとなく誇らしげな気分になる。月代直人は一週間前のそれではないっ!
「はい、リバース」
兄の成長には眼もくれず、凛は続きを促してきた。ちょっぴり虚しい給食前。
「怒ると怖い、ちょっと嫉妬深い、時々周りが見えなくなる、少しケチ、落ち込むと凄く後ろ向き、少々保守的、口うるさい、構われたがり、独占欲が強い、かなり鈍感」
「六十点」
低っ。
「でも合格点には達してるかな。大甘で、かなり贔屓して」
妹はかなりの厳しさを以て採点に臨んでいたらしい。彼女にとって、僕が出した渾身の回答は、まだまだ浅はかなのだろう。それでも及第点だったことに、素直な安堵と喜びを感じる。
がらがら。
扉が開かれた。差し込んでくる光はやけに眩しい。おどけたジェスチャーで、でも無表情。そのまま凛が背を向けた。
「まだまだこれからだよ」
意味深な言葉を僕に放ち、なんのフォローもせずに妹は体育倉庫から去っていった。残された僕が感じるものは、哀愁と達成感と、あと、程好い期待。
確かにまだまだ解決すべき問題はある。今の僕と先生は暫定的な関係にしか過ぎないのだ。まだまだこれから。
「うん、これから」
改めて、自分への問いかけ。
歩ける?
「当たり前」
変わらない兄。変わった兄。優しい兄。厳しい兄。おっちょこちょいの兄。しっかりした兄。思えば、今、自分が村上凛として顕在できているのは、紛れもなく兄である月代直人の働きだろう。感謝感激、なんて陳腐な言葉と感情で表すには、重すぎる月日だ。
回想。
ある日の兄は泥だらけ。あたしも泥だらけ。泥団子を互いに差し出して笑いあう。
ある日の兄はランドセル。あたしもランドセル。配られたぴかぴかの教科書を互いに見せ合って笑いあう。
ある日の兄は茫然自失。あたしは―――たぶん、無表情。その頃には、すでにあたしは少し壊れかけていて。でも、兄が次の瞬間に泣き出した時、苦しかった。
心の領域は難攻不落の要塞。誰にも何にも侵させない。だけれども、例外。
月代直人だけには、随分と侵略を許している。村上凛は、寛大にそれを許す。むしろこっちからお願いしているのかもしれない。なんという矛盾。
―――― ―― ――― ―。
「あ………」
自分で考えてみて認識して、そしてやっとだ。やっと気付く。
なんということだろう。なんということだろう。笑わずにはいられなくて、悲しまずにはいられなくて、蔑まずにはいられない――――対象は、自分。
鈍感、あたしも人のことは言えなさそうだ。
黒板に展開される数式を見て答えを導きつつ、溜息ひとつ。憂鬱じゃないけども。
単純がいい。複雑なものは回避すべし。略奪は趣味じゃないけども場合が場合。なので、疾駆の如く動くのが吉だ。まだ二人の関係が揺らいでいるうちに。確定してしまう前に。
びくともしない可能性が高いけど、伝えるだけ伝えて、引っ掻き回すだけ回して、あとは放り投げ。これがあたしにとってモアベターかもしれない。最後の抵抗だろうか、いやはや、意地が悪い。
自嘲にも近い考えを一本の線で繋ぎ、簡略化。あとは動くだけで終わる。
この時、あたしは、兄以外の前で笑っていたんだと思う。後に、それを知る。
一夜、そう、一夜。時間にすれば、およそ十七時間。これだけ。
これだけで二十二年を見直した教師もいれば、十五年を振り返った教え子もいる。一騎当千にも等しい夜の闇。そこはかとなく冷えていて、そこはかとなく暖かい。ただし右腕一本のみ。他の箇所は夜風の容赦ない攻撃によって凍死寸前かもしれない。大袈裟な比喩だけれども、寒いことに変わりはない。夏も近いというのに、もしかしたら冷夏の危機か。
「どうしたの? なんか難しい顔してるよー」
円条はるかはお気楽そうで羨ましい限り。明日の米の危機がすぐ到来するかもしれないこの一大事、熟考は当たり前である。米騒動よ再び?
「いや、日本の食糧問題は深刻だなぁ、と思いまして、はい」
あながち間違いではない。嘘は言ってないので縮こまる必要なし。強気万歳。弱気は損気。ここは大振る舞いで行こうじゃないか。
途端に消え失せる熱量。不意を突く夜風。寒い、寒いぞ。冷気は僕だけを限定で冷やしたいのだろうか。大自然すらも敵に回してしまいました、十五歳男子中学生の運命やいかに。
「そーれっ」
掛け声が一閃し。
後から抱きかかえられる形。
わーい、なんだかどんどん歩きにくくなっていくぞー。
「……あのですね、こういうことを言うのも気が引けるんですが」
「んー、なにかな?」
にこにこ。
にこにこ。
にこにこ。
「歩きにくいので自重してください」
がーん。
先生の表情の変化は実にバリエーションが豊富だ。もっとも、それが彼女の自衛であるので、見て楽しむのは少々悪いことかもしれない。でも面白いものは理屈でなく面白い。これから先、存分に楽しんで愉しんであげよう。
……いじめっこじゃないよ、本当だよ?
「うう、直人君の意地悪」
「意地悪です」
「馬鹿」
「馬鹿です」
「いけずー」
「いけずーです」
「無愛想ー」
「無愛想ーです」
「一三三四年」
「建武の新政」
「急がば」
「回れ」
「抱きついていい?」
「歩きにくくならない程度なら、可」
「わーい」
途端、左腕に絡みつく。この程度なら寛大なる月代直人(ちょっと内気な男子中学生)は許容するのだ。だって内気だし? なぜ疑問系だ、マイセルフ。
よし、オーケー。落ち着け。
「仏説摩訶般若波羅蜜多心経。観自在菩薩。行深般若波羅蜜多時………」
「うわっ、なんで中学生が般若心経を暗記してるかなぁ」
僕もそう思う。ごくごく普通の、世間一般が評する「一般的模範中学生」なら般若心経どころか因数分解の方程式も危うい。ゆとり教育反対。
というか、円条さん。知ってるんかい。
かなり奇異なカップルであろう。片や、読経を軽快なリズムで歌いだし、片や、それを般若心経と見抜く。片や、中学生、片や、先生。
生きていく自信がちょっとだけ薄れたような気がする。頑張れ自分。未来はきっと明るい。
「まぁ、突っ立ってるのもなんなんで。とっとと帰りましょう」
「クールだねぇおまいさん」
いつの時代ですか。
呆けた頭と惚けた目つきなんだ、と冷静に自覚していた。天井は限りなく遠くに見える。通天閣とエベレストぐらいの差。絶対的で圧倒的。まるで別次元の創造物だ。
「ん………」
自然に両手の五本の指を目の前に持ってくる。暗い室内だけれども、それはしっかりと知覚できた。また、惚ける。
なんでだろう。
なんでだろうね?
近くにいすぎたのかもしれない。
もしくは、離れすぎていた。
どちらにせよ、考慮しても仕方が無いこと。判ってる。解ってる。
人差し指を口に咥えた。舌で舐める。
「……変な味」
不味いと思う。拙いと思った。でも、なんだか甘い味だったりする。味覚ではなく心に響く。交響曲もどきのもどき。
両の掌。両の親指。両の人差し指。両の中指。両の薬指。両の小指。
粘着。唾液。粘着。粘着。粘着。粘着。
糸。意図。
裂け目。皹。
意図。糸。
直人。兄。
「………っ」
いけない。心から追い出せ。今は駄目だ。
「ふぅ………」 落ち着いた。
なんでだろう。
なんでだろうね?
「あたし、馬鹿みたい………」
みたい。馬鹿そのものなのに。みたい。それこそ本当の馬鹿、道化、ピエロ。
「はぁ〜……」
先行きは限りなく不安。深淵の暗闇。不安すぎて、どうでもよくなってくる。ならばどうしよう。
「………」
目蓋を下ろす。ステージは黒一色へ。あたしは体の力を抜いた。今日は外気温が低いけどもこの部屋は暖かい。
眠ろう。すべてが収まるまで。
やはり朝は気だるい。そりゃもう、爽やかな太陽の光を拒むぐらいに。端的に言うと、起きるのめんどくさい。以上。
「起きろー」 ガンガンガンガン!
「うあ……」
「起きろー」 ガンガンガンガンガンガンガンガン!
「お、起きます……」
「よろしい」 ガンガンガンガン!
「あの、……妹さま」
「なに?」 ガンガンガンガン!
「音、うるさいのですが」
「うるさくしてるから」 ガンガンガンガン!
ヘビー級を超える音量が鼓膜を傷つけていく。というか、なんであなたは平気そうですか、凛さん。
もう起きたんだし、その鍋のオーケストラは必要なかろうて。それでも凛は鳴らし続ける。心なしか視線が冷たい。痛い。刺さる。ぐさり。
「あー、もう! 起きたんだからストップ!」
勢いよく起き上がって、凛の両手からおたまと鍋を没収。気分は教師。凛、なぜか不満げ。我が妹は人知れずバイオレンス。末恐ろしい。
「直人は口うるさい」
「凛がそうさせてるってことに気付いてくれ………」
嘆息。十五の身空で、こうも苦労人をしている。なんだか人生虚しい。僕はここにいてもいいのだろうか?
体は起きた。次は、寝ぼけ眼で状況認識力に欠ける脳を起こすことにする。
「……」
「ん……?」
凛が僕を見ている。凝視している。
「な―――」
に。
一瞬の出来事は電光石火の如く始まり、疾駆のように終わった。
糸。意図。
湿気。温もり。
不覚醒。不認識。
まだ脳は働いてくれない。こんな衝撃的なことは、認められないとでも言いたいのか。なにが、衝撃的? そう、衝撃的なんだよ。そうだ、衝撃的なんだ。なにが?
「―――あ」
意図。糸。
冷たさ。乾燥。
認識。覚醒。
「……何してくれるのかね、君」
「えーっと」
意外に冷静月代直人。目線は窓の外村上凛。しらばっくれようとしても、そうは問屋が卸さない。原価が高すぎて卸せない。市場、史上最大の危機。
凛は手を後ろに回し、組んで、あくまでも視線を合わせようとはせず。無表情が彼女をクール、と決めるだろう。しかし兄である僕には通じない。内心、凛はかなり慌てふためき、深呼吸を繰り返していることだろう。僕は勝ち誇った気分になり、ふ、と不適に笑う。
「キス?」
張本人は疑問形だった。自分がしたことをすぐに忘れられる、都合のいい記憶喪失症でも持ち合わせているのか。だとすれば、なんて、悪質。
なんだか馬鹿らしくなってくる。これ以上の詰問、尋問、質問。すべて、はぐらかされて、消えるだけ。真意はそうなると意味を持たない。そこに事実があるだけになってしまう。退廃、悲しむべき時代の流れ。妹が自分から進んで話す日を待つしかない。ある意味、僕は恰好の餌食なのだ。村上凛にとって。基本的人権の回復を要求したい。それはもう切実に。
「あ〜、もう、いいや。遅刻しちゃうよ」
頑なな凛に背を向け、パジャマのまま部屋から一歩だけ、一歩だけ。そして、それは僕の考えを遥かに凌駕している。気付いた、気付かされた。後ろから回される両の手がそれを物語る。
僕は訊ねる。 「どうかした?」
凛は答える。 「昔、思い出して」
僕は訊ねる。 「懐かしいね」
凛は答える。 「昨日のことみたい」
僕は訊ねる。 「歩けない」
凛は答える。 「すぐに終わるから」
僕は訊ねる。 「凛、僕は」
凛は答える。 「言わないで。言うのはあたしだけ」
僕は訊ねる。 「…………」
凛は答える。 「…………」
「あたし、直人のこと好きみたいだから」
他人行儀で自身を語る。内容云々、僕は気にかからなかった。
知っているから、知っていたから。気付いていたから、気付かされたから。
僕は鈍感とよく言われる。じゃあそうなのだろう。その僕でさえ、妹が言ったことを悟っている。始まりは、幼少まで遡るのだ。
『ねー、お兄ちゃん』
鮮明に思い出される。姿。声。笑顔。泥遊び。
『あたしね、お兄ちゃんのこと大好きだよ』
まだ、ちょっと、少しだけ壊れる前の、そんな妹との霞がかる思い出の風景。
僕は、なんと、答えただろう。僕は、なんと、答えるべきだろう。僕は、なんと、答えたいのだろう。
円条はるか。そう。円条はるか。僕の想う人。僕を想う人。思い出す。
「直人」
「――――!?」
引き戻された。沈む前に、手を握られたのだ。凛は続ける。
「期待してないから」
「………うん」
「あたしは言いたかっただけ」
「うん」
「気にしないで」
「うん……」
到底無理なこと。でも、そう答えることが、凛が求める僕の言葉だと思った。
ちょっとだけ歯車をずらしてしまい、もう元に戻すことは不可能。その体勢で、回り続けているのだから。軋み、擦れ、いがみ合い。それでも、矛盾なく回る。
だから大丈夫だと思ったのだ。でも駄目だったのだ。僕を締め付ける腕の力が増す。刹那、解放。バランスを一瞬失って、前へと二、三歩よろめいた。後ろは向かなかった。
「あたし、日直だから」
「うん、気をつけて」
あくまでも、いつまでも。村上凛のペースは失われることはなかった。引っ掻き回された思考は、とりあえず僕の腰を抜かす、という形を最初に持ってきた。情けない回路である。
「…………」
たった一人残された室内は広い。僕は立ち上がると、のたのたと学校の準備を始める。朝からとんだ体験をさせられてしまったものだ。ここまで複雑な身辺の男子中学生など、全国を回っても三人いるかどうかに違いない。その内に僕がいる。身辺どころか、心境も複雑。取材を受けてもちっとも嬉しくないだろう。
「はぁー……」
溜息しか出すものがない。いや、違う。あるじゃないか。
込み上げる。込み上げてくる。もうそこまで。あとは解き放つ。簡単で俊敏な、単純作業。吸い込み。
「うぁあああああああああああああああ!!」
叫ぶ。
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