僕と先生・4
互いに何も知らずに過ごすことは相手の爪をゆっくりと剥いでいく行為に似ている。
長い時間をかけた拷問ということ。隠したままで生きていくことは不可能だ。
篭城作戦の攻略が大事なのだ。じっくりと着実に。でも時間に限りはある。
難しい。偉大な先人たちが作り出した数式よりも、歴史を感じさせる古文よりも、脳内を混乱させる物理よりも。
カレンダーは日毎に変わっていく。人も、変わらずにはいられないのだろうか。
彼を知って、好きという感情に気付いた自分。私を好きだと言ってくれた彼。
でも、互いに知らないこともある。山ほどある。
かくして先行きは不安。暗闇が静かにやってくる。
恋をすると人は強くなれるのだろうか。
それとも………。
「直人ー、ごはん出来たから起きろー」
今日も今日とて、兄はいつもどおりだ。
んん、と唸るだけ唸って、直人は寝返りを打つ。
あたしが何度も呼びかけても起きる兆候はない。ということは、やはり強硬手段しかないわけで。
右手に勇者の盾、人読んで「鍋」。左手には武器、通称「おたま」。
大合唱の舞台は整った。静まった室内に、あたしの呼吸音だけが響く。
ご静聴ください。演奏者、村上凛。題名……。
「こらー、起きろー」
月代夫妻の遺産の中を、金属同士がぶつかり合う音が駆け回った。
朝から強烈な体験をさせてもらった。二度とごめんだけど。
「月代くんオハヨー」
「んー、おはよー……」
まだ頭の中でがんがんが響いている。次々と音が連なって、僕を苦しめているのだ。
寝ぼけ眼で見る世界は霞がかっていて、あたかも異世界に迷い込んだような感覚を与えてくれる。
BGMは金属のオーケストラ。歪む世界とはアンバランスな旋律だ。
寝起きは自分でも悪いと思うが、凛のあの起こし方は誰でも一発で起こせる代物。でも代償はでかい。
頭痛と引き換えに優等生の名を得るか、健康を犠牲にして劣等生の座を手に入れるか。
「……難しい」
「何が?」
「……」
聞き覚えのある声は頭上から。顔を上げるといつもと変わらぬクールな表情の妹がいた。
一秒にも満たない沈黙の時間の後に、声を出す。
「凛、なんで僕のクラスに……」
恐怖の来襲だ。凛が兄のクラスに何の用もなく訪れるようなキャラではないことは重々承知である。
ということは、何かしら、用があることに他ならない。
「僕は貧乏だぞ」
「いきなり何言ってんの、直人」
恐喝や脅迫の類ではなかったらしい。とりあえず一安心。
(しかし、妹に脅迫されてる、と考える兄って……)
自分の思考に情けなさを感じた。
「ほら、忘れ物」
ぽーん。弧を描いて放り出されたのは、筆箱。
「あー、忘れてたんだ。ありがと」
「御代は誠意で示してね」
…………誠意?
やはり薄っぺらな財布から捻出しなければいけないのだろうか。ポケットの中のそれを取り出して中身を確認。五百三十七円。
「期待に添えそうにないんだけど」
こつん。
「あたっ」
手の甲で軽めに小突かれた。
常にクールダウンをしている妹の顔は崩れていない。表情を変えずに人を叩くとは、結構冷徹だ。
「誠意ってまさか、年がら年中病弱なその財布が見せてくれるわけじゃないよね?」
「ははは、もちろんですとも」
笑顔で棒読み。台本のようにセリフを羅列する凛が、今はただただ恐ろしく見えた。
さて、困った。うちの妹は兄の僕でも理解できない不思議な性格でいらっしゃる。どうすれば満足してもらえるのか。
「ところで直人」
「なんでございますか、妹君」
兄の威厳は銀河の先の先まで追放。自分でも思うが、卑屈すぎだ。自分で自分が情けない。
「円条先生の良いところ悪いところ、十個ずつ挙げて」
「は?」
突飛もない要求が飛んできた。思わず、目を三度瞬き。
「は? じゃない。さ、キリキリ挙げなさい」
脅迫にも似た妹の圧迫感が、本当に身を締め付けているように、僕を精神的に追い詰める。
キーンコーンカーンコーン。
救世主が降臨した。返答に詰まっていると、電子音のベルが鳴り響いたのだ。
ざわついていた教室はさらに喧騒が増え、教師が来るまでの自由を満喫すべくボリュームは加速する。
「……はー」
今度は溜息だ。本当に、彼女が何を考えているのか理解できない。
「まだまだだね」
「え?」
修行に明け暮れる弟子を突き放すような師匠の言葉。師匠ではないが、凛の言葉には妙に説得力を感じる。
しかし言葉の真意は不明だ。あれこれと考えているうちに、ゆっくりと凛は退室していく。
「直人」
出る直前、苦悩する兄を呼ぶ声がした。
「本当に彼女とこれからも一緒に過ごしたいなら、あたしの言葉の意味をよく考えておくこと」
独り言のように呟いたあと、凛は教室から姿を消した。しばらく彼女がいた場所を眺めてから机に向かった。
チャイムが鳴っても未だに担任が現れない教室で僕は言われたとおりに考える。
良いところ、悪いところ。
自分のそれすら解らない自分が他人のことをどうして理解できるだろう。
「うーん……?」
自分を理解できず、また、凛の言葉も理解できず。
八方塞。四面楚歌。味方はどこにもいない。
援軍などは期待できない。僕は最初から孤立無援状態なのだ。
圧倒的な軍勢で攻めてくる村上軍に対して、月代軍はそれの百分の一にも満たない。
雌雄は最初から決しているのだ。
「参りました」
「な、何がどうした? 月代」
白旗を振っている間に担任の先生が数分遅れて登場していた。無意識に口走った敗北宣言は彼を軽度の混乱に陥れているようだ。
「いえ、特に大したことじゃありませんので、構わずにホームルームを続けてください」
むしろ続けやがってください。と言葉を続けるわけにはいかず。
それ以降は、恙無く朝の定例行事は進行した。
「直人にああ言ったはいいものの……」
お先真っ暗だろう。直人はおそらくあたしの言ったことの三パーセントも理解していない筈だから。
「……難しい」
「ほう、なるほど。珍しく授業に出てきたと思えば第一声がそれか」
そう、今日は珍しく授業に出てみたのだけど、目の前には大層ご立腹な表情の英語教師。
「授業の遅れを取り戻すのも兼ねて、黒板の英文を訳してみろ、村上」
薄ら笑いを浮かべるそいつはあたしのイライラを増幅させてくれる。やはり教師という職業にはろくな人間がいない。
「………」
「どうした、やっぱり解らないか?」
まだまだ自分は子供らしい。こんな挑発に乗ってしまうなんて。
椅子から立ち上がって、黒板を見る。
「その時、彼は……」
黒板から取り込んだ英語を脳の中で瞬間的に国語へと変換する。あたしにとっては苦でもない作業だ。
口から次々に出てくる言葉が教室を席巻していって、教師は茫然自失といったご様子。
「……こうして、彼らはいつまでも幸せに暮らしました……、と。これで全部の筈ですが」
和訳を滞りなく終わらせたのはいいとして。問題は、それを認知する役目の人間が固まっていることだ。
「え、あー、う、うむ。座ってよろしい」
とんだ誤算だったらしい。彼はうろたえながら教壇へと戻っていく。
馬鹿馬鹿しい。無駄な時間を過ごしてしまった。
席に座ったあたしは、再び思慮に耽る。
思い描くのは二人。
兄と新任の女教師だ。あたしの知らないところで関係が構築されていた。これを見逃す方が不出来である。
何をどうすれば二人は進展するか。今のところ、これに全神経を注いでいる。
(ま、全部あたしのためなんだけど。)
暇つぶしにはもってこいのこのイベントは、若い年代が当たる第一関門と表すべきだろう。
束の間の出来事では終わらせたくない。できることならずっと見ていたい。
人生は何十年と続く暇つぶしなのだから。
「あの、もしかしてはるか?」
「え?」
日曜日、私は活性化の一途を辿る商店街を散策したりしていた。
右手には数個、スーパーの袋。中身は食料品でいっぱい。左手は空手にしている。
数百人の人間が犇く中で、たった一人の女性に声をかけられた。空いていた左手を握られて。
セミロングの茶髪に丸眼鏡。少し幼い顔つきの女性だ。
人物像を記憶に照合して、捜索に当たる。
「……杏子?」
結果はすぐに出てきた。名前を呼ぶと、彼女はにんまりと笑ってみせた。
邪気を含んだような怪しい笑みを私は鮮明に覚えている。高校時代は彼女と一緒の風景がほとんどを占めている。
当時とさほど変わらない、なにかしらの企みを含んでいるような笑顔のまま、秋吉杏子はやっと私の左手を離した。
「ひっさしぶりー、元気だった?」
「うん、まぁね。それなりには」
歩きながら二人並んで歩いている。私は久々の再会に、ささやかだが胸を踊らせた。
屈託がない……とは言えない笑顔と、相変わらずのハイテンションな口調。気分だけが高校生に戻ったような錯覚に陥る。
しかし、やはりそれは気分だけの事象。彼女はなにやら大きく平たいものを背中に背負っていた。
しばらく眺めていると、杏子がくすりと笑った。
「ああ、これね。気になる?」
そりゃあ気になるよ、と答えた。杏子はふふふ、と怪しい笑い声と共に、肩にかけていたショルダーバッグから一冊の雑誌を取り出した。
雑誌の名前は「月刊アートデスク」。新鋭の出版社が造る、斬新な視点から美術を批評する話題の雑誌だ……、と散策の際に立ち寄った本屋のポスターには記してあった。
材料が揃うと、推理は圧倒的に簡単になる。小学生でも、この程度の連想は可能だろう。
「もしかして、杏子……」
「うん、たぶん、はるかの考えてる通り」
適当に歩いていたら、街外れの公園に辿り着いた。ベンチに腰を下ろすやいなや、杏子が背中のものを降ろした。
白い包装が施されていて、なにやら厳重な封印のようにも見える。
しかし彼女は躊躇いもなく破り始めた。出るゴミは丸めて、近くのゴミ箱に放り投げる。見事なコントロールが披露され、面白いように入っていく。
すべての封が解かれると、姿を現したのは、美しく彩られた一枚の絵画。
絵のど素人の私でもこれは見事と感じる。
「小さい絵のコンクールで新人賞貰っちゃってさ。今は駆け出しの画家ってわけよ」
高校時代から手先が器用なのは知っていた。けども、こうして、当時脳裏を掠めただけの彼女の可能性が具現化している。
私は少なからず圧倒された。夢を掴みかけている彼女の顔は生き生きとしている。
「ところでさー、はるかは、今なにやってるわけ?」
「え?」
腑抜けた声が漏れた。杏子がふぅー、と長い溜息を吐く。
こつん。油断していたらなぜか額を小突かれた。条件反射で、右手で箇所を押さえる。
「え、じゃないでしょ。まったく」
閑静な住宅街。今のご時世、外で遊ぶ子供は減少傾向にある。
子供の姿は数えるほどしかいない。サッカーボールを蹴る男の子が二人いるだけ。
ノイズがゼロに等しい公園で、杏子が私を見据えた。
「えーっと、私は中学校の先生、かな」
やっと言えた。それほどの重荷ではなかったのかもしれないが、私は納期を徹夜で守ったプログラマーのような解放された気分になる。
「へぇ、なるほど」
納得。杏子は納得している。
何に、と問おうとした。「あ、先生」。すぐに遮断された。
私を先生と呼ぶ人物は、生徒か同職の方々。声が少し幼いので、後者はない。
むしろ聞き覚えがある声だ。嫌な予感が私の背筋やら背中やら足やら。全身をくまなく疾走する。
「つ、月代君。こんにちわー」
周囲には私たちの関係は全面的に伏せるという密約が交わされているので、私は直人君を苗字で呼ぶことにし、彼は私のことを先生と呼ぶ。
冷や汗をたたえたぎこちない笑みが彼に向けられる。こころなしか言葉遣いも少々普段とはかけ離れている。
怪しまれる。そう覚悟した。
「……うーん……?」
凝視されている。こうなると、怪しいのは私ではなく彼の方。通報されて取調べを受けるのは月代直人になる。
杏子は「誰?」と視線でものを言う。「学校の生徒」。必要最低限の情報だけを口頭で、かつ小声で伝えた。
「うーん……」
まだ唸っている私の恋人。下の部分の「心」が化けて変人になった少年を、杏子が観察し始める。
人を見る目があるとよく言われていた旧友の瞳がぎらついた。月代直人の視線がようやく彼女へと向いた。
「「………」」
双方、互いに視線を外さずに硬直。
「……なるほどなるほど」
先に言葉を発したのは杏子で、納得したのも彼女。いったい、何に対しての行動なのか。
「名前は? 少年」
次に自己紹介を要求。妥当な流れである。
つがいの鳥が空を舞う。小さな囀りが空気を震わせたあとに、直人君は口を開いた。
「えーと、月代直人「ほい、月代君ね」
名前が出ると、直人君の言葉を遮って杏子がうんうんと頷く。
「ありゃ、もうこんな時間か」
私は杏子の言動に、自分勝手に話を終局に向かわせる悪癖が備わっていることを思い出した。こうなると直人君が少しだけ哀れに見える。
厄介な親友はさらに厄介になっていて、しかも芸術家という気難しいイメージを持つ職業に就いていた。
しかし目の前で実際に見てみると、高校時代とはさほど変化は見られない。時間感覚が麻痺して、五年前の風景が周りの風景と交じり合い、錯覚を引き起こす。
「それじゃ、はるか。またね」
声をかけられてはっとした。慌てて杏子を見ると、なぜか彼女も軽く焦っていた。
「え、あ、うん。またね」
それは見なかったことにして返事をする。杏子はあの頃と変わらない笑顔で微笑んだ。
とん。
「おっと、ごめんよ少年」
踵を返して歩き去る際に、杏子が直人君に軽くぶつかった。やはりあんなに大きな荷物を抱えていると不安定になってしまうのだろう。
直人君は一言「大丈夫です」と答えた。柔らかで落ち着いた物腰は、十五歳という年齢を忘れさせてくれる。
そのまま何かしら残すわけでもなく、杏子はそそくさと落ち着かない様子で公園から姿を消した。
いや、残したものが一つだけある。
「…………」
「………うーん」
気まずい空間だ。見事に原形を残して去っていってくれた。
実のところ、気まずいと感じているのは私だけかもしれない。月代さん宅のご子息の直人君は考え事の真っ最中。
恋人と共に過ごす休日の麗らかな午後の昼下がり。と銘打ちたいのはやまやまだが、彼の思考は留まらない。いったい何についての考察なのだろうか。
まったく、彼女さんが近くにいるっていうのに、この仕打ちは酷いんじゃないかな。
むくむくと入道雲のように悪戯心が拡がり始めた。こそこそと後ろに回りこんで、静かに両手を両脇に。これで準備は整った。
つんつん。人差し指で優しく脇腹をつつく。優しくがポイント。でないと、これは十分な効果を発揮できない。
人を驚かせるために開発されたであろうこの技。目の前で満足すぎるほどの成果を挙げていた。
期待通りに「ひあっ」と、随分可愛らしい声を上げてくれた。
「せ、先生、何を」
倒錯した趣味ではないと自負はしているものの、慌てている直人君は可愛いと思う。
顔を真っ赤にしている恋人は、突付かれた箇所を防御するように押さえて、再三の攻撃を防いでいる。
「何か考え事?」
笑顔を浮かべつつ訊ねてみた。
直人君は今ひとつ要領を得ない、曖昧な返事ばかり。
「えーと、そ、そんな大したことじゃないです」
嘘。表情、仕草、声のトーン。すべてにおいて直人君は偽った。
確かに大事ではないのかもしれないけど、やはり付き合っている身としては言ってもらいたい。
悲哀の波が押し寄せてくる。大袈裟かもしれない。でも、私は生憎、淡白な性格にあらず。
「あの、先生は―――」
遠慮がちに彼が質問を言いかけて。
「―――ごめんっ、なんでもない」
耳鳴りを呼び起こしそうな彼の叫び。踵を返して、直人君はこの場所から走り去っていってしまった。
その方向にそのまま進んでいくと、残酷な結末が待っている。でも彼は気付いていない。
べしん。
予感的中。
日常に潜む笑いの要素を的確に拾い、存分に応用していた。
でもそれすら意に介していないらしい。気にせず進んでいく。
よほど大事なことなのか。その、私にも言えない悩みは。
「………むぅ」
少しのジェラシーと憤怒。
私は直人君より少しだけ長く生きてるし、人生経験も豊富だと思う。相談くらいしてくれてもいいじゃない。
ぷーと、膨れっ面を繰り出してみる。
でもツッコミ役はいない。期待した新鋭のツッコミ役は、さきほど壁に激突して、そのままどこかへと走っていった。
虚しさの反面、寂しさが増していく。
どことなく、ふらりと歩き出してみる。
まだ陽は傾き始めたばかりで、日差しが妙に暑かった。
陽も姿を隠して、月が役目を引き継いだ頃に、僕はとある場所にやって来た。
「よ、少年」
「………どうも」
昼間会ったばかりなのに、まるで数年来の友人のように、彼女は気さくだった。
月光が照らす異質な風景。魅入られたかのように僕は歩く。
太陽が輝く時刻には集団生活を学び、夜になると会談の舞台に早変わりをする場所。
僕と彼女―――秋吉杏子はその施設のグラウンドにいた。
「ちゃんと来たね。偉い偉い」
そりゃあ、来ない方がどうかしている。
僕の手には昼間、彼女から手渡しされた紙切れが握られていた。
『夜の十時に、君の学校のグラウンドに来ること』
シンプルな要求。何故も何も無いのに、僕はここに来ている。
でも気になるものだ。先生の旧友とくれば尚更。
「それで、僕に何か用ですか?」
嫌な予感がする。あの時、先生は僕との事を隠して、「学校の生徒」と紹介した。
でも、杏子さんがそれで納得しているのなら僕を呼び出す理由がない。
なにかしら感付いたのだろう。何故に、こうもバレやすいのだ。
悲しい。ひたすらに。
「なに、はるかと付き合うからにはそれなりの覚悟がいると思ったから、呼んだのよね」
ああ、やっぱりバレている。
なんで、なんで、なんで。
こんなにも暴露されやすい関係ならいっその事世間の皆様に公表してはいかがだろうか。
でもそれだと先生の職が危なくなる。案件はあっさりと退けられた。
「覚悟、ですか」
「そ、覚悟」
この人は先生の何を知っているのだろう。
浅い付き合いだったならそんな言葉は出ない。
知っている。秋吉杏子は知っている。
円条はるかの深い部分まで知り尽くしているのだ。
「あの娘っ子はね、人を好きになったことが無いわけ」
さらりと、複雑な家庭環境を連想させる単語が飛び出す。
しかしお構いなしに秋吉杏子の円条はるかについての講義は続く。
「はるかの育った環境は知ってる? 君」
「………知りません」
聞いたことも無いことは知りようが無い。
杏子さんは目を細め、僕を睨めるように見る。
彼女の口からはそれ以上、はるか先生の育った家庭の話は出なかった。
「はるかは、いくら誰かを好きになろうとも、信頼することは無いの。よほどのことが無い限り」
夜はこれからだというのに。
絶望感が飛来してきた。いったい何の話なのか、と期待に胸弾ませてみれば。
あっさりと打ち砕かれる。砂塵よりも粉微塵になって。
信頼と愛情は違うもの。身を持って実感した今宵。
僕は先生を信じた。でも、先生は?
円条はるかの口から「好き」だの「興味がある」は聞き飽きた。
――― 一回も「信じてる」がない。
回想に意識を委ねいくら探索しようとも、存在しなかった事象は記憶には残らない。
誰かに告白された時。凛と学校を歩いた時。
先生はその場にいた。これはもう、決定事項に他ならないじゃないか―――。
「まぁ、これが覚悟ってこと。浅い付き合いを続けて消滅をするか、全身全霊をかけて信頼を勝ち取るか」
杏子さんがゆっくりと歩いてきて、僕の前に立った。
「君がどっちを選ぼうとも、後悔のないように」
嘘だ。
励ましじゃない。彼女は知っているのだ。円条はるかが人を信頼することはないということを。
無言で彼女は歩いていった。徐々に後姿が小さくなる。
言葉をかけようとしても、なんと言えばいい。潰されたように、喉が動かなかった。
「は――――」
滑稽すぎる戯言のような十数分間。しかし、僕にとっては重すぎる荷物。
同じだ。
僕と先生は同じなのだ。
信じられないことが当たり前で、慣れてしまって、そして今まで生きてきた。
ならば。
今が昔を救ってみせる。
僕が先生を助ける。
過去の傷跡に触れるのは痛い。抉られるのは想像を絶する心の痛み。
でもしないわけにはいかなくなった。やらねば僕は後悔する。
救えるならば救う。僕の絶対的方針。
できるからやる。
非力な僕は今立ち上がり、剣を取ったのだ。
頼りないかもしれないけど。
頼らざるをえないようにしてみせる。
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