家には誰もいない。TVをつけてもそんなに面白くない。
だから早くに家を出て学校に向かう。腕時計は朝の七時半を示している。
別に早く行ってもいいことは無い。でも家にいてもいいことは無い。
悪いことがあるわけでもないが、毎日がつまらない。
事勿れ主義はまっぴらごめん。でも切望するものは起きない。
あたしは革命が欲しかった。劇的に今を変える革命が。
ひたすらにまっすぐな道路はカーブも立体交差も坂道も無い。ただ伸びているだけ。
退屈なことは嫌い。紆余曲折が欲しい。
雀が飛んでいる。朝の囀りは心地よく聞こえる。
学校で聞こえる囀りは不快だけど、これはそうじゃない。
分け隔ても偏見も無く、平等に誰の耳にも届く声。
できることならどこぞの誰かさん達にも見習って欲しいものだ。
月代直人は有名人だ。
狙っているのか天然なのかは定かではない。しかし後輩、同級生問わず、絶大な人気があるのは確かである。
自分の手の届く範囲ならば敢然として、当たり前であるかのように周りの人達を助ける。
本人には自覚が無いから厄介だと、彼女はやきもきしていた。
「はぁ………」
「どうかしましたか? 円条先生」
「あ、えっと、その、な、なんでもないですよ」
まさか「恋人がこの学校の生徒で彼は誰彼構わず助けて回るので女の子にも人気があるんですどうしたらいいでしょう」などとは言えるはずも無い。
人の良さそうな初老の女性教師に軽く礼を言って、はるかは頭のもやもやを振り払うように次の授業で使う資料の整理を始めた。
今日もあたしは一人。別に寂しくは無い。
一人の方が気楽に時間を過ごせるし、誰かに気を遣う必要も無い。
煩わしいことはいつまで経っても煩わしいし、改善しようとも思わない。
鳥はいいよね。
なんて、詩人でもあるまいし。
別に会話をするくらいは支障無し。ただべったりとはしたくないだけ。
浅く広くなんて器用な真似は出来ない。深く狭くも出来ていない。
不器用だとは自分でも思うけど性分は変えられないもの。
空は広くて青くて、どこまでも続いていた。
一瞬だけ仰ぐと、スピーカーから聞き慣れた電子音が出現し、空気を震わせた。
「………」
改めて思う。みんな、よっぽど暇なんだろうなぁ、と。
今朝は下駄箱に三枚。机に突っ伏して寝ていたらいつのまにか四枚増加。そして放課後、下駄箱に二枚。
開けて内容を確認してみた。「今日の午後四時、体育館の裏で待ってます」「今日の午後四時、二年一組で待ってます」エトセトラエトセトラ。
その他大勢側の人間にこんなものを出すなんて、やはり女の子は解らない。
時刻は三時三十分。三十分もあるけども指定の時間は全て四時。分身の術が切実に欲しかった。
「へー、ふーん、そーなんだー」
ぎくりとする。
すっかり冷え切ったその声は僕の鼓膜に接着剤のようにこびり付いて離れない。
振り向いたら死ぬ。いや、死ぬよりもすごい恐怖を体験するかもしれない。
「せ、先生。こ、これはですね」
「いいのいいの。気にしないでいいよ」
笑顔でこちらを見る円条はるかは端から見れば綺麗だが、近い距離の僕から見れば、まさに魔神。目が笑ってないのだ。
セリフは安心できるけど、視線がさせてくれず。
「恋人の目の前でラブレターを熱心に見る人のことなんて私は知らないよー」
容赦ない口撃がレベル一の僕のヒットポイントを一ずつ削っていく。
それは、なんとも残酷な拷問ではないか。こちらは何も出来ずに最後の時を迎えるしかないのだから。
「………ごめんなさい」
「ん? 月代君、なにか悪いことでもしたのかな?」
怖い、怖いよ先生。言葉が優しい分、反動で恐怖が増幅していく。
ひっくり返してみれば、優しさとは恐怖そのものではないか?
僕を現実逃避へと誘う哲学は一秒で結論を出して僕を見放した。
この世には神も悪魔もお地蔵様もないのだろうか。そういえば、信じるものしか救わないってのは随分と心が狭いと思う。
現実逃避が現実逃避を呼ぶ。自分でもかなり情けない。
「さて、円条先生は明日の準備もあるしそろそろ帰ろうかなー」
夢の世界に行きかけていた僕はいきなり現実に引っ張り出された。目の前にはにこにこ顔のはるかさん。
「……以後、気をつけます」
搾り出したものはなんてことはない陳腐でありふれた言の葉だった。
「………うーん………、まぁ、許してあげます」
かなり長い間があったものの、ようやく許しが出た。ほっと安堵の息を吐く。
「それで、どうするの? 手紙」
祭りはまだ終わらないようだ。なんだか泣きたくなってくる。
「行ってきちんと断ってきます」
「できる?」
先生は僕を試しているのか。もしそうなら、試されてみようじゃないか。
「大丈夫大丈夫。僕は先生一筋だから」
「な………、つ、月代君っ!」
先生の顔が夕焼けみたいに真っ赤に火照る。この言葉には予想以上の効果があるらしい。
見事に一矢を報いた僕は、そこから体育館の裏へと向かって走った。まるで逃げるように。
後々のことなど考えてられない。十中八九煉獄だろうけど。
一寸先は闇状態の未来に辟易しつつ、月代直人は地を蹴った。
「ん……」
赤い光が瞼の裏に侵入してきた。細い視界で世界を見る。
ぱっちりと目を開くともう空が茜色に染まっていた。
どうやら昼休みから今までずっと、ここで眠っていたらしい。
春の陽気は無限の眠気を人に与えてくれる。ある意味素晴らしくて、迷惑だが。
左腕に巻いてある安物の腕時計を見ると、長針は五と六の間。短針は五の少しだけ左。
四時二十五分。授業をさぼったことによる焦燥感は生まれない。
「………んー」
授業をボイコットするのは珍しいことじゃない。気が乗らない時は、体育館裏の日当たりが良いベンチでごろごろすることにしている。
しかしもう太陽は夕陽に変わっていて、ベンチは日陰に飲み込まれていた。
「……あ」
見慣れた姿が遠くに見えた。起き上がって確認をする。
「直人」
間違いなかった。あれは月代直人だ。
「………」
ベンチから降りて、いつもの行事を見ることにした。好都合なことに向こうは気付いていない。丁度、こちらは彼から見て死角のようだ。
直人はいつにもなく神妙な顔つきだった。呼び出される時はいつもそうだけど、今日はいつにも増して真剣。
凛々しいとは思う。だから女の子は騙される。
「罪作りー……」
ぼそりと呟いて草陰を四つん這いで這っていく。
しばらく進むと、都合よく隙間がある草木に辿り着いた。しかも、結構現場から近い。これなら声も拾える。
「ごめん」
舞台は既にフィナーレを迎えていた。直人の声だけが静かに大きく響いてくる。
女子生徒は作り笑顔をした後に、走っていった。何回も見てきたけどもやはり少し気の毒である。
「はぁ………」
暗い溜息。罪悪感が残っているのだろうか。
付き合いは長いけど、他人は他人で、心の内は解る筈もない。
そろそろいつものように出ていってやろうか、と思った、その時。
「………?」
あたしはもう一つの気配に気付いた。
身を潜め、息を殺して、直人を見ている気配に。
しかし自分と決定的に違うのは、その身の隠し方。
丸見えだ。あたしから見ても直人から見ても。
しかも特筆すべきは、その人物が意外な人であること。
「確か……」
円条はるか。新任の教師。担当教科は国語。
「…………」
視線で人が殺せるとすれば、僕はもう死んでいるに違いない。
背中が精神的に痛い。
「……いるんなら出てきてください」
「え? あ、ば、ばれてたんだ?」
丸分かりなのになんて人だろう。ばれていないつもりだったのか。
「先生。丸見えですから」
「あ、あはは」
乾いた笑いで自分がいる理由を誤魔化しつつ、彼女はゆっくりと姿を現した。
円条はるかに尾行の才能はない。自分の推理には絶対に間違いはない。
「信用ないですか、僕」
「え、あ、い、いや、そういうんじゃなくて、その」
口ごもるところが正直に事実を物語っている。
「まぁ気にしないでください。ぜーんぜん怒ってませんから」
「うう。月代君が怖い」
「大丈夫大丈夫。きっちり断ったことだし。僕は怒ってないし」
「嘘だー、怒ってるじゃなーい」
ぎゃあぎゃあと二十二歳にもなって喚く女性。ある意味素晴らしい。
腹の底から笑いがこみ上げてくる。我慢を溜め込んだダムは決壊寸前。皹が一瞬にして全体へと広がった。
「………? ど、どうかしたの?」
背中を向けてふるふると震えだしたことを訝しく思ったらしく、円条先生が僕の顔を覗き見ようと身を乗り出してきた。
「い、いや。な、なんでもないです………あはは……」
駄目だ。ダムは決壊してしまったのだ。もの凄い勢いで、激流が理性を取っ払っていく。
「むー、なんだか馬鹿にされているような……」
意外に鋭い。ここで僕の心境がばれては折角の形勢が不利になってしまう。
「気にしないでください。用も済んだことだし帰りましょう」
「棒読み……」
ジト目で渋るはるか先生を引きずりつつ、僕は体育館裏を後にした。
僕たちを観察していた二つの瞳に気付くことはなかった。
「直人」
静かな声が僕を呼んだ。
自分以外誰もいないはずのこの家で僕を呼ぶのは一人だけ。
「なに、凛」
寝転び、彼女に背を向けたままで返事をする。いつもの風景だ。
ここで気付かねばならなかったのは、彼女から僕に話を振ることが皆無だということ。
変だな、と思った時に、爆弾は上空から投下された。
「円条先生との馴れ初めは?」
ごんっ。
支えていた右手が外れて、頭が景気良い音と同時に床に打ち付けられた。
強烈な痛みが側頭部に根を張り、ぐるぐると回り始める。
ブラウン管に映る若手芸人の頑張る姿が今見ていた番組のクライマックスを一層輝かせているが、僕の脳は凛の一言でその情報の一切をシャットダウンした。
なんで、なんで、なんで!?
脳から伝わってきた、口から出るはずの言葉が出ない。シナプス回路に異常が発生したのだろうか。
アドレナリンが過剰に分泌されているのか、心臓が跳ね上がっている。ノンアドレナリンは圧倒され、ただただ身を潜めるだけ。
混濁した意識を覚醒させるように、凛は言葉を続ける。
「裏でサボッてたら、直人がまた告白されてるのを見かけて」
ああ、今日のあの時。
彼女の性格に辟易しつつ、僕は思考回路を纏める。
えーと、まず下駄箱に入れられていた手紙に記された場所に赴いて、断って、それを二人に見られてて。
実に単純明快な纏め方だ。
「安心してよ、たぶん誰にも言わないから」
たぶん。それは可能性があること。
僕の未来は暗いかもしれない。先生の未来も同様に。
凛は子犬のように目を輝かせ、掴んだネタで僕で遊ぼうとしているのが分かる。
妹に遊ばれるとは、兄の威厳というものが危うい。
なんとかこの場を逃れようと必死に策を手探りで探す。
ふと、壁かけ時計が目に止まった。時刻は夜の七時三十三分。
「凛、ほら、時計」
「んー」
僕に言われて、凛が時計を見る。しかしその表情は変わることが無い。
「帰らないと、親が煩いと思うんだけど」
それは事実である。複雑な事情だが、僕の両親は他界していて、村上凛は僕を引き取った伯父夫婦の一人娘である。
しかしやはり弟の息子だろうが、他人は他人。僕は家を追い出されるような形で出て、一人暮らしを始めたわけだ。苗字が旧姓なのも、僕が厄介者であることの表れだ。
「やだ。泊まる」
即答された。
「あんな家、帰りたくない」
前に凛がぼやいていた。伯父夫婦はもう駄目らしい、と。
伯父は家に帰らず歓楽街で夜を過ごし、伯母は実家に身を寄せている。凛には、広すぎる家だけが残された。
今のご時世ではさほど珍しくは無い。けどもそれが身内に起こっているとなると、やはり大変な事態だ。
僕の都合だけで凛を帰すわけにはいかない。ようやく気付く。
「分かった。泊まっていきなよ」
そう言うと、凛の表情が若干和らいだ。長い黒髪をたなびかせ、上目遣いに僕を見上げた。
「ありがと、直人」
他人に見せることが貴重な笑顔が、そこにはあった。
早起きは三文の徳。いい言葉だ。
しかしこれは早すぎだと、僕は言いたいわけで。
テレビの時刻表示は朝の六時。朝一のニュース番組のレポーターは朝の三時には局に入るというから大変だ。
自分なんかとは比べ物にならないほどの苦行だろうが、頑張っているわけだ。
遠い世界の女性を尊敬しつつ、布団から出る。
「直人、のろのろしない」
「あーい……あふ」
凛は早朝から元気だ。制服の上からエプロンを着て、テーブルの上には朝ご飯。
「凛、朝ご飯には早過ぎないかな……?」
僕はお世辞にも寝起きが良いとはいえない。しかし凛は構わず、てきぱきと箸を並べる。
「あたし、日直だから」
授業はサボるのにこういうのは律儀なのだ。不思議でならない。
「って、僕は巻き添えってこと?」
聞かなくても答えは出ている。妹が元気なのは良いけど、それに振り回されることは兄として悲しいことである。
「どんまい、どんまい」
棒読みの応援がひしひしと、僕を元気付けようとして痛めつけてくる。
テーブルに並べられた皿に乗るサンマが湯気を立て、それが妙に遠く感じた朝だった。
静まり返った校舎の中を凛と二人で歩いていた。
日直の仕事というのは教室内の軽い掃除と花瓶の水の取替えと黒板とチョークの点検。
やはり僕も手伝わされた。別段、嫌で無かったのが救いだ。
凛の手際はかなり良く、やり慣れているのだろう。意外な一面を見ることが出来た。
十五分ほどで全ての工程は終わって、教室は小奇麗になった。
僕の一歩前を歩く凛は何も言わず、ただぼんやりと歩き続けるだけ。
沈黙は苦しくない。むしろ穏やかと理解した。
「ね、直人」
呟くように、唐突に凛は僕の名前を呼んだ。
思わず立ち止まり、二、三度瞬きをする。
「どうかした?」
「壁に寄りかかって、さりげなく左を見てみて」
どことなく凛は笑っているようにも見えた。言われたとおりにしてみると、思わず頭から床に突っ込みそうになった。
見ている。めっちゃ見ている。
どこから嗅ぎつけたのだろうか。それ以前に、視線が怖い。
「愛されてるね」
正面きって凛はそんな恥ずかしいことをさらりと言う。自分でも顔が赤くなっているのが分かった。
「ちゃんと説明しなきゃ後で大変かも」
冷静さを保っているような口調だけど、手の平に汗を握っている。
円条はるかは少し他の人よりも嫉妬しやすい。また一つ新しい発見。
「それじゃ、あたしは行くから」
「あ、うん」
凛は僕の背中を軽く叩いて、軽快に走り去っていった。
巻き込まれるのが嫌だったのだろうか。それなら僕も巻き込んで欲しくなかったかも。
「……まぁ、いいか」
昨日の教訓を生かせていないスパイもどきはまだこちらの様子を伺っている。
うーん。肩を竦めた。
とりあえず、動こうかな。
白いペンキが塗られた壁から離れて、先生が身を潜める角へと歩く。
がたたっ。
バケツが転がってきた。やはり教訓を血肉に出来ていない。
「先生。バレバレ」
思わず苦笑する。
思っても見なかった出来事だ。
「まさか直人にねー」
本当に「まさか」だ。来るはずが無い日が来たのだから。
妹として、驚かずに何をすればいいか。
「……もしかしてこれが革命?」
となると、随分唐突で、近くに現れてくれたものだ。
これはこれで面白い。自分も知らない兄の一部分を見れるかもしれないのだ。
「先生には頑張ってもらわなきゃね」
体育館裏のベンチに寝転がって空を見る。今日も晴天なり。
ただ、明日からは違う青空が見れそうだ。
頑張れ、直人。
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