ヘビー級のパンチが顔面に直撃。私はそれほどの衝撃を覚えて立ちつくした。
勇気と運と。月代直人は両方を兼ね備えているとでもいうのだろうか。
彼の手の中には鼻を鳴らす小さな生き物が目を細めていた。
一瞬の出来事が私の二十二年を粉々にしてくれた。ありがたいのかありがたくないのか。
わん。生き物が鳴き、舌を出して自分を抱える人間の顔を舐めている。
くすぐったそうにして、月代直人は悠々と道路を横断した。
手から手へと子犬は移り、年老いた女性が何回も何回も彼に頭を下げる。
照れくさそうに笑うと月代直人はその場を歩いて去っていった。
陸橋の上から見る夕陽の赤さとだぶる赤が、彼の腕から少量だが滴っていた。
どうやら瞬発力は少し足りていなかったみたいだ。
赴任して二日目。朝の朝礼が始まる時刻ではないが、私は一番乗りで職員室に堂々と入っていった。
四月とはいえ朝はまだ冷える。職員室の空気はほんの少し冷えていて、厚着をしてきてよかったとばかりに小さくガッツポーズをとった。
周りを見渡すとやはり誰もいない。ここは時限性の楽園、私だけのユートピア。
円条はるかの机は窓際にある。花瓶に挿された菜の花がお辞儀をしているので二日目ではあるがすでに記憶に刻んで忘れられなくなっている。
花がお辞儀をしている席、と思考回路はショートカットを用意した。
授業に必要な資料をほどよく詰めたスポーツバッグを机の上に置くと、どすんと力士がしこを踏んだ。マグニチュード1にも満たない地震が引き起こされる。
「………」
手当たりしだいに行動した結果ははちきれんばかりにバッグの中で氾濫している。
明日はよく目を通した上で、厳選しよう。じゃないと毎日地域限定の地震が毎朝机を揺らして、花瓶が今みたいに倒れてしまう。
せっかく体育館の物陰に生えていたのを採取してきた菜の花だ。そんな勿体無いことはできない。
今もある保証がないものは大事にしなければいけないぞ。私の祖父がよく言っていた。
ボケても繰り返し言い続けていた彼は去年帰らぬ人になった。
別段悲しかったわけじゃない。両親が別れてからは疎遠になっていたし、子供のころはよく懐いていたようだが記憶にない。
思い出せないということは、私にとってそれほど重要な事じゃなかったということだろう。
昔話をするようになったら老けた証拠と誰かが言っていた。まだ二十二歳だけども、一寸先はシワとの戦いかもしれない。
咄嗟にハンドバッグから手鏡を出して顔に老いの刻印が刻まれていないかを確かめる。
額、頬、口周り。ついでに眉間。視認したところ、老いの証拠は見当たらなかった。
ほっと一息ついて椅子に腰掛けた。ぎし、と少々背もたれが歪む。
時刻は七時四十分。そろそろ他の先生達も登校してくる。
名簿と国語の教科書を机の引き出しから出してぱらぱらと捲っていく。出席番号十番に彼は名前を連ねている。
「月代君……ね」
三年一組に所属する彼は第一印象からして目立たない存在で、その他大勢のコミュニティーの一員という感じを受ける。
しかしそれは昨日の彼の行動から一転、覆った。
私の二十二年はゼロにされ、ふりだしからサイコロを振りなおすという凄惨たる結果。
ふう、と物憂げな溜息が出てしまう。
かつっ、かつっ………。
その時、廊下を闊歩する足音が耳に侵入した。
時計を見ると時刻は八時前。となると、やはり他の教師達がやって来たのだろう。
慌てて花瓶を元に戻して、零れた水は手早くハンドタオルで拭く。
学校の始業は八時四十分から。まだ余裕がある。
職員会議のあとは朝礼。朝礼の後は朝のホームルーム。
昨日と変わらぬ外面を造りつつ、昨日とは違う思いを抱いて、私は今日も精一杯に教鞭をとる。
幼さはやはり年上の瞳には可愛いものと映るのか。
月代直人は眠そうにはしているが真面目に私の授業を聞いている。近代の中学生にしては珍しい存在だ。
彼以外の男子生徒は眠そうにはしていないものの、黒板ではなく私の一挙一動しか見ていない。
幼いころの経験から、そういう人の動きには敏感なのだ。円条はるかは。
憧れ、未発達な性欲、羨望。彼らの視線は主にそれらで成り立つ。
もう慣れたとは思っていたけども、やはり不愉快な感覚が脳内を蝕む。
右に顔の向きを変えると再び月代直人が視界に戻ってきた。彼の右手は規則良く、たまに悪く、シャープペンシルを奔らせる。
国語の時間は滞りなく過ぎていき、チャイムが終わりの時を告げた。
授業時間が五十分。そのうち、月代直人を見ていた時間は合計で三十七分。およそ八割がこれで占められる。
私はどうにかなってしまったのか。相手は七つも年下なのに。
でもただの十五歳ではないことは明白だった。少なくとも私の中のその他大勢とは大きくかけ離れているのだから。
私の二十二年間は、いかにして平穏無事に生きていくか。そういうものだった。
顔色ばかり伺う子供というのは大人にとっては何かと薄気味悪く、苛立つものだったのだろう。
私の小学校時代の思い出は両親の夫婦喧嘩で埋め尽くされ、中学校時代は施設の庭の寂しげなイチョウの樹から眺めた街の景色で埋め尽くされていた。
高校に進学すると影を底なしの沼に潜ませ、別人のように明るく振舞った。暗いよりも明るい方が、何かと自衛になるためだ。
大学に入学しても高校時代と同じように振舞うことにした。やはり私は人気者として卒業した。
空虚だったけど、安全な時間が過ぎた。満足とか不満足とか。そういう物差しではなく、私はただ静かに暮らしたかっただけ。
そのためには手を出さず出されず。広く浅く付き合う。これが基本。
だから昨日の彼の行動は私に不快感をプレゼントしてくれた。
手を出して、出されて。でも彼らは結果的に喜びを得た。
大切なものが無事に戻ってきて喜んでいる顔。それを見て表情を綻ばせる少年。
喜びを得る方法とは平穏を求めるだけではなかったのか。昨日の光景がありありと蘇り、私の思考回路は断裂していく。
月代直人は俗に言う人情タイプの可能性が高い。人に頼まれると嫌と言えない性格の可能性だ。
現代においては利用されやすく、必要が無くなったら破棄されるタイプ。
長い人生、最も損をしやすいのかもしれない。ちょっぴり不憫に思う。
いったい彼はなんなんだろう。
思えば私のこの好奇心こそがすべての始まりだったのかもしれない。
資料室の扉がゆっくりと開いて、ゆっくりとしまる。
「んしょ、と」
持っているものを持ち直すと、視界が少し拓けた。彼女は少しずつ前に進み始める。
時刻は昼休み終了七分前。彼女の手の中にはたくさんのプリント。
「……と、と」
絶妙に、それでいて微妙なバランス状態。今にも標高三十センチほどの紙の山が出来上がりそうだ。
見えることには見えるが、それは自分より上の世界だけで、下の世界は白で埋め尽くされている。
短い歩幅で、着実に任務を遂行すべく彼女は歩き出した。しかしその足取りはニトログリセリンの入ったポリタンクを揺らすことよりも危なっかしい。
円条はるかは偶然通りかかった。前方十メートル先に、助けを必要としていそうな二年生の女子がいる。
「わわっ」
ぐらりとバランスが崩れた。
手の中にあった最重要書類の束も崩れ、やはり山を形成した。標高は三十センチほど。
時刻は昼休み終了五分前。二年生の教室は現在地から歩いて五分。間に合わないことは明白だ。
「うぅ……」
半べそで散らばったプリントを拾い集める彼女を見て、円条はるかは手伝おうと思って動いた。
「大丈夫?」
少女が顔を上げた。しかしその視線の先にいるのは髪の長い女教師ではなく、三年生の男子生徒。
声も彼から出たものであった。はるかは無意識に物陰に隠れてしまった。
―――月代君がなんでここに?
疑問が浮上した。
三年生の教室はこことは正反対である。はるかは授業で使う資料を取りに来たのだが、直人がどうしてここにいるのかは不明だ。
しかも履いてるのは上履きではなく、普通のスポーツシューズだった。
「ほら、早くしないと授業が始まっちゃうよ」
「あ、は、はいっ」
てきぱきと直人は散乱したプリントを拾い上げる。やけに手際が良い。
一方、二年生の女子生徒。赤みがかった顔で彼を見つめていた。手はとろとろと動いている。
残された時間は三分。そろそろ絶望的な時間だ。
ようやく全てを拾い終わったらしい。しかし少女が持つプリントの量は半分になっていた。
半分は直人が持っていた。毒を食らわば皿まで。最後まで手伝うことにしたらしい。
(おせっかい焼きなんだね……)
しかしそれとこれとは別だ。
おせっかい焼きとここにいる理由は結びつかない。困ってる人がいたらそれを探知して助ける能力がついていたら大変な学園生活が待っていることだろう。
「それじゃ、走るよ」
「え、あ、はいっ」
先に直人が前に出た。すぐさま少女も走り出す。
すぐに二人の姿は見えなくなった。はるかは誰もいなくなった廊下に一人躍り出て、直人が向かった方向を呆然と見た。
やっぱりおせっかい焼きだなぁ。
苦笑してはるかもその場から歩いていった。
ぱらりと出席簿を広げてみる。昼休みの次は国語の授業だった。当然、月代君は遅刻してきた。
赴任してきて三日目。新しい生活は新しい考え方を提示してくれた。
月代直人の欄で視線が止まる。遅刻の箇所にチェックが入っていて、思わず笑みがこぼれた。
時間はちょうど六時間目が始まった頃。私は授業が無いのでひとり職員室でお茶を啜っていた。
さて、なんと言って彼を呼ぼうか。
「月代君、ちょっといいかな」。うーん、ありきたり。
「いいからいいから。お姉さんについておいでー」。怪しい勧誘だ。
どうもいい案が浮かばない。やはりオーソドックスに攻めるべきか。
「うーん」
制限時間は残り四十五分。善は急げ。急がば回れはこの際不法投棄である。
最初は苛立ち。次は興味。今は、断言ではないけど、「好き」だと思う。
好きという気持ちは理解できない。いや、知らない、と言った方が正しいかもしれない。
そういう育ち方はしなかった。思えば、自分はかなり悲劇の主人公しているのでは?
思考がずれてしまった。頭を振って思い出を散乱させる。
ふと月白君の顔が脳裏をよぎった。笑顔が私の領土を占拠しはじめる。
「……」
はぁぁ、と長い溜息が無意識に吐き出された。
高校の頃に今の私の状態にそっくりなクラスメイトがいて、周りの友達が、「うわ、重症だね、こりゃ」とかなんとか言っていた。
なら、私は重症ということになる。
別段肉体的損傷はない。精神状態も別にネガティブではない。
逆にどきどきしているくらいだった。なのに、これが重症らしい。
ふと机の上においてある手鏡を手にとって覗いてみた。映った人物の顔はだらしなく緩んでいる。
「……あちゃー」
残念なことに、映った人物は円条はるかに間違いなかった。はぁー、とまた溜息。
「これが好き、なのかな」
一人ごちる。答えは返ってこないけど、確信があった。
私は月代直人が好き。
時刻は授業が終わる五分前。そろそろ行くべき時間だった。
「それじゃあ、気合入れて行こっと」
一世一代のイベントだ。これははずせない。
職員室の扉を開けて、彼のクラスに向けて進軍する。
願わくば、明日から、また違う世界が見えますように。
「月代君、ちょっといいかな?」
もっと世界が変わるといいな。
背中にかかる重圧はやけに心地がいい。
「直人君の背中はなかなか広いんだねぇ」
でもさっきからマシンガントークなので、やかましい。
「先生、ちとボリュームが大きいです。大体なんで僕によっかかってるんですか」
心地はいいものの、やはり恥ずかしいものがある。しかもここは学校だ。
「誰か来たら大変じゃないですか……」
なるべく声を抑えて、それでいて声が上ずらないように。
「その時はその時ー、んー、ぬくぬくー」
こりゃ駄目だ。率直に感想が垂直に駆け抜けた。
僕は女性に抱きつかれた経験なんて数えるほどしかないので、こういうことには慣れていない。
うう、柔らかい……、耐えてくれ、若い理性。
「それにー、夜の七時だよ。誰か来るとしたら警備員の人くらいだよー」
先生の声はやけに間延びしている。顔を見ると目が糸目だった。
「先生、眠いんでしょ」
「眠くないよー」
説得力限りなくゼロ。
低血圧は低めらしい。また新しい情報をゲットした。何気に嬉しい中学三年生の春。
「ほら立って。家まで送りますから」
「んー、分かったー」
立ち上がるも彼女の足取りはグロッキーだった。これでは歩くのもままならないのではないか。
仕方ないなぁ、と思って、先生を負ぶさる。
「んー、ぬくぬくりたーんずだー」
夢の世界の扉は開いていた。寝る前に住所を聞き出さなくては、家まで送れない。
「先生、家の住所は?」
「財布の中にー、名刺があるからー、勝手に見てー、いいよー」
先生の意識はすでに夢の中でお花畑を駆け抜けているらしい。語尾が異様に伸びていた。
職員室を出て下駄箱を抜けて。外に出ると星空と満月が両手を挙げて出迎えてくれた。
ふとこの前の出来事が勝手にリプレイされた。
教室とは反対方向に飛んでいったサッカーボールを探していたら、後輩の女の子が床にプリントを散乱させていて困っていたから一緒に拾って教室に届けて。
放課後になったと思ったら先生に呼び出されて、突然の衝撃告白。
平凡だった世界を覆された感じだ。
「ま、それはそれで良かったかも」
背中で僕に張り付いている円条はるかが「うーん………」と唸った。
本当に二十二歳なのかと思う。妙に子供っぽい。
でも授業の時は別人だ。どっちが本当の彼女なのだろうか。
「とにかく、送っていこう」
適当に思考を切り上げて、僕は歩き出した。
先は長いのだ。
そんなに焦っちゃ駄目だよ、月代君。
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