僕には悩みがあります。
 え、ああ。深刻なような、深刻ではないような。
 まぁいいじゃないですかそんな些細なことは。まず僕の悩みを聴いてくださいよ。
 僕の通ってる中学校に新任の先生が来たんです。担当教科は国語だそうで。
 授業の仕方も丁寧で分かりやすく、三日も経てばそういう先生は人気者なわけで。もうみんなの憧れの的ですよ。
 あっ、ちょっと待ってくださいってば。これは前置きですよ前置き。
 実は僕もその先生に憧れていたわけです。え、過去形なのかって? はい、過去形なんです。
 そこが僕の悩みなんですよ。


















「はい?」
 青天の霹靂。突然の出来事という意味だ。
 僕の耳はどうかしてしまったのだろう。もしかして中耳炎にでもかかったか。
 となると耳鼻科に行って検診をする必要があるわけで。電話番号は控えてあっただろうか。しかしポケットをまさぐっても紙切れ一枚出てこない。
 用意周到であろうと思ったはいいが、もう遅いのではあるまいか。父さん母さん、先立つ不幸をお許しください。
「えーと、よく聞こえなかったみたいなので。もう一回言ってもらえます?」
 これで真実がはっきりする。耳鼻科へ足を踏み入れないような未来を祈った。
「私、月代君のこと好きみたい」
 ぴー、ぴー。
 鳥が鳴いていた。羽を広げた鳥は青い空を舞っていて。僕も飛び立ちたかった。
 今僕の目の前にいる人は誰だ? 四月に赴任してきたばかりの新任教師で名前は円条はるか。担当教科は国語だ。
 授業は「楽しく面白く」をモットーにしていてその言葉通りに授業をしている。三日で学校の女神様とまで呼ばれるようになった存在。
 容姿は端麗で頭脳明晰。性格は朗らかで。まさに非の付け所がない。身長は百六十三センチの僕より少しばかり低いけども。
 夢の中にでも出てきそうな理想の女性像が現実にこうしているわけだけど、その現実は想像を絶する言葉を口にしたのだ。驚かないはずはない。
 本来ならば両手を振り上げてバンザイ、とでも叫びそうだが。実際僕は固まっているわけで。
 思考回路は正常に動いていると思う。しかし現実を受け入れるには時間がかかりそうだ。
 もしかして夢ではないか。そうだ、そうに決まっている。
 思うよりも早く右手が動いて自分のほっぺを容赦なく抓った。しばらくして指を離すと、箇所がゆっくりと赤く染まる。
 痛い。
 ほっぺを巡回する痛みはやがて薄らぎ、拡散していった。
 しかしこれで夢ではないことが証明されてしまった。再び僕は硬直状態に入る。
「月代君、どうかしたの?」
 原因はきょとんとして、僕の顔を覗き込んでいる。
 ふわりといい香りがした。急激に神経系統が自我を取り戻していく。
「え、あ、その、いや、なんと言ったらいいのでしょう」
 自分でも何を言っているのか分からない。まだ言葉が不完全だ。
 すーはーすーはー、と数回の深呼吸。落ち着きが駆け足で戻ってくる。
 冷静に判断が可能な状態まで戻ったと判断するなり、やはり僕は現実を受け入れていないらしく、あらゆる可能性を検索した。
 そうするとやはり一番可能性が高そうな単語がヒットした。
「もしかしてドッキリか何かですか?」
 言った。言ってしまった。
 さてと、先生はどう出るか。そこの草むらから生徒達がカメラとパネルを持って出て来るのを僕は一日千秋の思いで待った。
 が、一瞬で打ち破られる。
「まさか」
 可能性は一言であっけなく崩壊する。
 他にありそうなものはない。検索は数十秒で終わりを迎えた。
―――え?
 この時初めて、僕は現実を真っ向から受け止めてみた。
 先生が、僕のことを、好き?
 なんで?
 当たり前の疑問だ。物事には理由がつきものであって、先生がその他大勢である僕に恋をしたっていうのはにわかには信じられない。
 惚けてはいるけどやはりドッキリの影がちらつく。
「あー、その顔は信じてないねー」
 子供みたいに屈託なく彼女は笑ってみせた。
 どきり。そんな擬音が幻聴になって漂ってきた。至近距離まで近づいてくる彼女の顔はやはり綺麗だった。一足一刀の間合いにも似たぎりぎりの距離。
「言っておくけど私は本気だよ」
 顔は笑顔だけども瞳には強い意思が宿っているように見受けられた。
 僕も円条先生が嫌いじゃあなくて、むしろ好きな部類に入ってる。だがその感情は憧れという単語が最も近いと思う。
「その、確かに僕は先生に憧れてますが……」
「なら問題無しだね」
「ありますよ!」
 先生の思考回路は自身を繋ぎ止めるネジが緩んでいるのだろうか。人の言葉は最後まで聞いて欲しいものだ。
「あのですね、憧れと好きは別物じゃないですか」
「……そう言われてみるとそうだね」
 やはり円条はるかの思考回路は理解に苦しむ。こうして一対一で話すのは初めてだが、微妙に修理が必要そうな人とは思いもしなかったわけで。
 僕が短時間の現実逃避を試みていると、円条先生が急にくすくす笑い出した。
「今、君はこう考えているわけだ。『なんで』ってね」
 射抜かれたような感触が胸を貫き、体中に根を張った。
「ぶっちゃけ、理由なんて無いに等しいんだけど」
 そしてまたもや人の頭の中をごちゃごちゃさせそうな発言。実際、僕は混乱に陥った。
「知りたい?」
 小悪魔のように彼女は微笑んだ。やられた。完全に話題は逸らされた。
 悟った時にはすでに事態は展開していて、取り返しがきかなくなっていた。僕は先生の言う理由が知りたくて仕方がない。
 この時点で僕は先生に興味を持った。いや、持ってしまった、の方がいいだろうか。
「君に興味があるから」
「…………」
 絶句。
 言葉が出てこない。開いた口が塞がらない。
 まさかそんな単純な理由だとは思いもしなかった。拍子が抜けるどころか、気も抜けそうだ。
「興味っていうのは大切な感情の一つだよ、月代君。これが無きゃ何も出来ないよ」
 そうですね。僕はとりあえず頷いた。
 話を進展させるためには頷いておくことも必要である。
 こうして人は大人になっていくのだろうか。と、哲学っぽい考えが浮かんですぐに消えた。
 今一番の僕の興味は先生の話を聞くこと。円条はるかの持論に耳を傾けつつ、次の言葉を待った。
「まぁ紆余曲折で君に興味を持ったんだけど………」
 大事な箇所は見事に省かれた。まぁ、聞いても答えてはくれないだろうが。
「月代君はどうかな?」
 いきなり話がこちらに降りかかってきた。円条先生の考えは僕の斜め四十五度ほどを走行中らしい。
「僕は………」
 言いかけてはっとなる。今、僕は何を言おうとしたのだろうか。
 想像してみてぞっとした。それは「僕も先生に興味あります」だった。
 言いたい。が、言ってしまったらとんでもないことになりそうで、とてもじゃないが言えない。
 僕の中で天使と悪魔がせめぎあい。どっちが勝つか負けるかのガチンコ勝負。
「……先生に興味があると言えばあります」
 あっさりと悪魔が勝利。自慢の旗をなびかせて悪魔は僕の潜在意識に凱旋していく。
 円条先生、拳をぐっと握って心底嬉しそうに笑っている。もしかして僕はものすごいことを言ってしまったのだろうか。
 後悔先に立たず。僕に未来を読むという現実離れしすぎた超能力は備わっていなかった。
 ああ、なんだか無意味に悲しくなってきた。後の祭りとはこのことか。
「でも僕は興味「私は『好き』。でも月代君はまだ『興味』だけみたいだね」
 遮られた前者が消えて、割り込んできた後者が力を持った。
 この人には人の心を見透かすセンサーでも備わっているのだろうか。僕の考えたことを的確に射抜いてみせている。
 適わないなぁ。ぼそりと呟いてみた。
 天敵と形容しておくべきか。よもや齢十五で巡り合うとは思わなかったというか、色恋沙汰とは無縁の存在だと思っていた自分に降りかかった事態に動転しているというか。
 先生の言葉を受け止めてみたはいいが、やはり実感が湧かない。
 徐々に疑心暗鬼に陥る。そんな僕を見て先生はまたもや心を見透かしたかのように笑った。
「まだ信じてないって顔だね」
「はぁ……」
 それじゃ、信じさせてあげるね。
 彼女の唇が動いて、そんな言葉が耳に入ってきた。
 微かに良い匂いが鼻を掠めたと思うと、口の中を甘ったるい感触が侵食していく。
 僕の瞳には瞼を下ろしている円条先生の顔が間近に写っていた。
 まだ状況が飲み込めない。ぼんやりと、昼休みに円条先生が食べていたチョコ入りの菓子パンの名前を思い出した。
 その菓子パンは僕も良く食べるものなので味もしっかりと分かるわけで。
 口の中に広がっているのは正にその味である。やはり百円と消費税の合計金額百五円でこの味はお買い得だ。
――――え?
 ここで初めて事態が飲み込めた。長い黒髪が靡いて、僕の鼻腔をくすぐる。
「………」
 言いたいけど言えない。何を言えばいいのかわからない。
 十五歳の中学三年生が新しく赴任してきた美人女教師に突然告白されてキスされる。第三者から見れば羨望の的。
 当事者である僕は先生の突飛な行動にまたもや石像状態になっていた。
 右手と左手を動かして先生の肩を掴もうとする。だけど体が思うとおりに動かない。
 叩きのめされリングに沈んだボクサーのように体が重い。立ち上がろうともがく。だけど僕は立ち上がれなかった。
 ダウン寸前でタオル投入。見事に僕は先生にTKOされた。
「どう? 信じる気になったかな?」
 先生が何か言っている。でも僕には届かない。周りの風景が雨音にすりかわって耳の中に雪崩れ込んでくる。
 ゆっくりと春の光景が白く塗りつぶされていき、侵食が始まった。
―――ああ、もう。
 信じる信じないじゃない。もう僕は駄目になっている。
 円条はるかに対して駄目になっているのだ。
 衝撃の告白を受けてから十分くらいしか経っていない筈なのに、十年はここにいたような感覚に捉われる。
 目の前にいるのは誰だ―――、そう、円条はるかだ。
 円条はるかは―――、そう、僕の―――。


















「なるほど、ね」
 円条はるかは僕の話を聴いていたのか聴いていなかったのか、判断が難しい抑揚の無い声で言った。
 開けっ放しの窓からは少量の熱気を含んだ風が流れてくる。先生はなびく自身の黒髪をさらりと掬い上げた。
「それで君はどういう結論に辿り着いたのかな?」
 先生の顔はまるで子供のように輝いていた。早く早く、とその瞳が語っている。
 そんな慌てなくても逃げませんよ。微笑んで僕は言った。
「そりゃあそうだけど……」
 なだめても止まらない。いいかげん覚悟を決めて、正念場へと足を踏み込む時が来た。
 息を吸って吐く。両の頬を張って叩く。ぱぁん、と乾いた音が僕と先生しかいない職員室に響いた。
 時計を見ると時刻は夕方の五時四十八分。野球部がバットから放つ、白球と共に空に舞う快音が耳に心地いい。
 先生が席を立つ。僕は直立姿勢のままその場に立ち尽くす。
 キーン……。また快音が轟いた。校庭を球児達が小さな白を追いかけて走っている。
「先生のこと好きになっちゃったみたいです」
「よろしい♪」
 上機嫌、といった顔で円条はるかは背伸びをした。僕との身長差はおよそ五センチほどだろうか。
 互いの顔が近づき、距離が限りなくゼロに近付いていく。
 もう快音は聞こえない。時計の針はちょうど六時へ向けてゆっくりと移動する。
 太陽に代わってお月様が顔を出す。空は暗いと明るいの中間色。
 離れたら、途端、先生に抱きしめられた。
―――これから、末永くよろしくね。
 こちらこそ、よろしく。
 二回目のキスはチョコの味ではなくレモンの味がした。そういえばさっき、先生がアイスレモンティーを口にしていたのを見たような気がする。
「やっぱり、キスはレモン味がいいねー」
 先生の観点はやはりずれている。だけど、そこもひっくるめて僕は先生に惹かれてしまった。
 冷静に考えるとやっかいな荷物を背負ってしまったのかもしれないけど。
 長い人生、錘も必要だろう。自分に言い聞かせて、先生からゆっくりと離れた。
「ありゃ、もうこんな時間かっ」
 僕が離れると同時に先生は腕時計を見て軽く仰天していた。
 円条はるかの仕草の一つ一つに僕は惹かれていく。
 言葉ではうまく言えないけど、たぶんこれが。



 一目惚れ、というやつなんだろう。

















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