お元気ですか、お父さんお母さん。こんばんわ、あなたたちの愛娘の緋澄です。受験のため勉学に励み、目指すは県下の進学校(県立だけど)。そこには鳴沢由姫先輩も通っていらっしゃいますので、いっそうの励みになっております。
 わたしは真っ暗な夜道を歩いています。電信柱に影にさささと隠れながら、前方の人を見失わないようにと隠密行動の真っ最中です。さながら江戸時代の忍者のように、抜き足、差し足、忍び足。ああ見えて先輩はたいそう勘が鋭くあらせられるので、後方十メートルのあたりと言えども冷や汗もんです。
 ああ姉さん、自分の手を汚したくないからって、妹にこんなことをさせるなんて、なんということでしょう。姉の風上にはとても置いておけません。なので、帰ったらぐちぐちと小言を言うことにします。
「……」
 とかなんとかやっているうちに、先輩に置いていかれてしまった模様です。先輩の家の位置は把握しきっているので迷う心配はないのですが、置いていかれたという事実はちょっと寂しかったりします。一方的に尾行しているやんけー、というツッコミは受け付けません。
 閑話休題、わたしは急ぐことにします。走るのは疲れるからちょっといやだけど仕方ないです。

「由姫さん、ちょいちょい」
「ん」
 屋根裏部屋に入った途端、イ−37号が手招きをしてきた。こっちにこいという意思表示だと思うので、近付いていく。距離にして二メートルくらいまで接近した。
「まだ、もうちょっと」
 それでも、更なる接近を要求してくる。仕方なく近付いていく。……しかし、これ以上近付いたらやばいのではなかろうか。黙っていればイ−37号はかなり可愛いのであるからして。加えて、薄暗い室内の灯りである月光によってそれが更に映えている。
 健康優良男子たる俺は自制がきかずに理性がピンチとなって、燃えさかるコスモフレアが炸裂。領主様に反乱するわからずやが出張ってくるかもしれない恐怖を覚えた。自分の社会的立場、そして思考回路の安全性が疑われても仕方ない。
 暗い室内、可愛い女の子、ふたりきり。魅惑的なシチュエーションだけれども、あいにくと今はそんなことを思う場面ではないのだ。
「はい、そこで止まってくださいね」
「あ、ああ。ここね、ここ」
 五十センチ手前で停止を要求された。直立不動仁王立ち、ただし直立姿勢の俺に、「どうかしたんですか?」と言いたそうなイ−37号。
「いやいや、なんでも、ない」
 実に冷静に上ずってくれるマイボイス。
 ――認めたくないものだな、若さゆえのあやまちとは。
 どこかの赤い人も言っておられたセリフが脳内で何度も再生される。しかし若さにすべてを預けてしまっては、それこそ現行犯でしょっぴかれてしまう事態を招きかねない。母と父が顔にモザイクをかけてワイドショーに緊急生出演するのは避けるべき最悪の未来。
 というか、あの人たちなら喜んで出演しそうである。愛をください、僕に。
 切り替え作業。バラバラになりかけている頭脳を再構成すべく。目を、閉じた。
 こつん。
「……」
 次の瞬間。
 おでこに何かが当たったようだ。目を開けた。
 それはまるで人形のように整ったもの。それはまるで人間じゃないように整ったもの。完成ではない完全なもの。揃いすぎた、作り物のようで。
 イ−37号は俺を凝視したまま動かない。慌てた俺が離れようとすると、
「……駄目ですね、うん。わかりません」
 あちらから離れていってくれました。
 これで吹っ飛びかけた理性は守られたわけである。なんとも嬉しい展開に、心の中で踊りまわる俺。なのに、心に沁みるこの、どこか悲しげな液体はなんだろう?
 それにしても、彼女は何がしたいのだろうか。おでことおでこをくっつけるのは熱を測る時ぐらいである。
 いや、そりゃまぁ体の一部分のワガママソルジャーが(自家熱で)半覚醒しかけましたけども、そこは残った残存兵力(理性、数学の公式が最有力説)で抑えました。俺じゃなかったら牡丹の花が落ちているところですよ?
「……由姫さん、顔が赤いですよ?」
 一旦は離れたイ−37号が、再び接近してくる。近付いてくる完全、その他諸々。それは俺をひどく駄目にする気がするので、なんでもない、と手を振った。
 若いって、辛いね。
 うん、そうだね。
 誰かの声が俺のすべてを代弁したので、頷いておいた。心の中で。おんもにはそういうことは出さずに。
「そ、それで、本当のことって? 今のと関係あるのか?」
 このままだと暴れん坊将軍が覚醒しそうなので、本題をふっかけてみた。すると、イ−37号が食いつく。
「めちゃんこ関係ありますよ」
 死語だった。でもつっこんでるほど余裕はないわけで。……精神的にも、肉体的にも。後者は気合で。前者も気合で。気合は大事である。
「それで、いきなり言いますけど」
 イ−37号の顔が真摯になる。浅はかさを射抜くような瞳で、俺の心を貫いた。背骨を素手で正されるような感覚。でも、嫌悪は不思議とない。
 それは、かつて。昔に。
「――あ」
 なんだか、嫌な予感がしたのだ。でも具体的に表せるほどに、形にはなっていなくて。俺は聞かずに流そうとも思ったけど、五感は絶好調フル稼働。健康優良男子である自分をちょっとだけ呪った。
 目前の彼女は、そんな俺の思いも知ることはなく、おかまいなしといった感じで続ける。
 次の瞬間、俺は凍る。
「わたしは、あなたの知らないあなたを知っています」
 心の次は、不鮮明な記憶が穿たれることになる。たまらず、その場で腰から力が霧散していった。冷たい木張りの床に座り込んだ。
 ああ、だから、嫌な予感がしたのだ。でも、その記憶は嫌になるようなものではなく、楽しい記憶だったはずだ。でも思い出せないということは、何かしらがあったのだろう。
 人は、楽しい記憶はおぼろげながらも忘れはしないのだから。
 ――あの日の女の子とは、最後に笑ってさよならしたはずなのだ。
 ……なんでか、こめかみの辺りが疼いている。痛みはまったくないけども、気持ちは良くない。他人の膝に閉じた拳を犬のお手みたいに乗せて、いきなり押し付けて開いてみせるような。そんなむず痒さがあった。
 なにか致命的なことを忘れている気がする――。
 薄暗い室内、月光、そして――。
「あなたは不透明すぎます。覗けないのに、操られる。……とても、アンバランスです」
 イ−37号が淡々と傷口を抉り始めた。やめてくれと叫ぼうとすると、あれ、という疑問が頭の中ではじき出されて、絶叫は生まれる前に消え去った。俺は、もう動けないことを知った。
 抵抗は? 無意味。
 服従は? 無意味。
 諦観は? 無意味。
 どれも、無意味。ただ流され、事の顛末を見るしかない。その中心で縛られているのは、他でもない鳴沢由姫だ。つまり、どうしようもない。講釈を垂れられるということは、頭は通常どおりに営業中となる。でもそれに意味はないわけである。
 なぜか? 動けないから。
 実にシンプルで、難しい。
 イ−37号の白い手が、俺の頬をゆっくりと撫でまわす。まるで獲物をじっくりと吟味するように。実際、獲物なのかはわからない。でも、言いようのないおぞましさは確かにあった。ゆっくりと離れていく純白。俺は動けず、されるがままになっていた。
「危害を与えるつもりはこれっぽっちもありません。これは本当です」
 思考がその言葉の意味を飲み込み、理解する。じゃあ、なんで俺を動けなくしたのか。そう訊ねたかったが、声は出ないとさきほど実証されたばかりである。至極残念。
「あなたは覚えていないはずですが、あなたの体は覚えているはずです」
 その言葉がどのような意味合いを持つのか、わからない。わからないことだらけだ。俺が、なにを知っているというのだろうか。覚えていないことを教えてもらうなんてことは矛盾だ。覚えていないということは、経験したことがないということなのだから。
 ――いや、本当に、そうなのか?
 俺の声で、別の誰かがそう言った。だからやめてくれって言ったのに。穿り返されたり、抉られたりするのはひどく痛いんだ。
 痛いのは嫌だ。
 誰だって嫌だ。
「あなたは知っているはずなんです、「彼女」の笑顔を」
――ありがとう。やっと笑えた。
「――ぁ」
 イ−37号の口から飛び出た言葉を聞いた途端、封じられていたものが解放された。
「わたしの知らない「彼女」をあなたは、知っているはずなんです……!」
 必死さが、ひしひしと俺を締め付けた。笑顔とはひどくかけ離れたもの。今、目の前にいる女の子は、笑顔で取り繕った紛い物――人形ではなく。たったひとつの真実。
 これが、本当の、彼女なのだ。
「そういえば……」
「え――」
 俺がそう言うと、女の子は間抜けな顔になった。ものを言うはずのない俺が、喋ったから。
「あの女の子の名前、思い出した」
 立ち上がった。頭を二、三度振った。つま先で床を叩いた。俺は、動けるようになる。
「イサナって言ってた。それが、あの子の名前だった」

 開けばあとは簡単なものである。そこから少しずつ出てくるものを、うまく網で掬えばいいのだ。その作業はものすごく簡単だった。
「いや、あの、ほら、そのですね? 何もしないでストレートに訊ねても何も得られないと思いまして。だったら由姫さんの深層意識に訊けばいいんじゃないかなって、あ、あははー」
 渇いた笑い声をいつもと変わらぬ笑顔で放つ目の前の少女を、こちらも極上の笑顔で、でも言葉の矛でちくちくと刺す。
「いや、もうそれはいいから。俺だって完全に思い出したわけじゃないし、お前の知ってることを聞きたいわけ。反省してるならとっとと話しやがれコノヤロー」
 なるべく笑顔で、でも言葉は辛辣に。これくらいで済むのだから、激安のチラシが配られることは間違いなし。どこにかはわからない。
 よくよく見てみると、イ−37号――それが本当の名前かどうかはわからないが、名前が判らないのでこう呼ぶしかない――の顔はどことなくイサナに似ている。と言うより、成長したらこうなるといったような容姿だ。なんで今まで気付けなかったのか、自分自身にある不甲斐なさを認めざるをえない。
 ……いや、気付けなかったんじゃなくて、気付かなかったんだと思う。証拠に、こんな手段でしか引っ張りあげることができなかった。
 こうでもされなければ、俺は、きっかけすらも見逃してしまったに違いないのだから。
「とりあえず、だ。お前の名前、教えやがれ」
「うっ。ゆ、由姫さんって、かわいい顔してけっこうきついですね」
 当然である。かわいいかどうかは別として。
 とりあえず、笑顔で睨んだ。
「――いさな、ふたば。わたしの名前です」
 幾ばくか時間がすぎて、沈黙が重くなってきた矢先。確かに、そう聞こえた。
「全部ひらがなで、いさなふたば、です。いさなのふたつめという意味で、ふたば」
「……? なんだ、その、ふたつめって」
 知らない意味について、自動的に聞き返していた。
「そのまんまですよ。わたしは、二番目。イサナという型のふたつめです」
「え――」
 彼女は、いったい何を言ったのか?
 わからない、わからない。理解不能、理解不能。警笛が鳴る、警笛が鳴る。
 ――わたしね、本当の――
 本当に、わからないのか。誰かが、俺の声でまた口を出してきた。頭が痛くなってくるのは迷惑な話だ。
 だから、黙っててくれ。
 そうすると、引っ込んでくれた。そんな気がした。頭痛も消失していく。こめかみにでこぴんをすると、痛かった。
「あ、ロボじゃないですよ?」
「そんなことはわかってるから今のここの空気を読めお天気娘」
 厳粛な雰囲気が一気に覆されそうになった。たはは、とばつが悪そうに笑う。
 穏やかな笑顔、といえば聞こえはいい。でもそこにはなにもない。主張も、欲も、感情すらない。ただ、覆うだけの仮面がそこにはあった。手に取るように、俺には理解できる。それは、かつて俺も見たものとひどく似ていた。
 それは、彼女が言った「彼女の笑顔」とは程遠き理想の果て。瞬間的に貼り付けるガラス細工は強いようで脆い。一度崩れると、もう歯止めはきかない。それでも、彼女はあえてかぶり続ける。「彼女」は放棄したというのに。
「わたしたち、本当の人間って呼ばれちゃいけない存在なんですよ」
 倣うかのごとく、あっさりと手放した。

 お父さんお母さん、相も変わらずご壮健でいらっしゃいますでしょうか。緋澄です。
 現在わたしは鳴沢家に最寄の電信柱で諜報活動をしています。こんな時、お猿が羨ましいとか思うのは仕方がないことだけど、考えても改善されることはないので、思考を切り替えて集中することにしました。
 運動神経が半端にいいと、こんなこともさせられるわけでありまして。十四歳の身でありながら、全身全霊で我が姉を呪いたいのであります。願わくば、丑三つ時に。
 でもちょっとだけ手を緩めてあげようと思いました。……わたしだって、先輩の私生活にはかなり興味をそそられるわけでありまして、これは仕方がないことと思っております。開き直ってるだけじゃん、という鋭くも鮮やかなつっこみは受け付けません。たとえ歴戦を勝ち抜いてきた一流芸人といえども。
 それはさておき、監視の気を緩めるわけにはいきません。お小遣いを溜めて買ったのはいいものの、使い道はどうしよう、と一時の感情に流されることは良くないという、(精神的な)痛さを持って反面教師の存在を教えてくれた双眼鏡の双眸が光ります。ありがとう、若さゆえのあやまち。
 製作者の意図が疑われるこの双眼鏡。夜でもばっちり見えちゃう暗視機能つき。お父さんが製作を請け負う友人にオーダーメイドで作らせたものの進化系らしいです。その三日後に、お父さんがお母さんに折檻されていましたが、そういう「おとなのじじょう」はわたしにはよくわかりません。わたしはいたいけな十四歳ですので。翌日顔をアザで埋め尽くされ、全身に包帯を巻いた謎の怪人なんて見ませんでした。お母さんが妙に清々しい顔をしていたのが印象に強いです。
「……おおっ!?」
 監視をしばらくしていたら、思わず、はしたなく身を乗り出しちゃいました。だって、レンズの先、窓越しの世界には先輩がいらっしゃるのですから、仕方ないのです。
 ふたつのレンズで見る先輩は、何かあったのでしょうか。見惚れるほどめっちゃ笑顔です。見ていると、心なしか頭がぽーっとしてきて、心臓もばっくんばっくん、そりゃあもうすごいことに。これが惚れた弱みというものでしょうか。なんだか違う気もしますが。
 叶うことなら今すぐ乗り込んでいって姉さんを出し抜きたいけども、ここは我慢の子。あとが怖いというのが理由なのはわたしだけの秘密。
 先輩の前を、何かが通りました。それが何であるのか、よくわかりませんけども。
「いったい、何をしてるんですかねー、先輩――、は、……え――」
 ようやくそれが何なのか、わたしは知る。
 落下する感覚。実際には落ちてはいないけども、その感覚が確かにあった。でも、双眼鏡は手から離れた。二秒後、渇いた破壊音が下から聞こえてきた。でもそれは些細なこと。そう、些細。
「誰……」
 双眼鏡は失われたけど、わたしの両目にははっきりと焼きついてしまいました。
 先輩の隣にいる女の人の姿が、鮮明に。

 たくさんのフラスコと少数のビーカーと試験管と、用途がわからない数多のチューブがある。増えていく透明な液体と、カラーリングされた液体。無機質差を演出する機械の群れ。室内は、異常なプレッシャーに充ちていた。
 部屋の中心にふたりの女の子が床に直に座っている。顔を見合わせていた。その表情は氷のように凍てついていて、他を寄せつけない圧力をまとっている。
 でも、彼女たちは互いに互いを必要としていたのだ。まったく同じ存在。
 片方はイサナ。片方はふたば。それがふたりの名前。
 与えられた世界は狭い部屋がひとつだけで、でもそれがふたりのすべて。ちいさな女の子には、その部屋は広かったから。ぐるぐる回ったり、じゃんけんをしたりして、飽きるまで遊んだ。絵本はない。
 ある日のこと。まぶしい。女の子はふたりともそう思った。
 何が起きたのかわからないまま、ふたりは世界から追放された。
 最初にふたりは、こわいと思った。奇怪な形をしたものがたくさんあった。周囲を取り囲むものは、自分と同じ形をしていたので、こわいとは思わなかった。

 それから「まぶしい」と「くらい」が何回も入れ替わって、「世界」に似ている部屋にふたりはいた。違う箇所はひとつだけ。ふたりと同じ形をしたものがいる。それは自分たちと同じ言葉を喋ったので、同じものなんだと思った。
「わたしが、あなたたちの先生だからね」
 ふたりは顔を見合わせると、まず先生という言葉の意味から訊ねた。
 さらにふたつがたくさん入れ替わって、ふたりはたくさんのことを覚えた。本当の世界、言葉、感情、わたあめとねりあめの甘さ。コーラガムの当たりが出たことはない。「まぶしい」は朝で、「くらい」は夜。なにかおかしくて、でもふたりは笑わなかった。
 イサナは学校に行く。ふたばは家で留守番。
 ふたばは学校に行く。イサナは家で留守番。
 先生はふたりを交互に学校へと通わせた。目的は今も判らない。でも困ることはほとんどなかった。ひとりが家にいるもうひとりに、一日のことを話して、次の日はその逆。ふたりは、スポンジのように物覚えが良かった。
 そして雨が降ったある日、イサナがずぶ濡れになって帰ってきた。先生はたいそう驚きつつも全身をタオルで拭いてやり、何があったのかを訊ねた。イサナは、男の子に会った、こう答えた。それだけで、あとは何も言わなかった。先生も問い詰めはせず、そう、と抑揚のない口調で返した。でも、イサナの表情にある違和感に気付き、それはきっといいことだったんだろうと思うことにした。

 セミが鳴く夏のある日、イサナの姿が朝から見当たらなかった。ふたばは先生に、隣で寝ていたはずのイサナがいない、と伝えた。ふたばでは届かないダッシュボードの上に、書置きがあった。「ちょっと出かけてきます」と記してあった。
 自分を見上げている表情のないふたばに、先生は優しく微笑んだ。心配はいらないわ、先生はふたばの頭を撫でながら言った。ふたばは、先生は何をしているんだろうと考えていた。
 夕方になって、イサナは家に帰ってきた。リビングに入ってきた彼女を見て、先生はものすごく愕いた。
 イサナが不器用ながらも笑っていたのだ。それも、本当に面白おかしそうに。今まで見せなかったイサナのそれは、とても眩しいものにふたりには見えた。ふたばは、朝でもないのにどうしたんだろう、と思った。先生は事実を受け入れて、イサナの頭を撫でた。
 何があったの? と先生は訊いた。イサナは、男の子に会った、と嬉しそうに言った。

 イサナとふたばは同じ日に同じようにして生まれた、同じ形と構造を持ったふたり。でも、まったく別の道を歩むことになる。

「先生とは三年前に別れました。最後まで名前は教えてもらえませんでしたけど」
 でも、それで良かったと思うことにしてるんです。ふたばは無表情、抑揚のない声を武装にし、そう言った。その顔は見れば見るほど、イサナ本人がここにいるのだと思えてくる。まるでイサナの言葉を、ふたばが代弁しているような感覚すらあった。
「んじゃ、お前はイサナになにがあったのかを調べるために?」
「端的に言うとそうです。わたしは、イサナのことを知りたい」
 それはふたばの懇願だった。でも、俺には答えることも、応えることも出来ないのが現状である。
 俺が覚えているのは、イサナの名前と笑顔、そしてさよならという言葉だけ。ふたばが抱く期待には応えられない。他人事ではあるものの、まるで自分のことのように感じるのは、なんでだろうか。
 俺は、俺には。そんなたいそうな過去はない。あるとするなら、十年くらい前の夏休み、イサナという名前の女の子と一緒に遊んだという思い出だけだ。その風景は所々に霞がかかっているものの、間違いではない。あの毎日は確かに俺の中に甦っている。
「鳴沢由姫さん。お願いします、イサナに何があったのか……、教えてください」
 ふたばが頭を下げた。俺だってできることなら教えてやりたいが、このポンコツ頭はそれを思い出せないでいる。
 歯痒く、自分の不甲斐なさに腹が立つ。
「……実は、俺も覚えてないんだよ。イサナの名前と笑顔、そしてさよならっていう言葉だけしかわからない」
「え……」
 ふたばが顔をあげて、目を見開いた。驚愕の色に彩られている。でも、俺の言葉は偽りのない真実であり、避けては通れない言葉。かまわず、続けた。
「どうも記憶が抜け落ちてるみたいなんだ。楽しかったことは思い出せるのが人間なのにな」
 ふたばは何も言わずに、何か考え事をしているようだった。声をかけようとしたら、ふたばはいつもと同じように、しかし凶悪なまでのプレッシャーをまとって笑った。嫌な予感、いや、悪寒全開。
「さて、ここでひとつの提案をします」
「……」
 不自然なほどに明るい彼女の言葉。それは、夕暮れの教室で見たあの時とだぶる。ひどく、背筋が冷たく感じる。
「実は、まだ言ってなかったことがあるんですよ」
 不敵な笑み。俺に、正体不明の威圧感が圧し掛かってきた。それは未知の体験。未知の産物。未知の女の子。
「わたしとイサナって、普通とはちょっと……と言うか、かなり違うんです」
「違う、と言うと?」
 甦る屋根裏部屋。覗けない。操る。それは、予想し、組み立てるには充分な言葉たち。聞き返さなくても、大体は判別がついた。でも、なんとなく聞き返していた。
「たぶん、イサナがあなたと一緒にいたのは、あなたがわからなかったから」
「……なんだ、それ」
「簡単ですよ。あなたは、どういう仕組みなのかは判りませんが、わたしたちの力を一部だけ跳ね返しているんですよ」
 すらりと、ふたばは言った。力、と言った。跳ね返していると言った。力を跳ね返していると言った。それが何を意味するかは、もう訊ねるまでもなくわかる。
「わたしとイサナは、同じ日に同じように生まれた、同じ形と構造を持つふたり。そして」
 神経を直接撫でられる鋭敏な感覚。その先の言葉はもう言わなくてもわかる。まさか、そんなことが本当にあるとは思っていなかった。でも、目の前にそれがいて。
「意識して、人のすべてを知ることが出来るふたり」
 躊躇いもなく言った。