それは昔のお話。世界の片隅で起こった、なんの変哲もない出来事。男の子と女の子が出会ったお話。

 男の子はごくごく普通の男の子。学校から帰ればランドセルを放り投げて、公園へと自転車を大急ぎで走らせます。
 女の子は冷めた眼をした女の子。学校に行っても、周りが何かで笑っても、ひとりだけ笑うことが全くありません。

 雨の日は紫陽花。花壇に咲く、無数の紫陽花。男の子は雨粒を傘で遮りながら、しゃがんで、じっと紫陽花を見ていました。と、そこに笑わない女の子が、傘も差さずに反対側の歩道から、道路を横断するように歩いてきました。幸いにも車は通らず、女の子は無事に反対側に辿り着きました。そして何を思ったのか、男の子の方へ、ゆっくりと歩いていきます。
 気付かずに、男の子は笑顔を浮かべながら紫陽花を見ています。女の子はついに男の子の隣に立ちました。
「ねえ」
 声をかける女の子。男の子はやっと、女の子の存在に気がつきました。顔を上げると、ずぶ濡れになった女の子が自分を見ています。男の子はびっくりしました。
「何が楽しいの?」
 開口一番、そう言いました。男の子はそれに答えるよりも早く立ち上がって、女の子を傘の中に入れました。女の子は、見るからに当惑しました。
「風邪引いちゃうよ。今が六月だって言っても」
 男の子は笑っているけど、ちょっと困ったような口調で言いました。先ほどの質問に答えあぐねているのでしょうか。女の子は、いまだに男の子を見ています。まるで、理解できないものを見るような眼で、じっと見ています。
「あと、何が楽しいかって」
 迷いもなく、男の子は言いました。
「実はね、これ俺が植えた紫陽花なんだ。立派に咲いてるでしょ? だからかな、嬉しいんだ」
 その言葉を聞いた途端、女の子は翳りを帯びた顔になって、俯きました。
「な、なんか変なこと言ったかな、俺」
 男の子は女の子の様子を見て、自分の発言になにか失敗があったのでは、と原因を探し始めました。でも、それは男の子の杞憂で終わります。
「違うの、わからないの」
「わからないって?」
 女の子は顔を上げました。雨に濡れた瞳に、大粒の涙を溜めながら。そして、そのまま走っていってしまいました。男の子は不意を突かれるような形で、それを止めることも出来ませんでした。
 遠くなっていく背中を、男の子はただただぼーっと見ていました。

 晴れの日は向日葵。セミの声と一緒に、空を突く向日葵。女の子はたくさんの向日葵に囲まれていました。でも、相変わらずその顔は無表情としか喩えようがありません。
「……」
 でも、ちょっとだけ違うようです。女の子は何を考えて、しようとしているのか。顔をむずむずさせたり、目を閉じてみたりしています。
「やっぱり駄目、できないや……」
 溜息を吐く女の子の顔は、「どうしよう」と言いたげです。でも、不思議と困ったような感じはしませんでした。どこか、その表情は柔らかい感銘を受けます。
 もう、泣くことはないのかもしれません。向日葵を見る女の子の瞳が、断続的に瞬きます。
「嬉しいってなんだったっけ……」
 腕を組んで女の子は考えます。でも、すぐに行き止まり。女の子はさて、困りました。
 まだあの紫陽花はあったかな。女の子はふと、雨の日の紫陽花を思い出しました。そして、そこにいた笑っていた男の子のことを。向日葵の太い茎を撫でて、女の子は唸りはじめました。
「きめた」
 向日葵から離れると、女の子は自分の身長よりも若干高い背丈の向日葵たちを掻き分けて、走りはじめました。
 季節は夏、お日様がぎらぎらと輝く夏。女の子の姿は、向日葵畑のどこにも見当たりません。風が吹いて、その痕跡すらも消すように走っていきました。

 女の子は雨の花壇に辿り着きました。日照りのせいか、そこにはもう紫陽花はありませんでした。その代わりなのか、男の子がひとり、花壇の傍らに立ち尽くしていました。
「ねえ」
 女の子はあの日のように声をかけました。唯一違うところは、その声が少しだけ明るくなっているところでしょうか。
 男の子は自分が呼ばれていることに気付いて、顔を向けます。見覚えがある顔がこちらを見ていました。それは、雨の日にふらっとやって来て、だだだっと去っていった女の子です。男の子は以来女の子が気になっていたらしく、少しだけ混乱しました。女の子は男の子の隣まで歩いていくと、頭半分だけ高い男の子を見上げました。
「なにしてるの?」
 直後に、女の子は男の子に向かってそう訊ねました。男の子は一分ほど石像になってから、「なにしてるんだろうね」と返しました。五秒後に、「よくわからないよ」と続けました。
「わからないから考えてるの?」
「うん」
 ふうん、と女の子は生返事をしました。すー、はー、と暑苦しそうに、女の子と男の子は深呼吸をします。今は夏なので、セミの声もオートリピートのようです。みーんみんみんみん。
「紫陽花が枯れちゃったんだ」
「うん」
 おもむろに、男の子がそう言いました。女の子は相槌を打つだけです。男の子は続けます。
「あいちゃく、って、お父さんとお母さんは言ってたけど」
 よくわからないや。だから、意味を一生懸命考えてるんだけど、ぜんぜんわからないんだよ。男の子は困ったように笑いました。女の子はどうしたらいいのか考えましたが、それを面に出すことはしませんでした。
 ふたり揃ってどれくらいそうしていたのか、今度は女の子が喋りはじめました。
「わたし、笑えないんだ」
「え?」
 気が抜けたような返事を、男の子は返します。が、女の子は構わずに続けました。
「生まれてから、赤ちゃんの時も、小学校に入ってからも。一回も笑ったことがないの」
 自嘲気味に女の子は言います。男の子は何も言いません。
「ね」
 女の子が無表情のままで、男の顔を見合げました。男の子は、その吸い込まれるような綺麗な瞳に釘付けになりました。
「君の名前、教えてくれる?」
「あ、うん」
 男の子ははっとなって、自分の名前を女の子に言いました。
「俺、なるさわゆうき。鳥が「鳴」くに軽井沢の「沢」、自由の「由」、お姫様の「姫」。それで、鳴沢由姫」
「姫? 女の子みたいだね」
「よく言われるんだけど、それ嫌いなんだ。俺、男の子なんだし」
 できればやめてくれると助かるんだけど。男の子は懇願しました。女の子は、表情ひとつ変えずに頷きます。
「それじゃあ、君の名前は? なんて言うの?」
 今度は自分の番、とでも言いたそうに、男の子は女の子に名前を訊ねました。
「わたしは―――」

 午後九時。由姫とイ−37号の約束の時間まで残り二時間になった。
 立派に装飾されたリビングに、王様が使うとしか思えない真っ赤な真っ赤な赤絨毯。そして趣味を疑われるような動物の剥製が数点、壁に飾りつけてある。はっきり言うことが許されるなら、十人中十人、百人中百人。まさに百発百中で、悪趣味だと罵ることは必須である。でもそれはしてはいけない、というか、怖くてできない。なぜなら、ここは陽角市の市議会の頂点に君臨する市長の家なのだから。
「……」
 何も写さない鹿の両目が自分を見ているような気がして、由姫はキリキリと胃を軋ませる。溜息を吐くことすら憚られそうな雰囲気だ。
「悪いな由姫少年。俺も―――いやいや、わたしも注意はしているんだけども」
 スーツ姿の中年男性が、ソファーでガチゴチに固まっている由姫に柔らかな言葉を言った。陽角市の長、陽角陽一は今年で四十になる。にも拘らず、その頭髪は減少することなく、若作りを疑われても仕方がないほどに茂っている。雰囲気も荘厳そうな見かけに反比例して、随分と砕けている。
「ところで、君の両親―――にっくき直人……はどうでもいいとして。麗しきはるかさんは元気かね」
「すっげーわかりやすっ! ……まぁ、今はほら、外国ですからなんとも。連絡もないですし。薄情な親ですよ」
「ほう、ならばはるかさんと二人で俺のところに「行きません」
 ち、と舌を打つ陽角市市長。こんな市長で本当に陽角市はやっていけるのだろうか。由姫は悩んだ。
「よし、じゃあ今なら蒼と緋澄ももれなくついてくるぞ」
「うわー、人権も何もかも無視した特典だー。本人の意見をまるっきり聞かない駄目親父だー」
「まあ待て。何を隠そう蒼と緋澄は由姫少年のこひでぶっ!」
 突如として真横へと倒れこむ陽一。何が起こったのか、由姫はわけがわからなかった。しかし、陽一の後ろに仁王立ちしているひとりの異性と、慌てる後輩の姿を見て、その理由を察知することができた。由姫が数秒前の一瞬について何も言わないのは、人間が持つ本能のなせる業なのかもしれない。生きてるって素晴らしい、由姫はそう思って足を絡めとる現実から逃れることにした。
「あれあれ、どうかしたのお父さん。そんなところで寝るなんて、酔いがまわったのかしら?」
「ね、姉さん。今のはちょっとまずい角度で入ったような……」
「先手必勝、殺られる前に殺れ。これぐらいしないと私たちに勝ちはないわ」
「実の父親にも相変わらず容赦ないっスね、蒼さん」
「ん、あー。まぁね。乙女の秘密をバラそうものならこうなることは序の口ってことよ」
「これで序の口ですか。というか、もう乙女とかいう年じゃ「んん?」なんでもありません」
「弱っ、先輩弱っ」
 あっけなく降参する由姫の前に立つひとりの女性の名は、陽角蒼。陽角緋澄の姉である。セミロングの茶色がかったさらさらの髪を揺らし、身長百七十五センチの由姫と大して変わらない身の丈を持つ。その体躯が幸いしてなのかどうかはわからないが、格闘技全般に通じ、空手に関しては県大会で優勝を掻っ攫うくらいである。今年で、齢二十二歳になる。
「んで、由姫は今日は何用? 寄ったにしては家同士が遠すぎるけど」
「あ、いや、緋澄に呼ばれまして。夕食でもどうでしょうかと。十一時までは家に帰りたくない身分でして、はい」
「あれ、今両親は海外なんでしょ? 独り暮らしを満喫できるって由姫、喜んでたじゃない? なに、独りが寂しいから人肌が恋しくなったわけ? しょうがないなー、ここはおねーさまが直々に暖めて「いやいやいや、そういうわけじゃないですので心配ご無用で御座るでございますわ!」
 にじり寄ってくる蒼に恐怖を感じたのか、語尾が微妙どころか判別不能に近付いていく由姫。ち、と父親そっくりの舌打ちをして、蒼は由姫から離れていった。緋澄は部屋の真ん中で、ただおろおろしている。
「……なんだ、おかしいと思ったら。お母さんまた増やしちゃったのか。あーあ、可哀想に」
 鹿の剥製に近付いていって、蒼はその頭と首周りを撫でた。その手つきは際限なく優しい。
 陽角家主婦、陽角加奈。趣味、狩りアンド剥製作り。傍から見れば綺麗な奥さんだろうに、趣味でそれが相殺されてしまっている。本人は周りの言うことを一切聞かずに、着々と剥製を増やしつつある。許可はきちんととってあるとは言え、なんだか居心地が悪くなっていく我が家を憂う、長女と次女と大黒柱であった。今は町内会主催の温泉旅行にお呼ばれしていて、陽角家にその姿はない。それが幸いなのか、違うのかはわからない。まず、由姫が来るとすごく喜ぶ。次に、思いつく限り持成しをする。最後に、剥製をお土産にと押し付ける。それが娘たちの将来を思ってのことか、個人の趣味かどうかは判別しがたい。わかるのは、後者ひとつは絶対に趣味ということだけである。
「あーあ、趣味というより習慣になってきちゃってるのかもしれないわねー、お母さん。どうしたものかしら」
 蒼が憂鬱げに、溜息を吐いた。

 時計から、鳩が鳴きながら飛び出した。午後十時。陽角家から鳴沢家までは徒歩で四十分ほどかかってしまうので、そろそろお暇する旨を言うべく、由姫はソファーから立ちあがった。
「そろそろ失礼します。十一時も近いので」
「ん、そうか。またいつでも来たまえよ由姫少年。蒼も緋澄も少年を心待ちにあべしっ」
 再び倒れる陽角陽一氏。前回同様に、後ろに控えるのは陽角蒼である。でも由姫は、つっこむことは虎穴にいらずんば虎子を得ずではなく虎穴にいらずんば虎子がおらず、後ろからとって食われてさようならであることを理解していたので、視界から意図的に陽一を外していった。どことなく哀愁を感じさせる倒れた陽一に誰も構うことなく、一同は玄関へと向かった。
「んじゃ、機会があればまた。緋澄、勉強頑張れよ」
「は、はいっ! そりゃあもうはちきれんばかりに!」
 理解するのに数秒を要する返事を聞いてから、立ち上がって、由姫は扉を開いた。そして一礼して外へと一歩を踏み出す。何事も無く、由姫は外に出て、そしてドアはゆっくりと閉まっていった。
「さて」
 呟いて、由姫は腕時計のスイッチを押して光らせる。午後十時七分。若干の余裕があるけども、自分には余裕がない。少なくとも今日だけは、余裕なんてものは存在してはいけない。由姫は両頬を叩いてから、走り出した。

 暗い室内で、イ−37号は目蓋を閉じていた。月を仰ぐように顔を上げていて、頭の中の一切合切を砕き捨てた。小さな唇からふー、と小さな息を吐くと、今度はゆっくりと眼を開いた。
 静かに、屋根裏部屋の入り口が開いた。部屋の床が開き、そこから
「……よ」
 由姫が顔を出した。きっかり午後十一時である。
「はい、こんばんわですよ」
 月光に濡れる室内では、イ−37号が笑顔で由姫を待っていた。