吊るし責め、ムチ打ち、石抱き、市中引き回し、打ち首獄門。江戸時代の拷問は地味なくせに、肉体的にも精神的にもかなり痛そうである。拷問なんだからそれは当たり前である。ちっとも痛くない拷問なんてものは存在を探すのが難しいというか存在しないのではないだろうか。拷問を受けるいわれは自分にはない、ないのだが、由姫は悩んでいた。現在進行形で頭痛を催しながらも、今の状況を形作った原因を探ることにした。
「はいはい、正体不明の狂言ばっかり吐いてる邪魔猫さんはどっか行ってくださいね。先輩はわたしこそを必要としているんですから」
「お気になさらずに。由姫さんのお世話を引き受けたのはこの、わ・た・し、ですから。あなたの方こそ、荷物を纏めてお引き取りくださってけっこうですよ? というかそうしてください」
 いや、そりゃまあ頼んだけど、と言いそうになって押し留めた。ここで余計な茶々を入れると更に騒ぎが拡大しそうなのでやめようと判断したのだ。周りの状況と反比例して、賢明な判断と由姫は自分で自分を誉める。しかし、誉めても事態は改善する兆しすら見せない。むしろ徐々に悪化していっているような気もする。
 鳴沢家のリビングでは、同居しはじめて二ヶ月になるイ−37号と、鳴沢由姫の後輩にあたる少女―――陽角緋澄がお互いを睨みつけて、精神的な重力場を形成している。動けなくなっているのは由姫一人だけ。彼はいまだかつてない胃の叫びを聞いて、こころなしか襲いかかりつつある頭痛に頭を悩ませていた。茶碗が割れたり鍋がひっくり返ったりの実質的な被害はないが、これはたまったもんじゃない。まるで昼メロのような修羅場だ。由姫は、改めてここ最近の出来事を、ゆっくりと思い返して現実逃避を図ることにした。そうすると、絶えず絶叫をあげていた喧騒を、少しだけ遠くに感じることが出来たような気がした。

 もう言葉は出尽くしたのだ。これ以上の効果は期待できない―――というか、効果なんてものは最初から皆無だったわけだが。諦めることも賢い選択と悪魔が囁き、由姫は項垂れた。
 日が経つにつれてそれ―――イ−37号の存在―――が馴染んでくる事実に気づいた時、由姫は少なからずショックを受けて、あいやちょっと待たれい俺、とかなんとか言って、三時間ほど掃除機の音と鼻唄が響くリビングから遠ざかった自室で自問自答をしたこともある。でも問題は解決することもなく、自分には出来ない家事をしてくれているという事実もあり、結局由姫はその日のうちに正式に彼女の同居を認め、彼女にその旨を伝えた。言い換えれば、認めざるを得なかったとも言える。

 テレビには若手のお笑い芸人たちが、芸能界の重鎮たちを相手に自分達のネタを必死に披露している姿が映っている。リモコンでチャンネルを変えると、映画がやっていた。英語だったが、字幕が出ていたので見てみることにした。確か、一昨年ぐらいに「全米ナンバー1」の触れ込みと一緒に全国のたくさんの映画館で公開されたやつだ、と由姫は思い出していた。全米ナンバー1はそこそこ人気が出て、興行収入一位の座を三週間守った。そこからはずるずると転落していって、今は「あぁ、そういえばそんなのも」程度になっている。
 そんな日曜日の昼下がり、イ−37号は今日も所狭しと家の中を駆けずり回り、由姫はリビングのソファーでだらけていた。しかし寝っ転がっているだけではなく、由姫は本をまじまじと読んでいた。しばらくしてから、読み終わったらしく、本を閉じた。「日墨教授の鰈なる日々」と銘打たれた、著者のネーミングセンスというか思考回路に一抹の不安を覚える本をソファーに置いて、由姫は起き上がった。「よし」と、小さく呟いて。
 イ−37号は上機嫌な表情で、ノリノリロッケンローな感じの動きをしつつ掃除機をかけている。それが本当に効率がいいものなのかは判らないが、由姫は家事に対してとやかく言える立場ではないので、許容するしかなかった。彼女が来るまではそれはそれは壊滅的な生活であり、洗濯は一週間に一度すればいい方で、料理はすべて外食かコンビニ弁当で済ます。なんとも頽廃に頽廃を三乗くらい重ねた廃れきったスタイルである。そこを考慮すれば、イ−37号の登場はまさに救世主と崇め、奉っても過言ではない。それでも由姫は、いまだに心のどこかで彼女を認めていない部分がある。なし崩し的に家に住み着かれて、ずるずると流されているというところに納得がいかないのだろう。イ−37号は自分を由姫が助けた猫だと言い張っているが、それが本当かどうかは定かではないわけである。本当のことを言わない彼女を、このまま家に置いておいていいのだろうか。由姫は考えていた。
「どうかしたんですか、由姫さん? 人のことを、こう、品定めをするような目つきで見て―――はっ、ま、まさか。お天道様がまだわたしたちの生活を生暖かくそれでいてしつこくなく平等に見守っていてくれているという真昼間から女と男の交錯しあう愛憎劇を巧みに深く描ききった昼メロも尻尾を巻いて時速300Kmで逃げ出すほどの濡れ場をねっとりとしっとりとしつこく甘美に展開するというなんとも若さにすべてを任せきった自堕落そして背徳を一身に受けつつでも快楽には逆らえないへへっ嬢ちゃん上の口は生意気でも下の口はこんなに」
「早口でそこまで言えるのは賞賛するけどもあいにくそういうわけじゃないので即刻黙れコンチクショー」
「ああっ、ここまで来て最後まで言わせてくれないなんて。こ、これが噂の放置プレイというやつですかっ!?」
「どこの世界のどこの種族間での噂だ」
 掃除機を操る腕をピタリと止めて、イ−37号は一気にまくし立てようとする。が、由姫がそれを遮った。
「なあ」
「はい、なんでしょう。さきほどの続きをリクエストですか?」
 違うと短く返して、由姫は表情を引き締めた。
「本当のことが知りたい」
 その言葉を聞くとイ−37号は「はぁ」と曖昧な返事をした。よくわからない、といったような表情だった。それでも由姫は続ける。今度は具体的に言った。
「お前の口から、本当のことが聞きたいんだ。……確かに俺は猫を拾って、風呂に入れて、飯をやって、一晩休ませた。んで、翌日首輪の間に小さいメモがあったのに気付いて、そこに書いてあった電話番号に電話して、飼い主に返した。その人は何回も何回も俺にお礼を言ったけど、……でもだからって、急にこんな非現実がやってくるなんて俺には到底思えないんだ。別に怒ってるとかじゃないし、なにかしようとも思ってない。一ヶ月以上経ってるし、もうお前この家の一員みたいなもんだからな。んで、酷なことを言うかもしれないけど……俺はお前が嘘をついているように見える。でもお前が本当と言えば、本当のことだって信じる。でももし、自分に疑念があって、俺のことを信じてくれるなら―――」
 本当のことを言ってくれ。由姫は真剣な面持ちで言った。その雰囲気に触発されたのか、言われた本人の顔も真剣そのものになっていく。
「……由姫さん」
 イ−37号が由姫の名前を呼んだ。躊躇ってはいるのだろうが、話したくないと言うことではないらしい。
「強制はしない」
 由姫がそう言うと、ばつが悪そうに俯いた。掃除機の音はいつの間にか止まっていた。由姫はただ、静かに待つ。そして、時は動く。
「まいっちゃいましたね。こんなに早くばれちゃうなんて」
 それは由姫の言葉を全肯定する意味合いを持つ。
 口調は落ち着いているものの、イ−37号は動揺を色濃く顕にしていた。それは今までの生活の中で見せたことのない、まったく新しい表情だった。由姫はそれを見て、―――どこかで見た?―――記憶を刺激された。それは手繰り寄せようにも長すぎて重すぎる糸だった。沈黙が、重い。
「でも、嘘ばっかりじゃないですよ。わたしは本当に、由姫さん―――あなたのお世話をするために来たんですから」
「そりゃまた、なんで? 俺はこのとおり平凡な高校生だし、得になるようなことはないぞ?」
「それでも、ですよ」
 そこでイ−37号は押し黙ってしまった。由姫は気の利いた言葉を捜すけども、何を言っても余計なものにしかならないような気がした。そうしてからまた幾ばくかの時間が過ぎて、
「―――それじゃあ、今夜。十一時に、屋根裏に来てください」
 イ−37号は今までの天真爛漫な笑顔ではなく、どこか悲しげで、でも懐かしいものを見るような笑顔を浮かべていた。由姫はその言葉に頷くしかなかった。
 同居を始めて一ヵ月と二十日、最初の難関はやけに大きく由姫の目に写った。

 約束の十一時になるには、あと八時間の時を経過しなければいけない。そのまま家にいても何にもならないと悟った由姫は、気を紛らわせようと街に出ていた。変わり映えもせず、見慣れたはずの街並みが、やけに大きく、そして見たことのないようなものに見える。由姫は溜息を吐いた。
 いったいなんのためにわざわざ、極々平凡で、どこにでもある家族のひとつである鳴沢家に転がり込んできたのだろうか。確かに両親は海外で講演をするほどには名を知られている音楽家たちではあるが、だからと言ってそこまで裕福なわけじゃない。ただ、普通に生活するよりは多少裕福といった感じである。なのでそういった金銭面等が目的ではないだろう。では、残るのはなんだろうか。
 由姫は、影も形も気配もないものに思いを馳せた。
 ―――やくそくだ―――
「……?」
 その時、脳裏をよぎった言葉があった。白で塗りたくられた風景が、目蓋に焼き付いている。いつのまにか噴水の近くまで歩いてきていた。近くのベンチに座って、由姫はもう一度、思い返した。
 ―――うん―――
「……なんだかなぁ」
 二つの断片が、由姫の思考回路の片隅に突き刺さる。男の子の声と、頷く女の子の声。でも肝心要のふたつの声の主は、ものの見事に霞に遮られて、輪郭すらも見ることも出来なかった。
「約束、ねぇ」
 なんでこんな記憶が自分の中にあるんだろう。由姫はそう考えた。これが記憶であると仮定する以上、男の子はきっと幼い頃の鳴沢由姫なのだろう。でも約束なんてしただろうか? 出来る限りに記憶を穿つが、びくともしなかった。次に、女の子について。誰だか分かりま千円、以上。心の中の真面目な由姫が、それをハリセンで殴りつける。ごめんなさいもうしませんと謝ってから、気を取り直してもう一度考えてみた。でも有効な回答は得られなかった。
「―――そういえば、俺あいつのこと何も知らないんだよなー……」
 年齢、住所、出身地、好きなもの、嫌いなもの、将来の夢、得意なこと、苦手なこと。
「あ」
 なんということだろうか、ありすぎる。そうだ、俺は、あいつを知らないんだ、何一つ。俺はあいつの断片すらわかっていない。本当のことを聞くよりも、なによりも、先にあいつのことを知るべきだったんだ。だから不安になって、俺は訊いてしまったのかもしれない。完全な先走りだ。
 背もたれに思いっきり背中を預けて、由姫は雲が流れる青空を見た。風に流されて、雲はどこまでも行くのだろう。
「あー……、どうすっかな」
 今更だが、なにかせずにはいられなくなってくる。そうだ、今すぐ家に帰って、なかったことにして―――。由姫がそう考えた矢先、
「せーんぱーい」
 暢気で澄んだ声が由姫を呼んだ。

「………猫ちゃーん、ちょっとこっちにおいでー」
 太陽が傾きかけている午後三時半の鳴沢家には、今はイ−37号しかいない。縁側に座っていた彼女は、塀の上にいる三毛猫を呼んだ。イ−37号がじっと見つめると猫はあっさりと塀の上から降りてきて、軽やかなステップを踏み、縁側にごろりと寝転んだ。
「いいこだね」
 ちょっと太めのそいつを抱えあげて、イ−37号は額を猫の頭にくっつけた。
「それにしても、こんなに早くなんて思ってなかったなー」
 今度は膝の上に猫を降ろす。三毛はそのまま丸くなって、イ−37号はその様子を見て優しげに微笑んだ。
「懐かしいなー……」
 猫の喉を撫でながら、彼女は懐古感を含めてそう言った。猫は丸くなって目を閉じたまま、うなー、と鳴いた。

 陽角緋澄は十四歳で、中学三年生である。受験生、由姫の後輩、黒髪ツーテール、陽角市長の次女、万能人間。彼女を構成する肩書の一部だ。万能人間とは言っても、爬虫類と両生類と昆虫類は苦手。そんな彼女は今、由姫の隣にちゃっかり腰掛けていたりする。With笑顔。見ている方が恥ずかしくなるほど爽やかな笑顔で。
 世間話をしたりでかれこれ二時間以上が経過している。そうするとおのずと会話も減ってくる。
「……緋澄、なんか用があるんじゃないのか?」
 なんだかいたたまれなくなった由姫が、状況を打破すべく(ここから脱出するべく)突破口を設けようとした。緋澄はゆっくりと笑顔を由姫に向けて、
「受験勉強の息抜きですよ。なんだかんだで先輩のところ、けっこう偏差値高いですからね。県立なのに私立の進学校なみですよ?」
「なんだ、俺のところ狙ってるんだ。……まあ、大変だろうとは思うけど、頑張りたまえ後輩」
 由姫がそう励ますと、
「ええっ、そりゃあもう頑張りますとも!」
 やけに元気よく言い放ち、ベンチの上に雄々しく立った。某機動戦士、大地に立つ。みたいな感じである。
 由姫は腕時計を見た。午後六時になっているが、十一時まで自宅には近寄りたくないという思いが強い。帰ったって気まずい雰囲気が即座に形成されることは明白だ。そういうのはあまりというかかなり好きではない。さて、ここから退却したあとはどうしようかなあ、と由姫は考えた。
「ところで、先輩はこのあと暇ですか?」
 上の空の自分を見ずに、顔を赤くして俯く緋澄の問いに、由姫はつい「あ、ああ」と曖昧だけれども、肯定を意味する言葉を言ってしまっていた。気づいた時にはすでに遅く、緋澄は由姫を見て瞳をきらきらと輝かせていた。未知の圧迫感に圧倒される由姫を尻目に、緋澄は一気にまくしたてる。
「それじゃあよかったらうちで夕食でもどうですかお父さんも久し振りに先輩に会いたいみたいなことを言っていましたしそれに先輩が来てくれればわたしもそのごにょごにょ!」
「なんかお誘いを受けているみたいだけど、早口だからよく聞き取れないんだけどな、緋澄」
 ぜーはーぜーはー。息を切らす緋澄だが、その真意は由姫にあまり伝わっていなかった。肉を切らせて骨を絶つどころか、肉を切らせて骨も絶たれる、である。すっかりと拍子が抜けるほどの意思のすれ違いだった。
「よ、要するにですね、先輩。お暇でしたらわたしの家に来ませんかということですよ!」
 妙に力が入っていた。語尾に特に籠められていた。単刀直入に言ったこともあって、由姫は「ああ」と言って、「そういうことね」と納得した。
「まあ、そういうことならお邪魔させてもらおうかな」
 由姫がそう言うやいなや、緋澄はものすごい勢いで由姫に詰め寄った。後輩のあまりの奇行っぷりに、由姫は軽い恐怖を覚えた。
「ほっ、本当ですか!? ですね!? 男に二言はありませんね!? 士道不覚悟切腹ですよ!?」
「うん、段々お前が何を言っているのか判らなくなってきたんで、落ち着いて喋れ」
「す、すみません、つい興奮してしまいまして」
 自分の頭を叩く緋澄。そしてベンチから腰を上げて、由姫を急かす。
「ほら、善は急げですよ。急がないと、ここは冷えますからね」
「ん、あー。そうだな。んじゃ行こうか」
 促されて由姫も立ち上がり、暗くなりかけている道を歩いていく。
 秋も夕暮れ、赤とんぼが群れを成して飛んでいく。空を見上げる人はいないけども、それは確かにある。冬がもうじきやってくる。そう感じさせる寒風が吹いた。