暗い場所で眼を醒ました時、由姫はまずここがどこなのかということを確認することから始めた。
 でもいる場所が暗いので確認のしようがないことに気付いて、頭を左右に行ったり来たりさせて、半ばむりやり脳を活性化させた。そして昨日あったことを思い返し、都合の悪い部分だけを都合よく削除してから、無事に自分の部屋に辿り着いたことを思い出した。電灯からぶら下がっている長い紐を軽く引いた。瞬く間に白い光が溢れ出して、部屋を染める。毎朝のように時計を確認すると、午前の八時二十分だった。
「はっはっは」
 何故か笑う由姫。三秒間固まった後に、素早い動作で白いシャツと黒のジャージを脱ぎ捨てて放り投げて、タンスを上から下まで全段開け放った。今度は下から順に着替えを取り出しては、これまた素早く装着していく。小学生から続けていれば慣れというものでこうもなるのだが、いかんせん限定されすぎた特技のために陽の目を見ることはおそらくはない。着替えが終わり、鞄を持つと部屋を飛び出して階段を一気に下っていく。その姿はさながらスプリンターのような速さだった。頭の中を遅刻回避一色に染めながらリビングに入り、昨夜タイマーセットしておいた食パン二斤だけを取り出して、いざ―――
「あ、おはようございます由姫さん。随分慌ててるみたいですけど、もしかしてこのままだと遅刻ですか?」
「その通り、始業時間は八時四十分だ。だからお前に構っている暇はないぞって言うかまだいたのかとっとと出ていけ化け猫コンチクショウ」
 ワンブレス、それでいて間違いもなく、正確に早く。イ−37号は由姫の滑舌のよさにおぉーっと感嘆の声をあげ、拍手を送った。由姫はそれに目もくれず、玄関へと走り去っていく。追って、イ−37号も玄関に小走りで向かった。
「お帰りは何時ごろでしょう?」
「お前がいなくなれば午前中にでも帰ってくるんだけどな」
「あ、じゃあ由姫さん今日からホームレスですね。ダンボール持っていきますか?」
「うわーん、男女平等な社会はまだ遠いのかーっ!」
 解釈に少々困る言葉を残して、由姫は明るい世界へと駆けていった。太陽光が現れて、ふたりの眼球を擽る。由姫はそれには構っていられない時刻である事を理解しているので、早々に、オリンピック選手にも選ばれるかもしれない速さで走っていった。
「いってらっしゃ〜い、おみやげはいりませんからね〜」
 笑顔で、なおかつ手を振り、由姫を見送るイ−37号。前知識無し、先入観無しでこの笑顔を見れば由姫であろうとも陥落できたというのに、登場の仕方が強烈だったのでそれも不可能になった。さてと、と呟いて、彼女は家の中にそそくさと戻っていく。
「お掃除洗濯お皿洗い昼寝にご飯にお風呂、うーん。やりがいがあるなー」
 バンダナをきつめに絞めて、長袖を捲くり、ジーパンの裾を折り曲げる。見る人が見れば、と言うより見た人は全員専業主婦と思い込みそうな佇まいだ。本日で同居一週間になることもあり、中々さまになっている。
「それじゃ、二時間で四つ、済ませちゃおう」
 開きっぱなしになっていたドアを閉めて、イ−37号は家の中へと消えていった。十分後にがちゃーんだのきゃーだのどたんばたんだの聞こえてくることになるのは余談である。

 世の中はおしなべて平和である。学校特有の喧騒をBGMにして、由姫は机に突っ伏していた。平和っていいなぁ、とか思いながら。県立琴桜高等学校、略して桜高はつい一週間ほど前までは退屈が群れを成して固まっていたようなものだったのだが、今となってはそれが心の安らぎになっているという、なんとも思い切った転身である。よくよく考えてみれば、毎日同じ顔ぶれ同士でグループを作っているのも、女子と男子の間に越えられない溝を感じたりするのも、こういうものなんだと認識させてくれる大事なものなのかもしれない。別に達観してるわけでもなく、その中にいるのは楽しいわけである。特別なことやものはないし、必要な理由もない。
「あぁ、学校大好き」
 ほんの少し前までは行くのも面倒だった学校だが、今はこの空気が由姫を癒している。由姫の家での生活がどれほどキリキリしているものかは予想しやすい。ただでさえ突発的な事態に弱いのに加えて、その事態の根源が家に住み着いているのだから当然と言えば当然だ。
「おいおいどうしたんだよ鳴沢、学校大好きだなんて。ついにイカれちまったか?」
「いやー、勤勉に励むってことの素晴らしさを理解したというか」
 そのあとにやっぱ学校はいいなぁ、と言うとそこで丁度チャイムが鳴った。クラス中に散っていた生徒達がぞろぞろと自分の席に戻っていく。由姫は楽しそうにそれを見ていた。一時間目は、数学。

 人口およそ五万人。由姫たちが住む陽角市はその五万と少々で構成されている。大都市東京が地方発展事業と称して、少し寂れたアーケード街を今のような超近代というより近未来的な佇まいにした。無駄に金をかけすぎと評されているにも拘らず、結果的に事業は成功したと言える。開発着手と同時に駅に掲げられた「国が全面的協力・超未来都市開発」という横断幕が功を奏したのか、それともマスコミの連日連夜の報道が原因なのか。とにかく観光客が押し寄せるようになって、街の経済が潤った。そこからはトントン拍子で話と開発が進んでいって今に至る。駅前の噴水の傍には用途が限定されるどでかいスクリーンがあったり、大手のデパートが我先にと次々に傘下の店を出してきたり、学校が週休二日制を俊敏に取り入れて在校生が喜んだり。いまや陽角市は、全国でも類を見ない発展途上の先進場所でもある。
「八百屋さんってこの街にはないんですよねー。不便だなー」
 とかのたまいながら、イ−37号は商店街を歩く。八百屋がないというのは本当のことで、どこを探しても陽角市には陰も形もない。開発初期の頃にはあるにはあったのだが、売れ行き不調、借金こさえて夜逃げというコンボが炸裂し、八百屋はこの街から消えたのだ。大手スーパーは八百屋が消えたことにより見計らって計画案を開発責任社に持ちかけて、そしてまんまと開店させた。偶然の連続とはこのことで、げに恐ろしきものである。
「あの雰囲気がけっこう好きなんですけどねー」
 どの雰囲気だろうかと悩みどころ満載である。イ−37号は中速で歩いていって、しばらくしてスーパーに辿り着いた。通い始めて五日目なので、迷ったりはしないのである。
「今日の夕食は何にしようかなーっと」
 店に入ってすぐ手前にある野菜コーナーを見ながら、イ−37号はひとつひとつ手にとって品定めをする。しばらくして、レタスで手が止まった。食い入るように見詰める。その真剣な眼差しは、けして紛い物を選ぶ愚かなものではない。
「この萎びた感じがなかなか様になってますね」
 というのは希望的観測であったりする。

「というわけで今日の夕食は白いご飯にお味噌汁に鮭の塩焼きに萎びた感じがたまらない野菜炒めですよー」
「ほうなるほど。ちなみに教えておくが、萎びているのはクオリティに問題があるということだぞ猫」
「あははー、由姫さんは男の人なのに細かいですねー。そんな意地悪をいう子はめっ、ですよー」
「細かいか? 細かいのか?」
「そしてわたしの名前はイ−37号です。猫なんて、殺風景な白い部屋を連想しそうな寂しい名前で呼ばないでくださいねー」
「ええいお前なんぞ猫で十分だ。それにそのイ−37号ってのはなんだ、本当の名前か? お前はロボか、ロボなのか? ありきたりな型番なのか?」
「ロボ、だなんて由姫さん言い方が古いですね。もしかして和風をこよなく愛する江戸っ子ですか?」
「ああこんちくしょう。誰か助けてください」
 席を立って天に祈る由姫を尻目に、イ−37号は鮭を頬張る。「うーん、我ながら会心の美味しさです」と嬉しそうに言っている。そして箸を止めて、
「由姫さんもこれを食べて改心なさってはどうでしょう? あ、今ちょっとうまかったですね」
「うまくねーよ」
「会心と改心、我ながらうまい言い回しですねー」
「無視されちゃいました俺。今、家の主は俺なのに」
 流れそうになる涙を堪えて、由姫は夕飯を口に運んでいく。時々顔を顰めるが、文句は出てこない。
「美味しいですか?」
「なっ」
 ずいっと身を乗り出したイ−37号が、真剣な表情でそう訊ねてきた。由姫は気圧されて、思わず後ろに椅子ごと退いた。しかし彼女はさらに乗り出してくる。
「Yes? or NO?」
 なぜそこだけ英語なんだ、という突っ込みは心の中に留め、由姫は気まずそうに目線を逸らす。イ−37号は待ちきれないのか、そわそわしだした。このままではテーブルがいい感じで傾いてがちゃーんとかやってしまいそうである。
「あー、なんだ。……まずくは、ない」
 いたたまれなくなった由姫が、ぼそっとそう言った。それでも聞き拾えたらしく、イ−37号はにっこりと笑った。
「はいっ、よかったです。不味くなくて」
 ドキドキしちゃいましたよー、とか言いながら、すすすと自分の席に戻っていく。由姫はぼけっとしながら、その様子を見ていた。再び着席したイ−37号はそんな由姫を見て、どうしたんですか? と訝しげに訊ねた。
「あ、ああ。な、ななな、なんでも、ないでござるますわよ!?」
 どこぞの江戸村か、女学院にでも行ってきたのだろうか。日本語を疑われそうな口調で、由姫は自身の正常を訴える。説得力の欠片どころか、原子すら見えない。原子は肉眼では見えないものだけれども。
「ここに来て一週間ですしね、料理にも少しは慣れたつもりですよ」
「……そういやもう一週間になんのか。適応力ってやつは凄いと思いました、まる」
 俺万歳、おめでとう俺、そして誰か助けて。由姫は切実さを含めて言った。すると向かいの席に座るイ−37号が再び身を乗り出してきた。
「はい、助け船ですよー」
「ああ神様、このおなごに自覚というものをのしつきでくれてやってください」
 今夜も、鳴沢家は賑やかである。

 月光が窓から臨めた。照らされる形で、イ−37号はそれを見上げている。そして視線を逸らし、
「今日も楽しい一日でした、まる」
 よく見ると、鉛筆を持ち、ノートに何かを書いているようだった。ここは屋根裏部屋であり、ここに住む際に彼女自身が希望した自室である。由姫もそれほど鬼ではないので、汚いから止めた方がいいと言ったのだが、彼女は頑なにここを望んだ。由姫は彼女の物凄い剣幕に頷くしかなく、のちに自室で自分の威厳について小一時間考えたのは余談である。一日かけて掃除をした屋根裏は、元のものと比べて別物になっており、由姫が心ていから驚いたのは彼女の記憶に新しい。
「イ……っと、いけない。今はイ−37号だもんね」
 消しゴムを誤字の箇所にあてて、擦り付ける。そしてイ−37号と書き記した。ノートを閉じて、なぜか備え付けてあるベッドの中に潜り込み、灯りを消した。
「おやすみなさい……むに」
 寝つきがいいらしく、目を閉じて二秒で寝息を立て始めた。
 空には、ひとりぼっちの月がある。幸せそうな寝顔のイ−37号を、優しく照らしている。