いちばん初めにそれを見た時、鳴沢由姫はそれはもう驚いた。この世に生を受けて十六年、それはもう絵に描いたような平凡の日々の連続。小さい頃からの呼び名である「姫」ももうすでにしっくりくるまでに日常に溶け込んでいる。姫じゃねーっつーのに、というツッコミは中学一年生で無駄だと悟り、それでいいじゃないかと思うことにした。我ながらかなり前向きと鳴沢由姫は評している。それからは、どこにでもいる学生の生活となんら変わることはない。テストが近付けば理由もなく部屋の掃除を始め、休みになれば友達と街中をぶらぶらし、答案が返されれば頭痛を催し、異性との距離のとり方に四苦八苦したり。やはり女子と男子はそう簡単には相容れないもので、そんな気軽には互いの領域に入れないもので、その領域を侵す、もしくは侵そうとした場合はその後の学校生活に甚大な被害を与えることを覚悟しなければならない。しかし由姫は可もなく不可もない付き合い方を無意識に知っている擬似的な賢者なので、その手の問題を起こしたことはない。
 由姫が困った表情のまま、視線を空間に泳がせる。視線の先には天井があるが、それだけだ。しかし、現在教室の中にいる学友全員の視線はそうはいかないようで、由姫をじっと見ている。それに耐えられないらしく、由姫の両目はあっちを向いたりこっちを向いたりで忙しい。全開の窓から冷気を少量含んだ風と、茜色がかった光が舞い込む。が、それらは事態の改善、もしくは展開にはなんら関係がないもので終わった。しかし、寒いなぁ、と知覚できた由姫は咄嗟に現実へと戻ってくることに成功した。自分を見ている奴らは、いまだに現実を受け入れられずにいるんじゃないかな、由姫は考えた。誰しもぴくりとも動かないので、結果それは当たっていたらしい。この異質な空間で唯一自我を復旧した由姫は、まず自身に纏わりついている「異変」に着目した。おそらくはそのせいで、こんな奇怪な状況に陥っているのだろうから、ならばそれを排除することが自分の勤めだ。由姫は決心して、
「あの、どちらさまでしょうか」
 時間謹慎が解かれる。由姫に集まっていた視線は、一斉にその胸部方向へと向いた。
 流れるいくばくかの沈黙の時間はけして心地いいものではない。全員が身を凍てつかせるような緊張感に一秒一秒苛まれながら、誰かのアクションを待った。それは由姫も例外ではなく、静かに、ただ静かに時を待つ。
「………」
 この事態の原因は押し黙っている。由姫に抱きつき―――頭を胸に押し付ける恰好で、腕を腰に回して、けして離れないように引っ付いている。頭一つ由姫より小さいそいつはこの学校の制服を着ていて、なぜか迷彩模様のバンダナを頭に巻いていた。それはけっして髪を纏めるためではなく、ただ巻いているだけで、黒髪は肩よりやや下の辺りで風に揺られている。名乗ることも喋ることもなく、放課後になって三十分が経過した教室に突然現れて残っていた生徒達の注目を集めたと思ったら、たまたま黒板の前に立ち日直の責務を果たしていた鳴沢由姫に迫りより、振り返った途端に抱きついた。まさに度肝を抜くとはこのことだ。そしてそこから十分、この姿勢を維持している。
 時計の針が動いて、四時になった。
「なるさわ、ゆうきさん、ですよね」
 小声が漏れて、由姫だけに囁いてきた。ゆっくりと顔を上げると、どこか期待を含んだ瞳で由姫を見ている。
「う、うん。そうだけど……?」
 か細い声で由姫は答える。クラス中の視線を一身に集めながらもなんとか頑張る姿は、ある意味健気だった。そして問いに答えた由姫に向けて、彼女はなぜか微笑んだ。それはひとかけら、断片たりとも汚れていない、限りなく天使に近いと呼べる微笑だった。
「初めまして、今日からあなたの身の回りのお世話をさせていただくことになりました、イ−37号と申します」
「へ?」
 彼女のあまりにも衝撃的な小声の挨拶に含まれたなにやら聞き逃せない単語をキャッチして、由姫は目を白黒させると反射的に「ど、どういうこと?」と訊ねた。その反応は予測済みだったのか、彼女一歩後ろに引くと、黒板の右端に立って、「それはですねー」少しおどけるように言った。
「ここではなんですので、もっと人気がない場所が好ましいのですが……」
 なぜかその言葉だけを大きめの音量でのたまうイ−37号。それが彼女の正式名称かは不明である。今まで石造人間と化していた残存クラスメイト達はその一言で封印が解け、動き出す。由姫目掛けて一斉に詰め寄った。その迫力に気圧されて由姫は「ひっ」と未知との遭遇を果たしたような声を上げた。
「おいこら鳴沢、どういうことだよ!」
「きちんと説明してくれ!」
「裏切り者に死を!」
 様々な言葉が吐かれては消えていき、由姫の鼓膜に沁みていく。集団と距離をとるために黒板に向かって右に移動し、するとイ−37号と並ぶ形になった。その間にも増していく少数精鋭による罵詈雑言、羨望の嵐。しかし由姫は気にもしていないようだった。溜息を吐いてから、
「誰が裏切り者だ誰が。大体、この子と俺は今日が初対面だぞ」
 紛れもない真実を口にした。それで引き下がってくれれば今日の出来事は遠い日の思い出として老後に「ああ、こんなこともあったなぁ」と友人との語り合いの肴にでもなるのだろうが。現実はそれほど甘くはないのが、紛れもない現実である。
「えぇー、ひどいですよ由姫さん!」
 その証拠として、甲高い声で由姫を非難する少女が一人。おもむろに由姫の腕に絡み付いた。驚きのあまり振りほどくことも出来ずに、由姫は固まる。
「三日ほど前、寒空の下で震えてたわたしを介抱してくれたじゃないですか!」
 由姫だけでなく、あれだけ喧々囂々としていた集団すら黙らせる魔法が炸裂。それだけでは飽き足らず、彼女は「わたしの全身をタオルで拭いてくれて」だの「お風呂に入れてくれて」だの「一緒のお布団で眠りましたー」だの、止まらない。ここは高校。健全なる生徒達を育成するための教育委員会傘下の愛すべき学び舎。広がるグランドは体を動かすには絶好の場所。生物室、物理室、音楽室、図書室、エトセトラ。知識と教養を心と体に学ばせる場所。入学してから卒業するまでの三年をここで過ごし、友人とはしゃぐもよし、恋人を作るもよし、大学目指して一直線もよし。まっすぐな精神を育む、神聖たる聖域。もしも彼女が繰り返し言い続けていることが真実なら、鳴沢由姫十六歳は不健全で自堕落という烙印を押され、とりあえず一週間ほど家での閉じこもり生活を余儀なくされる。両親は都合をあわせたかのように、揃って海外公演の真っ最中だ。となると、家には彼ひとりしか残らない。起きたら置手紙だけで知らされました、いやそんな馬鹿な!? 彼はあの時そう考えてから、置手紙に見事なツッコミをした。今思い返してみても、やや苦い思い出である。今から一ヶ月ほど前のことだが。
 由姫は思い出す。三日前に何があったかを、自らの名誉に賭けて。スコップでざくざくと地面を掘り返していると、心当たりに衝突した。しかしそれは信じられない思い出で、ただ単に親切心が沸いただけでありましてー、己の心の内で自己弁護をする。由姫の困惑を見て、イ−37号はにんまりと笑うと、自分が絡みついている腕から離れた。
「と、とりあえずこの場から緊急離脱即刻脱出戦術的撤退!」
 言語能力の崩壊を疑われても仕方ないほど、由姫の言葉はツギハギだらけえある。イ−37号の腕をがっちりとホールドし、教室から疾風の如き速さで駆け出す由姫。突然の来訪者の突然の行動と突然の告白に固まりつくしていた残存勢力も由姫(とイ−37号)が走り去ったことにより意識を取り戻す。目の前から消えているクラスメイトとそいつに用があると思われるけっこう可愛い女の子。方程式作成完了、答えは高速で弾き出された。
「まだそんなに遠くまでは行ってないはずだ、探せぇー!」
 おー。
 ワールドカップ各国代表にも勝てそうな団結力を見せつけ、教室を起点に散らばっていった。すべては由姫を捕まえ尋問するためという、不純物に塗れた動機だが。



 後ろを振り向いてから追っ手が来ていないことに安心して、由姫は乱れた呼吸を整えようと深呼吸をしながらゆっくりと近場を歩く。まだ四時過ぎだけれども、林の中はかなり暗い。太陽光が届かないためなのだろうが、夜と偽ったらエイプリルフールでもないのに騙される人が続出するかもしれないほどの暗さ。かなり離れているものの学校の敷地内にあるとは言え、この林に立ち入ってくる人間は少ない。まずは第一に、雰囲気が逸脱して不気味だからである。一般的な思考回路と判断力を持つ人間ならここには余程のことがないと近付かない。そういう場所は七不思議や怖い話の発生源として根も葉もない噂を立てられるのがスジであり、ここも例外ではない。おそらく、この学校で好き好んでここに入ってくるのは鳴沢由姫ただひとりである。
「んじゃ、確認するけどさ」
 そう言って由姫は季節外れの赤とんぼを追いかけるイ−37号を手招きする。名前を呼ばれ、彼女はなんだか嬉しそうに由姫に近付いてきた。
「あの時の、だよな?」
「だからそう言ってるじゃないですかー」
 むくれて抗議をするイ−37号。由姫はまいったな、と呟いて、頭を押さえてしゃがみこんだ。
「はぁ………、実際にこんなことがあるなんて信じられねーっつーのに」
 座り込んで悩む由姫の傍に自分もしゃがんで、イ−37号は―――
「うひぃぁ!?」
 由姫の顔を舐めた。それはもう舐めた。舐め尽くしたと言っていいほどに舐めた。その行動はまるで、飼い主にじゃれ付く猫のように見える。五分ほどしてから押し倒されつつも冷静さを取り戻した由姫は、頬を舐めてきた少女を強引にひっぺがした。するとたちまち、イ−37号は心底残念そうな表情になった。
「あ、ああ、えっと、その」
「くすん、由姫さんの意地悪。わたしが元猫だからって苛めないでくださいよー」
 目の前で女の子に泣かれれば誰だって困るものである。てっきり由姫も困っていると思えば―――
 それとは別のところで困っていた。今、彼女の言葉の中に含まれていたものはなんだ? 自問自答してから、数秒前を思い返した。
『わたしが元猫だからって』
『元猫だからって』
『元猫』
『猫』
 何かが凍りつき、融けた。
「ああ、やっぱりぃいいい」
 確信はしたものの、心のどこかで信じきっていない部分があったのだろう。しかし本人が自分の正体を一言一句漏らさずに白状してくれた。しかも三日前、彼には学校から帰る途中に、雨に濡れて弱っている一匹の猫を助けた記憶がある。三日前という女の子の言葉、猫。符合しすぎる事実。そう言えば、首周りに首輪のようなものが巻かれているように見える気がしないでもない。流石に耳と尻尾は生えてなかった。
「まぁまぁ、これが現実なんですからきっぱりと受け入れちゃいましょうよ」
 落ち込む由姫の肩を、ぽんぽんと叩くイ−37号。さながら、リストラされたサラリーマンを慰めるかのように、ただぽんぽんと肩を叩いている。
「それじゃー、由姫さん。これからよろしくお願いしますね」
 意識を保っているかも怪しいほどに燃え尽きている由姫が視界に入らないのか、イ−37号は言葉を続けていく。茫然自失に陥りながら、由姫は青いタヌキロボット助けてー、と呟いたという。